明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

『明暗』に向かって はじめに(2)

56.『明暗』に向かって 「はじめに」(2)――漱石幻の最終作品


漱石「最後の挨拶」番外篇]

 漱石の三部作といえばまず『三四郎』『それから』『門』というのが定番だが、続く『彼岸過迄』『行人』『心』も、短篇を並べて一箇の長篇にするという手際においては、これも立派な三部作である。
 そしてそのあとにくる晩年の三部作とは、『道草』『明暗』ともうひとつ、これは想像するばかりであるが『明暗』の後に書かれたであろう漱石の(真の)最終の小説がこれにあたる。
 この結局書かれることのなかった小説は、漱石が意図的に最後までとっておいたもので、それは初恋の成就あるいは不成就を扱った作品ではないか。
 漱石の最晩年に使っていた手帳に「男二人が一人の女を思う。一人は消極、一人は積極。後者遂に女を得。前者女を得られて急に淋しさを強く感ずる。居たたまれなくなる。人生の意味を疑う。遂に女を口説く。女(実は其人をひそかに愛している事を発見して戦慄しながら)時期後れたるを諭す。男聴かず。生活の真の意義を論ず。女は姦通か、自殺か、男を排斥するかの三方法をもつ。女自殺する(と仮定す)。男茫然としてまた自殺せんとして能わず。僧になる。又還俗す。或所で彼女の夫と会す」という記述がある。
 これは『それから』や『門』のメモではない。(『明暗』のメモでは尚更ない。「初恋」という俗な言い方を避けて「未練」に置き換えれば、未練の追求というテーマは『明暗』(そして『道草』さえ)にも重なるが、それは漱石によくあるように一部重なっているだけである。)
 この手帳は『明暗』を書き始める年の創作ノートである。体力の衰え著しかった漱石は、『明暗』を書き進めながら、この残された「構想」(実際は自作の構想ではないかも知れないが)と「失われた初恋」(それは生と死のようなあるいは父と母のような、人間にとってただ一つのものである)という積年のテーマを併合させて、自身の最後の小説にしようと思っていたのではないか。
 ではこの最後の三部作の共通点とは何か。それは漱石が自ら「則天去私」という言葉でとりあえずその答えらしきものを指し示している。

 漱石は『道草』で始めて登場人物の言動に自己の文学的斧鉞を加えないやり方を試みた。それまでの漱石はどちらかと言えば作中人物すべてに対して自分が黒子になって彼らをコントロールしてきた。主要な人物に対しては黒子どころか生身の漱石が本人たちに溶け込むようにして行動を律した。
『道草』から漱石は趣向を変えて、登場人物に深入りすることを避けるようになった。漱石本人たる健三も含めて、『道草』の人物はこれまでのような漱石的な主張がない。『道草』の人物の振舞には「漱石臭」がない。当時の(そして今も)読者・評者がこの小説に対して貼り付けた(漱石の嫌う)いくつかのレッテルは、当時の(そして今も)漱石のこの新しい試みがどのように理解(誤解)されたかを示している。これまで作品に漱石的主張の充満していることを理由に漱石を受け容れなかった一部の評者は、まさにその漱石には関係のない理解もしくは誤解を理由として『道草』からは自分たちの態度を改めたのである。
 新しい方針は続く『明暗』にも装いを変えて受け継がれた。『明暗』の人物たちは、(例え漱石丸出しであっても)もうこれまでのようには自らの一挙手一投足まで漱石の意のままになるということをしなくなった。彼らはより自分勝手に行動しているように見える。これは漱石が意図的に企んだというよりは、『道草』で何らかの解放感・手応えを得たためとも考えられるし、あるいは単に健康上・年齢上の理由によるものかも知れない。しかしこのことを漱石は「則天去私」と呼んだのである。
「天」とは漱石の辞書では神もしくは自然ということであろう。「私」はもちろん漱石もしくは登場人物本人のことを指す。すなわち自分(または漱石)を去って自然(または神)の命ずるままに行動し始めた登場人物たちによって、『明暗』の物語は進んでゆく。『明暗』の人物はあたかも漱石の制御が効かなくなったかのように自由に振舞い始める。物語が長くなる所以である。
『明暗』が完結したと仮定して、そのあとに予定された最後の長編小説はどのようなものになるだろうか。『道草』のように過去の自分のある体験を素材にしつつ『明暗』のように登場人物は作者の趣味を離れて意外の行動を繰り返すのであろうか。

①初恋の人との出会いと別れ
②未練そして再会
③最初で最後の告白
④驚き同時に喜ぶ女
⑤始めて自分の力で勝ち取った至福
⑥運命による復讐と女の死
⑦贖罪の日
⑧友との邂逅と最後の会話
⑨救いと復活(があるかないか)

 まるで九つの楽章を持つオラトリオのように奏されるであろう漱石最後の作品を以って「則天去私三部作」は完成される(はずであった)、というのが論者の考えである。
 しかし言うまでもないことだが、われわれはその前に『明暗』の結末を迎えなければならない。本論考はひとまずはそのためのものである。