明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 21

356.『野分』どのような小説か(4)――『明暗』への道


 前項で述べた、漱石作品が「いつまでも読まれ続ける」ということで、すぐに思いつくもう1人の作家太宰治について、本ブログ草枕篇(6)でも取り上げた堤重久によって、作家本人の(初会の日の)こんな言葉が紹介されている。

「七時半か、八時におきて、きっちり九時から机に向うんだ。四時間ぐらい仕事をすると、もう疲れちゃってね、小説がいやんなっちゃってね、誰か来ねえかなとそわそわしだすんだ。お前は、勘がいいよ。ちょうど、そわそわしだしたときに現われたからね」

「お前は、学生だから、朝寝坊してもいいけど、しかし大人になったら、職業をもったら、たとえ作家でも、朝寝坊は許されないんだ。夜更かしもいけないんだ。土方でも、サラリーマンでも、朝から気を使って、額に汗して働いてるじゃあないか。それを考えたら、のうのうと寝てられやしないよ。芸術家だって、市民なんだ。お互いの協力で、暮らしてゆけるんだ。芸術家には特権ないよ。市民とちがう生活をする権利なんか、どこにもありゃしないよ」(以上堤重久『太宰治との七年間』1969年筑摩書房版より)

 口調こそ違え漱石も同じことを学生に言ったはずである、ということはさておき、堤重久自身の書くところによると、『一燈』の掲載された「文芸世紀」(昭和15年10月号)を買って、家に帰る時間が惜しくて淀橋図書館でそのページを読んだ。そのとき周囲の坊主頭を見渡して、(三鷹に住む)太宰に会いに行こうと決心したという。このとき昭和15年(1940年)10月(堤重久は「初冬」と文学青年らしくはっきり書いている)、太宰治32歳、初対面の帝大生堤重久24歳である。これは『野分』の物語開始時の今現在、明治39年(1906年)10月における道也先生34歳、「初対面」の文学士高柳君26歳に、ほとんどスライドしている。

 前項で紹介した道也の講義録自体は、(芸術家に限らない)汎く文学を志す者に向けたメッセージであろうが、漱石太宰治も、謂わんとするところは同じである。聴き手の青年(文学青年)に与えるインパクトも同様であったと推測される。
 この研究・創作に対する真摯な態度表明は、長く学者生活を送り、晩くに小説を書き始めた漱石にとっては、始めから自明の理であったろうが、おそらく『猫』『坊っちゃん』『草枕』の筆致をその後封印した直接の原因になったと思われる。漱石は(出来に不満足だった『草枕』は別としても、)「書こうと思えばいくらでも書ける」と豪語した『猫』『坊っちゃん』の続篇を書かなかった。
 江戸の粋人の流れを汲む漱石にとって、自らを枠に嵌め込むような小説を書き続けることは、何よりもまず自身の気持ちが落ち着かなかったのであろう。「『猫』の漱石」「余裕派の漱石」「高等落語の漱石」というようなレッテルを貼られるのも癪に障る。「繰り返しは3度まで」という楽曲に似た約束事は、3部作のセットを3回を限度に積み重ねるという、その後の漱石の著述家人生を規定した。

①『三四郎』『それから』『門』
②『彼岸過迄』『行人』『心』
③『道草』『明暗』『(幻の最終作品)』

 これはもちろん後出しジャンケン的物言いではあろうが、(19世紀の)交響曲作家の「9つの交響曲」の現象に(外形だけでも)つながるものであり、あのドストエフスキィさえ、次のように集約可能である。

①『貧しき人々』『死の家の記録』『虐げられし人々』
②『地下生活者の手記』『罪と罰』『白痴』
③『悪霊』『未成年』『カラマゾフの物語※』
(※『カラマゾフの兄弟』とその書かれなかった続篇の総称)

 もちろん太宰治はこれらを19世紀の遺物(偉物)扱いして、(ドストエフスキィはともかく)漱石を「俗中の俗」として排した。20世紀の芸術の美はもっと目立たない、ひそやかにも小じんまりしたものの中にこそ存在するというわけである。慥かに漱石もまた19世紀の人間ではあった。
 しかし太宰治の言にかかわらず、たとえ『野分』(明治39年(1906年)執筆)が古生物であるにせよ、同じ構造物から成る『明暗』(大正5年(1916年)執筆)が、現在から見るとやはり(明治42年(1909年)生れの太宰治と同じ)20世紀の小説であることは、否定しようがない事実である。前項冒頭に掲げた『野分』の対決構造は、『明暗』の主人公たちによって、より複雑な進化をとげていたと言える。それは例えば次のように示すことが出来るだろう。

◇『明暗』主構造
(物語の筋書に直接影響を与える5人衆プラスワン――「津田・お延・小林・吉川夫人・お秀+清子」による果てしのないバトル――前著による)
津田 VS. お延
②津田 VS. 吉川夫人
③津田 VS. 小林
④津田 VS. お秀
⑤津田 VS. 清子
⑥津田・お延 VS. お秀

お延 VS. 津田
⑵お延 VS. 吉川夫人
⑶お延 VS. 小林
⑷お延 VS. お秀
⑸(※1)
⑹(※2)

◇『明暗』副構造
〇津田 VS. 藤井の叔父叔母、真事、会社の吉川、小林医師、看護婦、鉄道の相客、宿屋の女中手代、浜の夫婦・・・
〇お延 VS. 岡本の叔父叔母、継子、百合子、お時・・・

 これらが入り組んで、互いに収拾のつかないほどのバトルを繰り広げるのが、『明暗』という未完の小説である。(話は逸れるが、未完のままで、かえってよかったのではないかと、『夜明け前』『暗夜行路』や『細雪』を読み了えて釈然としなかった一部の読者は、もしかしたら思うかも知れない。未完だからこそ『明暗』や『大菩薩峠』に不朽の価値を見出そうとする変物読者も、中にはいるのではないか。――変物と言ってはいけない。『源氏物語』も『西遊記』も、未完と思って読む方が鑑賞はしやすい。作者の究極の意図に辿り着かなくてもいいからである。その最たるものはイエス福音書であろうか。飛躍するようであるが、太宰治も『人間失格』でそのキャリアを了えたと想像するとき、『グッドバイ』に計り知れない存在価値を見出すことが出来よう。――この話はヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』の中の、「我々の生は縁を欠いている」という言葉に奇妙にも合致する。)

 ちなみに『明暗』で唯一書かれなかった、お延 VS. 清子の組合せ(上記主構造の表の※1)や、津田・お延 VS. 清子の組合せ(※2)が、続篇で実現するのではないかという意見には、論者は与しない。『明暗』は凡人津田に対する愛の獲得合戦の物語ではない。加えて清子がお秀と同列に扱われるわけのものでもないだろう。津田お延連合軍が対峙するのはお秀だけで沢山である。津田と血の繋がったお秀だけに与えられた特権である。吉川夫人や小林も、津田とお延両人に同時には向き会っていない。小説の始めからそういう造りなのである。

 そもそも癇性の漱石の主人公が、2人の女を同時に好きになることなどあり得ない。津田はかつて清子には惚れていたかも知れないが、津田はお延に惚れていない。津田の今現在は誰にも惚れていない。ただこれまでのいきさつを(現実の夏目金之助のように)不思議に思っているだけである。
 津田に似て凡人で癇性の三四郎も同じである。三四郎が美禰子とよし子を並べて煩悶することはあり得ない。三四郎は美禰子には心を奪われたように描かれるが、よし子を(御光さんでも)恋の相手と見たことは一度もなかった。だからこそ与次郎はその2つながらに自己の論評を下したのである――「馬鹿だなあ、あんな女を思って」(『三四郎』12ノ5回)「あれなら好い、あれなら好い」(同9ノ5回)
 三四郎に自由意思はない。漱石も同じである。そのため小説に書くときは与次郎のような、(軽薄かも知れないが)自分で決断する男が必要になる。

 では『虞美人草』の小野さんはどうか。あれかこれかで迷っているのではないか。
 結論は同じである。小野さんにも自由意思はない。小野さんは誰にも惚れていない。漱石は始めから殺すつもりで藤尾を造型した。『虞美人草』は一時(いっとき)の人気は博したが、漱石にとっては失敗作だったろう。漱石は懲りて爾後オルタネイトの女性は作らなかった。『三四郎』のよし子、『それから』の佐川の令嬢は、その未練がましい名残りである。「あれかこれか」で迷うように描かれるのは(本当は迷っていないかも知れないが)、漱石の場合、女性に限られる。それは金田富子やマドンナの最初から、那美さん・美禰子・三千代・御米を経て、千代子・お直・静に至るまで、一貫した漱石文学の主柱となった。藤尾でさえ小野か宗近かで悩んだ痕跡はある。

 痕跡ということでは、『明暗』の清子もまた津田と関との間で揺れたことがあるのでは、と読者に思わせるような書き方である。しかし清子は湯河原の宿で津田と再会したとき、

①まず驚き、②警戒し、③翌朝風呂場や中庭での遭遇を用意周到に避け、④髪を廂に結って、⑤吉川夫人の果物籠を盾のように提げたまま、⑥笑う女中を従えて、

 津田を部屋に招じ入れた。この①から⑥までのすべてが、清子と津田の間にそれ以上の進展がないという、漱石のサインである。
 漱石はこれまでの伝統にしたがって、津田と2人の女(清子とお延)、清子と2人の男(津田と関)を配してはいるものの、彼らはもう「あれかこれか」で悩む存在ではなかった。それは『道草』からの連作がすでにそのように方向付けられていたとしか言いようがない。幻の最終作品も、女は2人の男の間で(三千代のように)悩むのではなく、最初積極の男と結ばれ、次に主人公たる消極の男に(漱石最初で最後の)告白をされて、女はそのとき始めて自分が消極の男を愛していたことに気付くのである。
 女が自死するのは消極の男に対する申し訳のなさが理由である。夫に申し訳ないと思ったのなら、そのまま結婚生活を続けるだけである。女が男との愛を優先させて、離婚-再婚の決断をしなかったのは、男に「正しい道」を歩ませられなかったという(漱石らしい)後悔の念が、新しく始まる生活のヴィジョンを上回ったからであろう。もちろん小説の主人公が消極の男であるからには、消極の男の都合で書かれていることは仕方がない。

 まあ、前著でも述べた幻の最終作品については、本ブログ草枕篇(7~9)を参照してもらうしかないが、清子の話に戻すと、お延と清子が直接バトルすることはないと思われる。なぜなら清子の愛を得ることについては、津田は物語の始まる前から敗北しているのである。『明暗』は津田とお延の(くそ面白くもない)夫婦の物語である。その点も『道草』から一貫した漱石の方針である。
 お延が清子と対決しても、事態は何も変わらない。お延は清子より前に吉川夫人に嫉妬した方が、まだ(物語の上では)理に適っている。
 前著(『明暗』に向かって)でも述べたが、最後に残されているのは、

・お延 VS. 吉川夫人
・お延 VS. 小林

 の最終対決だけであろう。
 お延と吉川夫人の組合せは、前哨戦では陰険な火花を散らしたが、それは気の毒にも従妹継子の見合いの席のことで、周りには吉川も岡本夫妻もいた。お延と吉川夫人の最終対決はもちろん1対1で行なわれるはずである。そしてお延と小林の組合せも、現行の物語の範囲ではまだ決着が付いていない。掘り返されていない芋はまだ残っているのである。しかしどちらの組合せも、読者としてはもう沢山だという気がしないでもない。もちろん「あの葡萄は酸っぱい」という意味に近い言いぐさではあるが。