明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 9

176.『友達』(9)――保護者付きのヒロイン


 三沢の「あの女」の初登場シーンに関連して、前著(『明暗』に向かって)から1項引用したい。

39.保護者付きのヒロイン

 『明暗』でお延が始めて登場したとき、お延は津田の前で独りで立っていた。清子の初登場シーンもそれに似ているように見えるが、該当の夜の廊下の場面は「夢幻」とも言えるから、真の登場は翌日、津田が下女に連れられて、一緒に清子の部屋へ導かれたシーンであろう。清子はそのとき果物籠を提げていたが、その籠は(ベテランの)下女が届けたものであること、あるいは元々はパトロンたる吉川夫人から出たものであることを、ここでは覚えておきたい。

 いったい漱石の小説ではヒロインが始めて登場するときは、その背後に庇護者のような人物(たいてい年長の女性である)が影のごとく付きまとっていることが多い。もし一緒にいなければ、そのときはちょっと席を外しているのである。
 もちろん『明暗』31回で藤井が話すように、未婚の女には父母という所有者が付いているとすれば、登場するヒロインの周囲に親等がいて何の不思議もないのであるが、漱石の作品には妙にこだわる何か別の要素が見え隠れする。
 一番典型的なのは前にも引用した『三四郎』の美禰子の登場シーンであろう。年上の看護婦であるのはいいとしても、「これは椎」とまるで「子供に物を教えるように」言った、と記されている。美禰子(里見のお嬢さん)は(子供らしさと全く逆の)落ち着き払った女として造型されているから、こんな叙述は明らかに何か別の意図が隠されていると思わざるを得ない。
「これは椎」という看護婦の言葉は、丁寧にも後日三四郎の前で美禰子によって繰り返されるが、よし子の初登場シーンでは、三四郎が袷を届けに行ったよし子の病室には、(そのときだけ)母親がいる。また三四郎の目を通して汽車の女が始めて描かれたのは、途中駅で乗り込んで来た爺さんとその女が一緒になったときからである。(このときは旅行中で鉄道の特別仕様になっていたのか、さすがに婆さんではなかった。)

 次に印象的なのはやはり『坊っちゃん』のマドンナであろうか。母親らしい「年寄りの婦人」と一緒に、温泉場へ行く停車所で始めてその生きた姿が描かれる。マドンナ(遠山のお嬢さん)の人物像はほとんど描かれず、言葉も発していないので性格も声も分からない。にもかかわらず名のみ高い。
 その逆を行くのが『行人』の三沢の「あの女」であろうか。登場場面では彼女は苦痛のためか、身体を折り曲げていたので顔はよく見えないが、そのうしろに「洗髪を櫛巻にした背の高い中年の女が立っていた」と書かれる。この中年女は置屋の古株の下女で、「あの女」に常に付き添う親代わりのような存在であると書かれる。しかし付添として情愛が全く感じられないのでよけい「あの女」の悲惨さが強調される。最後に「あの女」が三沢の遠縁の出戻りの娘さんと顔が似ているというオチらしきものが語られるが、漱石が長野一郎・二郎・お直の物語になぜこんなエピソードを長々と挿入したか、おかげで『行人』全体が分かりにくい小説ということになっている。

 庇護者が背後にはびこっているケースは、書かれた順に、『猫』の三毛子(二絃琴の師匠)、金田富子(金田鼻子)、『虞美人草』の藤尾(母親の謎の女)、小夜子(井上孤堂)、『それから』の佐川の令嬢(高木という見合いの付添)、『心』のお嬢さん(奥さん)、『道草』の御縫さん(島田の後妻)。
 『虞美人草』の甲野糸子は両親はいないものの、初登場シーンでは年上の藤尾にいじめられる役になっているから、「むきだしの」単独で初登場する未婚女性は、『彼岸過迄』の千代子だけということになりそうであるが、千代子は須永の家に入って行く後ろ姿を、敬太郎に目撃されるという非常に変則的な登場の仕方をしている。してみると千代子はやはり、漱石の中では市蔵と結婚すべく生み出された女だったのではないか。市蔵は漱石によく似ているが、千代子は鏡子とまるで正反対のタイプである。漱石は市蔵と千代子を結婚する前の段階で争わせることによって、自身にとって倫理的にやっかいなこの問題を回避しようとしたのではないか。

 これ以外の、あとの女はすべて「本当の」人妻である。人妻は当然夫とともに初登場することが多い。『それから』の三千代(平岡)、『門』の御米(宗助)、『行人』のお直(珍しく義母)、『道草』の御住(健三)、『明暗』のお延(津田)。清子は単独で津田の前に現れたようにも見えるが、前述のように宿の(年嵩の)女中が一緒にいるとも取れ、また清子自身自ら「果物籃」を津田が現れるまで持っていることにより、その送り主たる吉川夫人を盾にしているとも取れる。清子は人妻であっても、独りで温泉宿にいるという危なっかしい立場であるから、徒手空拳で津田に会うことは憚られたに違いない。
(ついでに言えば、『行人』のお直が夫とともに登場しなかったのは、お直が清子同様、人妻としては危うい立場にいると主張しているふうにも取れ、そのせいではないだろうが、後日お直は人妻にあるまじき実験に駆り出される。)

 その意味では、『草枕』の那美さんは異例であると言えよう(那美さんを独身女性と見なしても)。まったく単独で、初回は夜に歌声とともに影だけが見えるという、(『明暗』の津田と清子のような)夢幻的なシーン、そして主人公が寝ていると部屋に入って来るという、それこそ夢と区別がつかないシーン、翌朝はっきり主人公と対面を果たすが、それは温泉場から出ようとする主人公の先手を取って、まるで自動ドアのように戸を開けて、裸ん坊の(と思われる)主人公を驚かす。もちろん周りには誰もいない。これは那美さんが「出帰りのお嬢さん」であるが故の特別な扱いか。
 主人公の目の前で思いがけず扉を開けるという女の「細工」は、(十年経って)お延にも受け継がれた。そして那美さんは夜に入って、温泉に浸かっている主人公の前に、今度は有名な入浴姿(裸体)を披露する。(『明暗』では浜の婦人は同様のシチュエーションに陥りかかるが、気が付いて浴場に入って来なかったのは、津田にとっても読者にとってもありがたいことであった。)
 この那美さんの例外に対し唯一考えられる合理的な解は、漱石の中では那美さんがヒロインでなく脇役的な存在であったというもの。『坊っちゃん』のマドンナのように、セリフもなく読者にとっても遠い存在(遠い背景の山の書割)のように描こうとしていたのが、つい表舞台に出て来てしまった。マドンナも那美さんも本来的には脇役であるが、それだけでも充分全国的に名の知れたヒロインになってしまったのだから、漱石という作家も不思議な力を持っているものである。

 ヒロインに庇護者が付いているというのは、想像するにシェイクスピアに出てくる魔女のようなものであろうか。あるいは漱石の(幾つもない)恋愛体験には、必ずこの魔女のような存在があったのかも知れない。そのため漱石がときおり何気なしに書く魔女の出て来ない恋愛譚(というより単に男女が接触するだけの話)は、ふわふわして捕らまえどころのない、よく分からないファンタジィのようになってしまうのであろう。反対に漱石が自分の体験を基に、つまり魔女付きで描く物語は、なぜか異様な現実感をともなって我々に迫って来るのである。

 お秀のことを忘れていた。お秀と那美さんだけが一人で初登場する人妻である。(あるいはお秀は人妻でなく単に妹という位置づけなのかも知れないが。)
 このふたりは器量望みで貰われたことも共通している。しかしお秀は『明暗』92回で、津田の前に独りで登場していきなり口喧嘩を始めるが、その前の91回は津田もお延も登場せず、まるごとお秀の紹介に費やされている。もちろん津田やお延とのつながりからの記述が主であるが、堀の家が大人数であることが書かれる。堀の母を筆頭に10人くらいの家族である。お秀は確かに変わってはいるが、那美さんと違い本人の境遇はふつうの主婦である。ただし一人で『草枕』1冊分くらいしゃべっている。「謎の女」というなら甲野家の後妻などではなく、お秀こそまさしく「謎の女」であろうが、主人公夫婦の暴走を抑えるため漱石が無理に拵えた、ある意味ではお秀は漱石自身の付属物であるとも言えよう。そのために女としても人妻としても例外的な登場の仕方をした。

 最後に、話は変わるが前述の『明暗』での清子の真の初登場シーンで、清子が果物籃を提げていたことについて、読者は奇妙な先行モデルの存在に気付くかも知れない。それは『三四郎』(4ノ10回)での美禰子の「真の初登場シーン」たる広田先生の引越し先での格好である。それまでの二回は、美禰子としてではなく、池の女としての顔見せであった。
 美禰子は手に大きな籃(バスケット)を提げている。美禰子は荷物を持ったまま三四郎に、例の優雅なお辞儀をしたのである。
 これは偶々であろうか。何か別の意図が隠されているのであろうか。サンドウィッチのバスケットも果物籃も、単なる小道具の域を超えて作品中で何度も反芻して参照される。漱石の中で最も有名な小道具のようである。おそらく漱石はこんな問いに答えようとはしまい。美禰子はただ引越しの手伝いに行くのに弁当を持って行っただけのことである。だからそう書いたまでで、別に魂胆もへったくれもない。
 しかし読者としては清子の言葉を借りて一度言ってみたい気がする。

「ただ貴方はそういうことをなさる方なのよ」

〈 保護者付きのヒロイン 引用畢 〉