明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 20

142. 誤りは匡すべきである――4つの改訂


 再び前著(『明暗』に向かって)より、(Ⅰ)四つの改訂の中の、「8.お延自分でも事件」を引用したい。漱石作品自体の有つ錯誤についても、どうしても言っておきたいからである。一部三四郎のくだりは、本ブログ三四郎篇に既出であるが、そのまま再掲する。

『明暗』に向かって/Ⅰ.四つの改訂/8.お延自分でも事件  より全文引用

『明暗』143回の冒頭の文章であるが、『明暗』のどの版の本文も、

(堀の宅から医者の所へ行くには、)門を出て一二丁町東へ歩いて、(そこに丁字形を描いている大きな往来を・・・)

 とある。これはどう考えても漱石の書きそこないであろう。漱石は(道のりを表す)一丁と一町を書き分けていない。つまり任意に丁と書いたり町と書いたりしている。この場合も「一二丁」(もしくは「一二町」)と書けばいいところをつい、「一二丁町」とペンが滑ったのであろう。この「丁町」を「ちょうまち」と読んでしまえば、語勢としては「一二丁ほど東へ」に近いので、そんな書き方もするのかと思ってしまうが、校訂者によっては「町東(まちひがし)」という語を認定して、そういうふうに振り仮名を振っている例もある。つまり分かりやすく言ってしまえば「一二キロメートル町東(まちひがし)へ」というように解釈させるわけである。
 町東、町西という言葉が一般的であるはずもなく、またその前に漱石に丁町(ちょうまち)という使い方をした例も知らない(早稲田の近くに荷風の棲んだ余丁町というのはあるが)。ここは素直に「一二丁東へ歩いて」とするか、あるいは漱石が原稿のその部分に(丁の字よりも画数の多い)「町」という字を書いていること自体は争えないので、そちらを尊重して「一二町東へ歩いて」とすべきであろう。

 上記の例は(『明暗の』新聞連載もかなり煮詰まってきた頃の話であるから、漱石に直接糾す人もいなかったであろうが、かなり早い段階でも、(誤植は別として)編集者がふつうに注意していれば起こりえないようなヘンな表現が、つい誰も指摘しなかったからか、現在にいたるまで直されないまま来ている例がある。(もう今となっては聖典を勝手にいじるわけにもいかないのでどうしようもないかも知れないが。)
 それはお延が岡本たちと芝居に行って、継子の見合い代わりの食事の席で、吉川夫人から軽くあしらわれる屈辱の場面でのこと。

「延子さんが呆れていらっしゃる。あたしが余んまり饒舌るもんだから」
 お延は不意を打たれて退避ろいだ。津田の前でかつて挨拶に困った事のない彼女の知恵が、何う働いて好いか分らなくなった。・・・
「いいえ、大変面白く伺って居ります」と後から付け足した時は、お延自分でももう時機の後れている事に気が付いていた。又遣り損なったという苦い感じが彼女の口の先迄湧いて出た。今日こそ夫人の機嫌を取り返して遣ろうという気込が一度に萎えた。夫人は残酷に見える程早く調子を易えて、すぐ岡本に向った。(『明暗』53回)
 この部分の原稿は、当初「・・・と後から付け足した時は、自分でももう時機の後れている事に気が付いていた」となっていたのを、漱石が遅れに気が付いたのはオレじゃないと言わんばかりに「お延は」という吹き出しを「自分でも」の前に附け加えたときに、うっかり「は」の字を書き落としただけの話である。
 しかしこれも今となっては誰も直すことが出来ないようである。綸言汗の如しというが、「ただの夏目なにがし」で生涯を通そうとした漱石であるから、黙ってあるいは一言断って「お延は」とすれば済んだのではないか。あるいは「・・・と後から付け足した時は、お延は自分でももう・・・」と「は」の字の続くのを嫌うのであれば、「時は」の方の「は」の字を削ればいいのではないか。

 余談だが角川文庫の旧カナの版では編集者がおかしいと思ったのであろう、当該部分を「お延自身でも」と紙型を変えない範囲で考えうる最善の改訂を行なっているが、不遜と取られるのが怖かったのか底本を変えたのか、新カナの改版では「お延自分でも」と不思議な手戻りをしている。

『明暗』は一応遺稿であるから、校訂者の言い分もあるのであろうが、『明暗』以前の作品にそうした問題は皆無なのかというと、そうでもないようである。『三四郎』8ノ8回末尾から8ノ9回冒頭へかけて、ほとんどのテキストは(新聞連載時の回数分けを反映させないので)以下の通りである。

「里見さん」
 出し抜けに誰か大きな声で呼だ者がある
美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間許離れて、原口さんが立っている・・・(『三四郎』8ノ8回~8ノ9回)

 最初の2行が8ノ8回末尾である。後半が8ノ9回冒頭になる。
原稿準拠と称する岩波の全集では、その8ノ9回の「美禰子も三四郎も等しく・・・」の書き出し部分は、漱石自身の指示で「字下ゲセズ」となっているので、(改行と章分けをしたのち、不自然にも)一字分文節冒頭の字下げをしないまま(谷崎潤一郎みたいに)、8ノ9回の文章「美禰子も三四郎も等しく・・・」が始まっている。
 どうしてこんなことになったのであろうか。8ノ8回で三四郎はついに美禰子の家に行き、美禰子から金を借りる。(男女の話に金の話題が追加される。漱石は本気である。)そして次の8ノ9回はこの作品の白眉ともいえる丹青会の問題シーンである。新聞連載では回が分かれてしまったので、漱石はわざわざ字下げをしない旨を原稿に書き込んだが、漱石の指示・意図は「改行しない」である。三四郎と美禰子は呼ぶ声を聞くとすぐ振り向いたのである。三四郎と美禰子は少し離れて立っていたにもかかわらず、「里見さん」と呼びかけた声に間髪を容れず二人同時に反応したのである。岩波の全集は連載回ごとに章分けしてあるので他にやりようがないのかも知れないが、やはりより正しくは改行しないで、連載回の区切り等は別途注記すべきであろうし、その他の版の『三四郎』の本文は当然次のようになっているべきである。

 ・・・三四郎は立ち留った儘、もう一遍ヴェニスの掘割を眺め出した。先へ抜けた女は、此時振 返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。
「里見さん」
 出し抜けに誰か大きな声で呼だ者がある。美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間許離れて、原口さんが立っている。原口さんの後に、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎の傍へ来た。人に目立ぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何か私語(ささや)いた。・・・(『三四郎』改8ノ8回~8ノ9回)

 このくだりは『三四郎』の真のテーマに迫るハイライトである。野々宮と美禰子の位置と距離がどのようになっているのか、漱石はこの短い文章に珍しく技巧を行使している。引用一行目の「先へ抜けた女は」以下、叙述の基点が三四郎から美禰子へ、何とも微妙に(まるで幽体離脱のように)遷移している。元に戻るまで、引用末尾までの僅かな時間、まるで束の間のランデヴーのように見える。「三四郎自分の方を見ていない」という一句は、この小説としては異例の書き方である。主体が一瞬美禰子に移ってしまったかのようである。早く三四郎に戻らないと作品自体がどこかへ行ってしまう。(これを「三四郎女の方を見ていない」あるいは「女は直ぐに覚った三四郎は自分の方を見ていない」等と置き換えてみるとよく分かる。英訳本ではこの部分はあっさり「三四郎彼女の方を見ていない」となっている。)改行している場合ではないのである。

 改訂ということでもう一つだけ。『坊っちゃん』の「卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何の用だろうと思って出掛けて行ったら、中国辺のある中学校で数学の教師が云々」の箇所で、相変わらず「何か用だろうと思って」のままになっている本が(幾つも)ある。坊っちゃん漱石)にこんな開き直ったような投げやりな性格があるはずがない。しかもこのフレーズには読点まで付いているのである。「何か用だろうと思って、出掛けて行ったら」では、無神経に輪をかけた表現というべきであろう。漱石はたしかにへそ曲がりではあるが、それは自己に忠実なへそ曲がりであって、雑なところは皆無である。坊っちゃん漱石)はいつも真摯である。

 以上本項四つの訂正(①丁町、②お延自分でも、③「美禰子も三四郎も」改行、④何か用だろう)については、まず漱石の読者なら誰でも認識している内容であろうから、ちゃんと実行されるべきである。とくに後者二つは漱石がちゃんとそう書いているのだから、その通りにしないと寝覚めが悪い。前者二つは日本語としてありえないという話である。それ以外は小論でも様々あげつらっているかも知れないが基本的にはどちらでもいい、多少ヘンでも漱石に従っておけば済むことである。
『明暗』はともかく、『坊っちゃん』『三四郎』などは上梓されているのを漱石も実見しているのだから、本当に不都合があれば漱石自身が指摘して直している筈だという意見もあるかも知れない。漱石は版を重ねたり変えたりするとき弟子に校正させてもいる。しかしたとえ気付いたところで、このような瑕疵を改める趣味は漱石にはなかった。直すなら全部書き直さなければいけない。ある朝起きたら(ある晩でも)娘が盲いていたとしても、それをそのまま受け入れるというのが則天去私の生き方である。いわんや誤植の二つや三つ。漱石は晩年には『草枕』さえ否定的に見ていたくらいだったから、そもそも自分の旧作にそれほど関心はないのである(まるで自分の子供のように)。もっと大事なこと、今書いている小説、これから書かなくてはいけない作品にいつも気を取られていたのである。

(引用 畢)