明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 21

143.『雨の降る日』(1)――第1回全文引用


 第4話『雨の降る日』は初回から少しヘンである。カレンダーがずれているのである。その他にも何かあるかも知れない。とりあえず全文引用してみたい。

 雨の降る日に面会を謝絶した松本の理由は、遂に①当人の口から聞く機会を得ずに久しく過ぎた。敬太郎も其内に取り紛れて忘れて仕舞った。不図それを耳にしたのは、彼が田口の世話で、ある地位を得たのを縁故に、遠慮なく同家へ出入の出来る身になってからの事である。其時分の彼の頭には、停留所の経験が既に新らしい匂いを失い掛けていた。彼は時々須永から其話を持ち出されては苦笑するに過ぎなかった。須永はよく彼に向って、何故其前に僕の所へ来て打ち明けなかったのだと詰問した。②内幸町の叔父が人を担ぐ位の事は、母から聞いて知って居る筈だのにと窘なめる事もあった。仕舞には、君があんまり色気が有り過ぎるからだと調戯い出した。敬太郎は其度に「馬鹿云え」で通していたが、心の内では毎も、須永の門前で見た後姿の女を思い出した。其女が取も直さず停留所の女であった事も思い出した。そうして何処か遠くの方で③(き)恥かしい心持がした。其女の名が千代子で、其妹の名が百代子である事も、今の敬太郎には珍らしい報知ではなかった。
 彼が松本に会って、凡て内幕の消息を聞かされた後、田口へ顔を出すのは多少極りの悪い思をする丈であったに拘わらず、顔を出さなければ締め括りが付かないという行き掛りから、笑われるのを覚悟の前で、又田口の門を潜った時、田口は果して大きな声を出して笑った。けれども其笑の中には己れの機略に誇る高慢の響よりも、迷った人を本来の路に返して遣った喜びの勝利が聞こえているのだと敬太郎には解釈された。田口は其時訓戒の為だとか教育の方法だとかいった風の、恩に着せた言葉を一切使わなかった。ただ悪意でした訳でないから、④怒っては不可ないと断わって、すぐ其場で相当の位置を拵らえて呉る約束をした。それから手を鳴らして、停留所に松本を待ち合わせていた方の姉娘を呼んで、是が私の娘だとわざわざ紹介した。そうして此方は市さんの御友達だよと云って敬太郎を娘に教えていた。娘は⑤何で斯ういう人に引き合されるのか、一寸と解しかねた風をしながら、極めて余所余所しく叮嚀な挨拶をした。敬太郎が千代子という名を覚えたのは其時の事であった。
 是が田口の家庭に接触した始ての機会になって、敬太郎は其後も用事なり訪問なりに縁を藉りて、同じ人の門を潜る事が多くなった。時々は玄関脇の書生部屋へ這入って、嘗て電話で口を利き合った事のある書生と世間話さえした。奥へも無論通る必要が生じて来た。細君に呼ばれて内向の用を足す場合もあった。中学校へ行く長男から英語の質問を受けて窮する事も稀ではなかった。⑥出入の度数が斯う重なるにつれて、敬太郎が二人の娘に接近する機会も自然多くなって来たが、一種間の延びた彼の調子と、比較的引き締った田口の家風と、差向いで坐る時間の欠乏とが、容易に打ち解け難い境遇に彼等を置き去りにした。彼等の間に取り換わされた言葉は、無論形式丈を重んずる堅苦しいものではなかったが、大抵は五分と掛からない当用に過ぎないので、親しみは夫程出る暇がなかった。彼らが公然と膝を突き合わせて、例になく長い時間を、遠慮の交らない談話に更かしたのは、⑦正月半ばの歌留多会の折であった。其時敬太郎は千代子から、貴方随分鈍いのねと云われた。百代子からは、妾貴方と組むのは厭よ、負けるに極まってるからと怒られた。
夫から又一ヶ月程経って、梅の音信の新聞に出る頃、敬太郎はある日曜の午後を、久し振に須永の二階で暮した時、偶然遊びに来ていた千代子に出逢った。三人して夫から夫へと纏まらない話を続けて行くうちに、不図松本の評判が千代子の口に上った。
「⑨あの叔父さんも随分変ってるのね。雨が降ると一しきり能く御客を断わった事があってよ。⑩今でも左うかしら」(『雨の降る日』1回全文)

 ②を見ると、漱石は失念したのではなかった。敬太郎がぼーっとしていたのであった。といってこれで納得する読者はあまりいないだろう。漱石はもう一つの重要な情報を、知ってか知らでか欠落させている。母から聞いていたもうひとつの情報、それは(義弟田口でなく)実弟松本の話である。分かっていても田口にかつがれることはあるかも知れない。それはいい。しかし松本の存在を聞いていたのに、敬太郎ははっきり「まだ何にも知りません」(『報告』12回末尾)と答えたのである。それに対するエクスキューズは、少なくとも田口のときと同程度にはなされるべきでないか。

 ③については、これは(初版本を含む)すべての刊本で「気恥かしい」となっているので、おそらく漱石が(原稿にちゃんと)誤記したのであろうが、荒正人の校異表にも無いので、もしかして岩波版の漱石全集(1994年6月)・定本漱石全集(2017年6月)固有の「誤植」ではないかという、要らぬ心配をしてしまう本文になっている。

 余談だが、④「怒ってはいけない」「怒っちゃいけませんよ」もまた漱石の頻出用語である。このセリフを言う人物は、(不安の念でなく)余裕の念を持っている。相手が誤解するかも知れないという前提に立って、誤解してはいけないと言っているのである。誤解するのは誤解する方が悪い。誤解を与えた自分に責任はない、というのが漱石のような人の立場である。だから余裕が生まれる。

 ⑤もこの掌篇に直接関係する話ではないが、『須永の話』における須永と千代子のいきさつを知る読者にとっては、首を傾げざるを得ない描写であろう。適齢期の千代子(推定21歳)にとってその最大の対象たる須永の、その友人が自家を訪問したというからには、一言紹介されて不思議はない。中流階級の千代子は、避暑地で高木と交際するのに抵抗を感じないのであるから、他人行儀に挨拶するのはいいとして、紹介されること自体を訝る必要はないだろう。少女じゃあるまいし。それともこのときの千代子は、須永に対しては全く異性を感じていなかったとでもいうのだろうか。

 前話『停留所』『報告』は年末の出来事であった。クリスマスの頃であると想像されるが、青年会館の前を通ってもその気配はない。教会の前で美禰子と別れた(おそらく永久に)三四郎のときも、クリスマスの雰囲気はなかった。本当になかったのか漱石が書かなかっただけなのか。
 それはともかく、停留所尾行事件、その顛末の報告と種明かしを経て、敬太郎が徐々に田口家や松本家と懇意になるのはいいとして、それが正月には姉妹と軽口を言い合っているというのは、さすがに早過ぎないか。(①⑥⑦)
 何度も出入りするようになって、書生や子供との交渉、奥向きの雑用もこなす。少なくとも1ヶ月以上はかかるのではないか。あるいは半年1年の話としてもおかしくない。それがクリスマス前後から正月である。
 漱石が見合いしてから中根家でカルタを取るまでの期間は、1週間だったかも知れないが、このときの敬太郎はそういう立場ではなかろう。

 そして⑧⑩、物語の今現在が梅の時季に差し掛かっていることは間違いないようである。物語は新聞連載と同時進行に追い付いた。
 それはいいとして、先回りするようで気が引けるが、⑨の書きぶりを見ると、また別の大きな疑念が湧いて来る。