明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 34

36.『三四郎』池の女(2)―― ひめいちの焼き方

 

(前項よりつづき)

「是は何でしょう」と云って、仰向いた

 

 前項③「まぼしい女」と並んで、「仰向く女」「見上げる女」もまた漱石のおはこである。喉から顎にかけての(女性特有の)曲線を、漱石は好むのか。『明暗』お延の初登場シーンも、見上げるポーズが高名である。

 前項②も、「女が下、男が上」の例ではあるが、女が男を見ようとすると「見上げる」しかないのであるから、女だけについて言えば、彼女たちは「見上げる」あるいはすでに「見上げている」かも知れないのである。

 

 とくに『明暗』湯河原の温泉宿では、湧き出す湯場が下へ下へ延び、また本館・別館・新館も斜面に沿って建て増し建て増しされているようであるから、そして不動滝の掛かる山の傾斜も含め、主人公たちは互いに必ず「見上げ」「見下ろす」はずであるから、『明暗』の続編にチャレンジする者はすべからく、人物の立ち位置の高低差に留意した、漱石の書き方の前例に倣うべきである。

 

丸で子供に物を教える様であった

 

 前著でも強調したが、漱石作品のヒロインが初登場するときには、必ず庇護者らしき者が付着している。

・『猫』 三毛子(二絃琴の師匠)。金田富子(金田鼻子)。

・『坊っちゃん』 マドンナ(マドンナの御袋)。

・『虞美人草』 藤尾(母親たる謎の女)。小夜子(井上孤堂)。

 

三四郎』の美禰子は迷える子羊であるから、上記のような典型的な庇護者ではないが、それが白衣の年上の看護婦であるのはいいとして、しかし美禰子はこの『三四郎』2ノ4回で描かれるような人物には造型されていない。この回だけ無理やり取って付けたように、「母親―子供」の組み合せを匂わせている。引用部分だけから判断すると、三四郎と美禰子は、子供っぽさの点ではいい勝負をしている(いいカップルになりそうである)。だが(『三四郎』は)そういう話ではあるまい。

 

 よし子の初登場シーンも似たような書き方をしている。病室にはこのときだけ野々宮の母親が(はるばる福岡から)来ている。地元の産物を抱えて来たのだとすると、小川家のひめいちはかすんでしまうだろう。

 三四郎の母の手紙によると、理科大学の野々宮のことは「勝田の政さんの従弟に当る人が大学校を卒業して」(『三四郎』2ノ1回)と紹介されているが、実際は妹のよし子もとっくに上京済みであり、母親も事あれば駆け付けるのである。三四郎の母は三輪田の御光さんのことは書いても、勝田の政さんの「従妹に当る人」については、この世に存在しないかのようである。

三四郎』は美禰子だけでも大変であるから、よし子と三輪田の御光さんについてはこれ以上追及されないかも知れないが、コアな読者であれば容易に想像できるように、将来(物語の終わったあと)三四郎・よし子・御光の3人に、また一煽りも二煽りも来ることは目に見えている。その時にこの母が三四郎を苦しめるであろうことは、これまた容易に想像できる。

 いずれにせよ、ひめいちを送って喜ばれるのは広田先生(と与次郎)の方であろう。焼き方(食べ方)のレクチャも、いくら野々宮が世俗に疎くても、同郷人であれば(とくに母親が上京中なのだから)する必要は本来なかった。

 思うに漱石は、野々宮の郷里は、モデルに使った寺田寅彦の高知の方が頭にあったので、つい三四郎と同じ県でないと勘違いしたのであろうか。

 

 汽車の女はヒロインではないから単独で登場しておかしくないが、物語に登場したときは途中駅から乗ってきた爺さんとセットで描かれる。どちらにしても漱石は、理由は判らないが作品に女を登場させるときは、「剥き出しのがらがら」(『彼岸過迄』の千代子)ではよう登場させなかったということだろう。

 

三四郎』以後については、ここでは省略する。ただ『行人』三沢の「あの女」の庇護者たる看護婦兼下女兼遣り手婆兼母親のような性悪女の例をあえて挙げるのみである。何でこのような設定にしたのか、誰も漱石の真意を測りうる者はいない。

 

三四郎は慥かに女の黒眼の動く刹那を意識した

 

 漱石の女の「黒眼」についても、ここではこれ以上述べない。いくら列挙してもきりがないからである。前項で引用した『文鳥』の眼さえ、また黒いと書かれる。何をか言わんやである。

 漱石自身も黒眼のはっきりした、きれいな目をしていたろう。漱石の眼がきれいなのは、心がきれいだからである。それは疑いない。心が目に現れる。正直者のみが有する特徴である。漱石は嘘は吐かない。不正をしない。それは社会の為ではない。他人の為ではない。自分の為にそうするのである。漱石のこの「きれいな」生き方の前には、社会も他人も(家族さえも)あってなきがごとしである。

 

若い方が今迄嗅いで居た白い花を三四郎の前へ落して行った

 

 池の女は初登場シーンで右手に団扇と、左手に白い花を持っていた。二度目に逢って、池の女として始めて会話を交わしたときは、左手にハンケチだけ持っていた。美禰子として始めて三四郎の前に立ったときはサンドウィッチのバスケットを提げていた。

『明暗』では清子は旅館の廊下で津田と遭遇したとき、石鹸入れとタオルを手にしていた。津田は幽霊ではないかと疑った。翌日下女を介して正式に面会を果たしたとき、部屋の中で待つ清子は不自然にも果物籠を両手で提げていた。

 それはともかく、前項引用部分のラストにおける池の女の行為の意味するものは何か。三四郎も髭の男も汽車の窓からゴミを捨てた。汽車の女は貞操を捨てる覚悟だけはあった(ようだ)。あるいはそもそも貞操という概念の無い階層に属していた人種だったのか。

 池の女もきっと何かを捨てたかったに違いない。育ちの良さからそれが夾竹桃百日紅の白い花弁になった。しかし女はただ捨てただけであろう。三四郎が捨てた弁当殻に汽車の女に対するメッセージがあるはずもないのと同様、池の女も三四郎に対して何らかの示威行為に出たわけではなかろう。あれば池の女は娼婦になってしまう。

 

この田舎出の青年には、凡て解らなかった

 

 ④と同じく、この時折見せる漱石の介入・おせっかいについて、漱石の読者なら「ああまたか」で済ますところであろうが、三四郎に「矛盾だ」というセリフを命じたものは漱石に他ならないのであるから、漱石はこうは書きながらも、三四郎でなく読者に、その矛盾と(漱石が)考えた内容を明示している。

 これを通俗性と見て否定するむきもあろうが、何と言っても百年という年月がその判定を下していると思わざるを得ない。漱石の文章の方がいまだに輝いているのだから。