明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 35

37.『三四郎』池の女(3)―― 見返り美人


 池の女は初会(9月初旬)の後、1ヶ月と1週間を経て(10月中旬)、再び三四郎に遭遇する。初会は三四郎が野々宮(兄)を訪ねた帰りしな、2回目は野々宮(妹)のよし子を見舞って病室を出た直後、まだ建物内での再会である。美禰子は登場の前から、野々宮兄妹にべったり貼り付けられている。
 この2回目、三四郎は始めて池の女と口を利く。漱石としては1回目に劣らない緊張を強いられる(あるいは高い緊張を維持できる)。

 挨拶をして、部屋を出て、玄関正面へ来て、向こうを見ると、長い廊下の果(はずれ)四角に切れて、ぱっと明るく、表の緑が映る上り口に、池の女が立っている。はっと驚ろいた三四郎の足は、早速の歩調に狂が出来た。其時透明な①空気の画布の中に暗く描かれた女の影は一歩前へ動いた。三四郎も誘われた様に前へ動いた。二人は一筋道の廊下の何所かで擦れ違わねばならぬ運命を以て互いに近付いて来た。②すると女が振り返った。明るい表の空気のなかには、初秋の緑が浮いている許である。振り返った女の眼に応じて、③四角のなかに、現われたものもなければ、これを待ち受けていたものもない三四郎は其間に女の姿勢と服装を頭のなかへ入れた。
 ・・・
 後を振り向いた時、右の肩が、後へ引けて、④左の手が腰に添った儘前へ出た。手帛を持っている。其手帛の指に余った所が、さらりと開いている。絹の為だろう。――腰から下は正しい姿勢にある。

 三の十四

 女はやがて元の通りに向き直った。眼を伏せて二足許三四郎に近付いた時、突然首を少し後に引いて、⑤まともに男を見た。二重瞼の切長の落付いた恰好である。目立って黒い眉毛の下に活きている。同時に奇麗な歯があらわれた。⑥此歯と此顔色とは三四郎に取って忘るべからざる対照であった
 今日は白いものを薄く塗っている。けれども本来の地を隠す程に無趣味ではなかった。濃(こま)やかな肉が、程よく色づいて、強い日光(ひ)に負(め)げない様に見える上を、極めて薄く粉が吹いている。てらてら照(ひか)る顔ではない。
 肉は頬と云わず顎と云わずきちりと締っている。骨の上に余ったものは沢山(たんと)ない位である。それでいて、顔全体が柔かい。肉が柔らかいのではない。骨そのものが柔らかい様に思われる。奥行の長い感じを起させる顔である。
 女は腰を曲(かが)めた。三四郎は知らぬ人に礼をされて驚ろいたと云うよりも、寧ろ礼の仕方の巧みなのに驚ろいた。腰から上が、風に乗る紙の様にふわりと前に落ちた。しかも早い。それで、ある角度迄来て苦もなく確然(はっきり)と留った。⑦無論習って覚えたものではない
「一寸伺いますが……」と云う声が白い歯の間から出た。きりりとしている。然し鷹揚である。⑧ただ夏のさかりに椎の実が生っているかと人に聞きそうには思われなかった。⑨三四郎はそんな事に気のつく余裕はない。(『三四郎』3ノ13回~3ノ14回)

 前項同様、下線を付した9ヶ所について見て行く。

空気の画布の中に

 前述したように『三四郎』の女の描写は絵画的であるが、これは初期の漱石の趣味を引き摺ったものか。池の女との2回の対面、よし子との初会、美禰子の家の初訪問、いずれもこれでもかというほどカンヴァス画を連想させる。美禰子としての初会、引越の朝の庭先のシーンはさすがに抑え気味である。しかし2階から二人で見上げた雲(駝鳥のボーア)は十分に絵画的である。このシーンはラストで印象的に回想されるが、スケッチ画のようでもある。

 かつて美禰子と一所に秋の空を見た事もあった。所は広田先生の二階であった。田端の小川の縁に坐った事もあった。其時も一人ではなかった。迷羊。迷羊。雲が羊の形をしている。(『三四郎』12ノ7回)

 漱石の絵画趣味は以後影をひそめるが、『明暗』になって派手に復活する。物語の現行における終結部に近い部分、旅館の部屋で津田と対座する清子の、美術館特設コーナー的見せ方については前著で述べたが、その源流は『三四郎』の美禰子にあった。

すると女が振り返った

 大学病院の玄関から続く狭い廊下の先に、男が立ってこちらをじっと見ている。このとき池の女は三四郎の前でなぜ後ろを振り向いたのか。

(A)男は何を見ているのか。男は自分を見ているのではなく、自分の後ろの景色か、あるいは誰か知り合い等の人を見出したのか。確認のために振り返った。

(B)このままでは男とすれちがう。まさかいきなり襲って来ることはないだろうが、一応念の為、周囲に誰かほかに人がいないか確認した。

(C)男は自分を見ている。すぐにあの時の学生であることが分かった。それで上半身を捻るポーズを取り、自分の髪飾りからうなじ・襟足にかけての(自信のある)形を見せつけた。

(D)相手を認識したことは同じ。ただし自分を額縁の中の人物として、絵画的な見え方の出来栄えを気にして、背景を確認した。

(E)最初から誰かに道順を訊くつもりで、そのときに備えて(訊いたときに頭の中がごちゃつかないように)、自分が今現在歩みつつある通路の起点を確認した。

(F)道順を訊くのは同じ。ただし唐突に切り出すのも憚られるので、その前にちょっと病室の方向を探っているかのような格好をしてみせた。

(A)はいくら漱石が理屈っぽいといっても、理屈が勝ち過ぎているように思える。(B)もまた現代的に過ぎるかも知れない。(C)は話としては面白いが、美禰子はまだ三四郎のことをよく知らないのであるから、そこまで挑発する理由がこの段階では無い。(D)は漱石なら一票投じるであろうが、美禰子が漱石と同意見である保証はない。しかし初対面のときの団扇を翳したポーズを決して忘れなかったことを考え併せると、洋画の効果を狙っていたという答えも捨てがたいが、まあ都会人美禰子としては不躾にならぬよう、(E)か(F)のようにワンクッション置いたということか。論者としては(F)のウォーミングアップ説を採りたい。

 ところで振り返った結果も、漱石はちゃんと書いている。

四角のなかに、現われたものもなければ、これを待ち受けていたものもない

 そしてそれに続く記述を信じると、三四郎はこの刹那に美禰子の印象を胸に格納したのであるから、畢竟美禰子は三四郎(の便宜)のためだけに振り返ったことになる。このときの美禰子には三四郎に同情する理由はないから、結局この仕草は、漱石によって無意識の偽善の一例として、故意に作られたものであったか。美禰子にしてみればいい迷惑だったかも知れない。

④(左手のハンケチ)は前項の(⑧白い花)で検証済み。しかし別の疑問がなくはない。

 よし子の病室を始めて訪れる美禰子。ほぼ手ぶらであるのは熨斗袋を懐中しているのか。しかし現代ならともかく、当時の若い女同士の入院見舞いである。花なり菓子の包みなり携えていて不思議はない。美禰子の性格なら果物籠くらいは用意しそうである。(もっとも果物籠は後日の三四郎のインフルエンザのために取っておいたのかも知れないが。)

 ここで究極の推理は、美禰子はよし子の見舞いをすでに済ませていたというもの。だから「手ぶら」だったのだ。美禰子はこのとき三四郎と話したいがために15号室のありかを訊いたのである。その前に美禰子は知人の見舞いに大学病院を訪れている。看護婦と構内を散歩するくらいだから、ほんらい三四郎に道を訊く謂われはないのである。
 しかしそうであれば、前問の正解は(C)挑発ということになり、美禰子はこれまでの論者の結論と反対に、徹頭徹尾野々宮をダシにして三四郎を誘惑していたことになる。読者にとってはそれでも構わないが、では無意識の偽善者はどこへ行ってしまったのであろうか。

(この項つづく)