明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 36

38.『三四郎』池の女(4)―― 見返り美人(つづき)


(前項よりつづき)

まともに男を見た

無論習って覚えたものではない

 これらは漱石三四郎を離れて、少しだけ美禰子に乗り移ったような書き方になっている例である。
 漱石は俯瞰をしない。漱石は基本的には三四郎と行動を共にしているが、ときどき美禰子に行くことがある。そのどちらでもないときは、漱石が出張っているのである。
 しかし前述したように、漱石が顔を出す場面はのべつではない。どこでも降臨しているわけではない。おおむね主人物の女が登場するときに限られるようである。その場に居合わせた男のことが心配になるのか。若い女の庇護者(の群れ)に、漱石も一枚加わっているような感じである。

此歯と此顔色とは三四郎に取って忘るべからざる対照であった。

 この文章を、三四郎が永く記憶にとどめたという意味に取れば、小説『三四郎』の「時」は、何年かであっても未来へ延びてしまう。3ノ10回では、野々宮の家に泊って轢死事故を見に行ったとき、「其時の心持を未だに覚えている」とも書かれる。
 このような(ある出来事を後からしみじみ振り返るような)書き方の効能を、漱石は別なところで述べているが、初期の作品ではわりと平気でこういう書き方をしていた。

 しかしこれらの書き方は、未来からある距離を以って回想しているというよりは、三四郎の場合はせいぜい物語の終結の頃、12月くらいを基準にして、そこから振り返っていると判断すべきであろうか。
 漱石は『三四郎』以降こういう書き方をしなくなったが、不思議なことに『明暗』に至ってまた復活させている(それもよりはっきりした書き方で)。『三四郎』と『明暗』――漱石は本卦還りしたのだろうか。

ただ夏のさかりに椎の実が生っているかと人に聞きそうには思われなかった。

三四郎はそんな事に気のつく余裕はない。

 これは前述のヒロインの登場に年配の庇護者が附くという議論に、漱石自身が種明かしをしているようなものである。漱石は初登場の池の女を(一筆だけといえども)無理に幼稚に拵えた。そうしないと横にいる看護婦が庇護者にならないからである。
 そして2度目の登場のとき、放っておいてもいいのだが、律儀な漱石は自分で拵えた設定に気が引けて、珍しく言い訳したのである。
 したがってこのくだりは漱石が自分のためにしゃべっているのであり、⑨の文章が続こうが続くまいが、三四郎の出る幕はない。

 ここでもう一度、前掲カレンダーから三四郎と美禰子の出逢いの部分を抜いてみる。

明治40年9月6日(金) 野々宮の穴倉を訪問。池の女との出逢い。(第2章)
明治40年10月14日(月) よし子の病院。池の女と再会。(第3章)
明治40年11月3日(日) 天長節。引越の日。美禰子との正式な邂逅。(第4章)
明治40年11月9日(土) よし子の画。美禰子の端書。(第5章)
明治40年11月10日(日) 菊人形の日曜日。(第5章)

 野々宮と美禰子の馴れ初めは、この小説ではよし子の口を通してさらりと紹介されたが(広田先生と早世した里見の長兄が同級生)、三四郎と美禰子、とくに池の女との出逢いは実に丁寧に、ときにはごてごてと修飾して語られる。
 上の表では、池の女として2回、美禰子として2回、都合4回目で菊人形の日のランデヴーである。それはいいが、美禰子が三四郎を菊人形に誘ったハガキはいかにも素早い(漱石の男はいつもぐずぐずしているのに)。正式に名前を知り合って1週間と経っていない。大変な特別扱いである。ふつうなら野々宮の都合を再確認して、それから広田先生-与次郎-三四郎の順で、三四郎はせいぜい学校で与次郎から告知されるくらいが関の山であろう。池の女としてそれまでに二度遭遇しているといっても、野々宮と同郷であることが美禰子にとっていかに大切なことだったか、その野々宮への想いを全うすることのなかった美禰子に対し、論者は哀惜の念を禁じ得ない。