明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 25

360.『野分』すべてがこの中にある(4)――西へ西へと移動する(つづき)


(前項よりつづき)

《例題2 外地・外国・西洋人・洋書》
 国内旅行の延長線上に海外旅行がある。現代の我々はそう思いがちであるが、文明開化・富国強兵の明治の人にとっては、どうしても洋行、あるいは移民(棄民)という言葉に余計な観念が付着する。国内でも西洋人がいれば、そこは「異界」である。単なるモノでも「舶来」である。
 前項例題1(大移動)の調査でも直接外国へ行くような話が目立つが、それが無いと思われる作品でも、探せばその痕跡は見つかるようである。

 『猫』の迷亭は洋行したことがあるような雰囲気を漂わせるが、同級生(自炊仲間)の苦沙弥にあっさり否定されている。しかし苦沙弥の友人が洋行したことは書かれる(「君西洋には痘痕があるかな」)。『行人』の二郎にも勤めを辞めて洋行しようかという、気持だけはあった。お直も三沢もそれについては真面目に、二郎の身を考えている。思うに一郎も洋行の経験者ではなかろうか。
 『明暗』も、例題1(大移動)の続きになるが、継子の見合い相手三好は戦争の前に独逸から逃げ帰って来た。小林は朝鮮へ行くことになって津田から餞別まで貰っている。藤井の長女も台湾にいると書かれるが、これは次女と長男の福岡に対するバランスか、小林の朝鮮行きとの対照か。欧州戦争で気が大きくなったのかも知れない。
 『坊っちゃん』だけは外国と無関係。と思っても、日露の祝勝会で旅団長が招かれて挨拶しているのでは、そこには『趣味の遺伝』で浩さんが這い上がれなかった、旅順のトーチカと砲弾の匂いが漂う。どだい国が戦争をしている以上、外国と無縁ではいられないのである。
 当然日清戦役で戦死した『心』の奥さんの夫も(自宅に厩があるからには陸軍であろう)、朝鮮半島に渡っていたのだろうし、先生は洋行する友人を新橋に見送っている。その先生は小説の冒頭、鎌倉で西洋人と海水浴をしていた。このようなストーリィに直接関係しない西洋人が出て来るのは、『猫』(東風のさいなら事件、浅草で西洋人が振り返ったという苦沙弥幼少期の唯一の自慢話)、『三四郎』(浜松駅「ああ美しい」)、『それから』(園遊会「ラッヴレイ」)、『彼岸過迄』(市蔵が明石で見た海水浴の西洋人)、『行人』(一郎が鎌倉で遭遇した西洋人の別荘とピアノの音)、枚挙に暇がない。

 この程度の「西洋人」なら『野分』にも(演奏会のシーンに excuse me と言って)ちょっとだけだが出て来る。長州人は閉鎖的で、他県のものを「外国人」と呼ぶというのは御愛嬌だが、『野分』だけが純国産の小説ということはなさそうである。中野君は洋行こそしないが漱石同様ハイカラなのである。「洋モノ」も当然ながら登場する。エジプト葉巻はともかく、ベートーヴェン、ワグナーまで飛び出すのは『野分』ならではの驚ろきである。高柳君の訳していた地理学教授法も、おそらくブラーシュ(の地理学原理)を下敷にした、英語で書かれた学校向け参考書であろう。
 舶来は出て来ないだろうと思われる『坊っちゃん』でさえ、冒頭にいきなり(坊っちゃんの右手親指を創つけた)「西洋製のナイフ」が登場したのであった。これではターナーもゴルキもあったものではない。芸者が英語入りの都々逸を唄っていたのも霞んでしまうだろう。赤シャツのフランネル琥珀のパイプも絹ハンケチも、輸入品ではないか。三四郎でも冬用のシャツを唐物屋で買っている。

 漱石の本業たる「洋書」となると、それこそ全作品を網羅している。すぐには思いつかないかも知れない作品でも、『門』駿河台下で見た「博奕史」、宗助の本棚にあって小六も手に取った赤い表紙の洋書、『心』でも差し迫ったKと先生の対決を控えた図書館で、外国雑誌が小道具に使われる。
 たしかに洋書は(『猫』で書きまくられたように)漱石らしい「小道具」と言えるが、中には『草枕メレディス、『虞美人草シェイクスピア、『三四郎』アフラベーン、『それから』『彼岸過迄』ともにアンドレイエフ、『行人』ダンテのように、物語の進行と不可分の内容を有つ書物もある。一方どうでもいいような俗書も混じる(『明暗』に出てきた「ユダヤジョーク集」みたいな)。これまた唯一縁の無さそうな『坊っちゃん』でさえ、「プッシング・ツー・ゼ・フロント」が紹介される。(中学の)副読本であろうが、西洋人の書いた本であることに変わりはない。

 しかし何をどう使おうが、それらを何の権威付けにも利用していない漱石であってみれば、スターンやゴールドスミスが、あるいはニーチェイプセンが将来読まれなくなったとしても、それに言及している漱石の作品自体は少しも陳腐にならないのである。
 これは和漢ギリシャローマ西欧問わず、すべてを自分の中で「消化」していた漱石にして始めて成せる業であろう。その意味で漱石が聖書や仏典を自己の倫理観の基準に使用しなかったのは、慧眼というべきか、その別物であることを認めて、最初から自分の世界に取り込もうとしなかったのか。あれほど西洋の書物に親しんだ漱石が、(そのすべてのベースたる)聖書を読んで、(思想的に)脳味噌と心を動かされないはずはないのであるが、それを(その内容を)まったくと言っていいほど書かなかったのもまた、漱石のずば抜けた知性ゆえであったろうか。
 それとも『猫』でいきなり洒落のめしてしまったので、後戻りできなくなったのか。後に漱石は『心』で、高等遊民になる前の(あるいはそれさえ拒否して自ら命を絶った)真摯な学徒を描いたが、Kが基督教からコーランまで手を延ばしたといっても、先生にそれらの教えを説いたわけではない。自分が探求している事柄について、新しく知り得たことは、つい語りたくなるものであるが、正しいことを書くと言っても、漱石の場合は、正しいと自分が実感出来たことのみを書く、と言った方がいいかも知れない。――その実感が将来陳腐にならない限り、書かれたものも、いつまでも陳腐にならないわけである。)

 ところで『明暗』にもいくつか出て来た洋書のタイトルは、『道草』では一切書かれることがない。『道草』はそういう小説であると言ってしまえばそれまでだが、『道草』だけが例外なのだろうか。しかし洋行帰りの健三の部屋には、船便で届いた溢れんばかりの蔵書の山が築かれた。本項で名前の挙がった洋書は、すべてこの中にあったのである。

《例題3 小旅行》
 漱石の小説には大旅行ならぬ小旅行もまた付き物である。だいたい人物が近郊を泊りがけで訪れたり、半日潰してピクニック・ハイキングに出かけたりすると、碌なことにならないのが漱石小説の常道であるが、その嚆矢となったのが、『猫』の立町老梅の静岡東西館での「一夜漬けの花嫁事件」と、迷亭の静岡の伯父赤十字総会上京であろう。老梅はその後巣鴨の瘋癲院に入って天道公平と名乗り、迷亭の伯父は(これは老人にとっては大旅行かも知れないが)チャプリンのような外見で、共に苦沙弥先生の眼を丸くさせる。
 不吉な小旅行の代表例は、(『草枕』でも少し披瀝されたが、)『門』小六、『心』先生とKの房総旅行であろう。オルノーコのように真っ黒になって帰京した小六は、佐伯の叔母から学資の打切りを宣告され、これまた真っ黒に日焼けした先生とKは、(リスクのない奥さんには褒められたものの、)悲劇への最終コーナーを曲がることになるのである。

 鎌倉から富士箱根にかけての保養地も数多く書かれるが、いいことは1つもない。『門』小説終盤の宗助の参禅がその代表であろう。小説の意義としても構成としても疑問の残る鎌倉行であった。『彼岸過迄』市蔵千代子の大喧嘩、その前哨戦の闘われた鎌倉の海は、『心』先生と私の出会った記念すべき海でもあるが、僅か3年で先生の悲劇が起こったのでは、憶い出すのも辛い土地になった。そして『行人/塵労』の、それこそ小説の統一性をぶち壊した一郎とHさんの沼津・修善寺・小田原・箱根・鎌倉旅行。その前に『行人/友達』冒頭で、富士登山の二郎が御殿場辺を暢気に移動していたとき、お兼さんを迎えに上京する岡田とすれ違っていた。そのお兼さんはすっかりいい奥さんになって、「あれなら僕が貰やよかった」と呟く二郎は優柔不断に俗物ぶりまで発揮する。そして『明暗』の断るまでもない湯河原行。漱石の主人公として、最大のピンチを迎えるかも知れない、小旅行の典型となった。
 そもそも『猫』八木独仙に毒されて死んでしまった理野陶然の、円覚寺前の踏切事件・山門内の蓮池入水事件以来、鎌倉は不吉の土地の代名詞であり続ける。『坊っちゃん』も昔毛布を被って鎌倉大仏を見物したとき、俥屋から「親方」と言われた。べらんめいの坊っちゃんにとって、「親方」の呼称ほど野暮で不似合いなものはなかろう。

 サンプルが錯綜したり入れ子になったりするケースも散見する。『門』京都時代の安井夫婦に宗助も途中から合流した須磨明石静養旅行。彼らの運命を決定づける、そのきっかけが須磨明石にあったことは疑いようがない。『彼岸過迄』市蔵と敬太郎は柴又帝釈天に遊ぶが、江戸川を越えてぎりぎり千葉県へ入ったように描かれるのは、郊外の小旅行を強調するためだったか。鎌倉から帰って千代子に責められた話は、このときの柴又小旅行で語られたのものである。『行人』の関西旅行で、和歌の浦からお直と二郎だけ和歌山市内に出かけたのは、お直の貞操を試すというとんでもない小旅行であった。『心』私の卒業試験が終わって先生と郊外のピクニックに行ったときは、農家の子供に不法侵入を咎められた。似たような話は『三四郎』にもあった。三四郎、与次郎、広田先生の3人が佐竹の下屋敷を通って、門番にこっぴどく叱られる(なぜか三四郎と与次郎だけ)。
 『三四郎』では大旅行ばかりで小旅行は書かれないとも言えるが、団子坂の菊人形から田端の小川までのストレイシープ・ランデヴーは、これで三四郎は美禰子を誤解してしまった(美禰子に惚れてしまった)のであるから、罪深い「小旅行」であったと言わざるを得ない。漱石も気が引けたらしく、デヴィル大人を登場させたり、迷える子羊の宗教的意味を強調しているが、小説末尾の会堂前での有名な美禰子のセリフ(「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」詩篇第51篇)は、前述の「漱石は聖書を持ち出さない」と矛盾するようだが、漱石にとっては単に昔の物語、「神曲」のパオロとフランチェスカを引用するようなものだったのだろう。
 小旅行と呼べるか疑わしいものは『猫』にもある。日本堤署への盗難物引取行は、近距離だが苦沙弥が「祭日」に欠勤届まで出して行ったからには、小旅行の資格はなくもない。苦沙弥は土産に花活けまで買って来ている。ちなみにその日は神嘗祭(明治38年10月17日火曜)であったと推測される。秋風が吹く頃ではあるが、その2週間後くらいに珍野家に全員集合して物語も終わる。そこではビールも飲まれるので、新嘗祭(11月23日)では寒過ぎるだろう。冬にビールやアイスクリームがふつうに賞味されるようになったのは、漱石の孫やヒ孫の時代、戦後高度成長期以降のことである(と記憶する)。

 ここで改めて作品ごとに「小旅行」(お出かけ)を順番にまとめてみよう。既述との重複は容赦されたい。
・『猫』未遂に終わった細君との摂津大掾事件。立町老梅と迷亭伯父の静岡。理野陶然が狂った円覚寺の池と踏切。漱石円覚寺のことをその程度に捉えていたのか。苦沙弥の最初で最後の「大」旅行、吉原行。トン子スン子坊ばの招魂社嫁入りも、本人たちにとっては大旅行かも知れない。
・『坊っちゃん江ノ島ターナー島。坊っちゃんにとって松山での唯一の美しい想い出になったはず。それを与えてくれたのは、山嵐に殴られた赤シャツと坊っちゃんが殴った野だいこであった。
・『草枕房総旅行での不思議な宿と2人の女。鏡が池のスケッチ旅行では那美さんのジャンプに度肝を抜かれる。そして那美さんと野武士の、木瓜(ぼけ)の花咲く草原での密会。那美さんには覗いていることを見つけられて、また後手を引いてしまった。
・『野分』中野夫妻の提言で高柳君は療養を兼ねて箱根あたりに出掛けるはずであった。その資金は道也に渡ったが、高柳君は再度出発できただろうか。
・『虞美人草
これも未遂に終わった大森行。行っても行かなくても破綻の最後通告であった。2つのグループがニアミスする万国博覧会は悲劇の起爆剤になる。
・『三四郎彽徊趣味の三四郎は郊外を一通り巡って、新井薬師まで行っている。有名なのはもちろん団子坂の菊人形から田端の小川までのストレイシープ・ランデヴーと、丹青会のあとの上野の森での雨宿り。小旅行とは言い難いが、読者は自分が旅した以上に、いつまでもその記憶に浸ることが出来る。三四郎にとっては辛い記憶であろうが。
・『それから』またまた未遂に終わった近郊旅行。グラッドストーンまで用意したのに、金を三千代に遣って旅行をあきらめる。だが読者は始めから代助が旅行どころでないことを識っている。グラッドストーンはあるいはその後の「放浪」(長旅)の象徴か。
・『門』京都から出かけた須磨明石。小六の房総旅行。宗助の鎌倉参禅。3つ揃った、負の思い出しか残さない、碌でもない小旅行。
・『彼岸過迄悲劇の鎌倉。それを語る江戸川べりの郊外ピクニック。小説末尾の市蔵の関西旅行の中で語られる、銀扇の舞う綾瀬川隅田川)――徳川期の昔話。明石の海水浴場で見た、沖のボートの客に向かって「阿呆」と叫ぶ芸者。関西旅行中の市蔵は人丸神社にも行ってみたいと言って擱筆した。
・『行人』漱石作品で1、2を争う危ない小旅行たる二郎お直の和歌山行。長いだけの一郎の塵労旅行。
・『心』悲劇の出発点たる鎌倉の海。先生とKの房総旅行。最後に先生が目的を果すために出かけたのは、華厳の滝か富士の樹海か伊豆の断崖か、とは本ブログ心篇で述べたところ。
・『道草』華やかなことのまったく起こらないのが『道草』であるが、その元凶が倫敦という陰鬱な大都会なのであった。小旅行はほとんど書かれないが、比田の軽井沢立喰い蕎麦、島田も旅行をしたので訪問の間隔が空いたと、いらぬことを言って健三を不快にさせる。
・『明暗』湯河原行。おそらく津田の治りきらない手術痕は温泉によって破裂し、漱石の書く小旅行のうちでは、これも最悪のものになるだろう。

 小旅行が「実施」されないのは、『野分』『虞美人草』『それから』の3作であろうか。それでも予定だけはちゃんと小説の中に丁寧に書き込まれている。漱石も主人公も本当に行くつもりだったのである。

《例題4 土産》
 旅に関連するオマケとして、最後に「土産」を取りあげてみよう。漱石は旅先でわざわざ土産を買って来て配るようなマメな性格ではないが、無数に書かれる大小の旅行に比べると、その扱いは急に縮小するようである。
 『猫』吉原土産の(自分用の)花活。寒月の鰹節。多々良三平の山芋とビール。『坊っちゃん』越後の笹飴。『虞美人草』欽吾の万年筆は父の西洋土産。
 『三四郎』汽車の女が蛸薬師で買った子供の玩具。三四郎が郊外へ出かけて買った栗。与次郎の広田先生への土産、日本橋(魚店)の馬鹿貝の剥身と岡野(岡埜)の栗饅頭。病気見舞の蜜柑の籠「美味しいでしょう。美禰子さんの御見舞(おみやげ)よ」。黴菌の試験に長崎へ出張する「医科生」与次郎を、(土産の)林檎を持って見送りに行くという女。『門』宗助の買った風船達磨。安之助の神戸土産、養老昆布の缶。大晦日小六の買った梅の花の形の御手玉は坂井の子供への土産となった。籤引の景物倶楽部洗粉は御米へ。坂井の土産品、護謨鞠のような田舎饅頭。坂井の弟の大陸土産の蒙古刀。
 『行人』二郎に託された岡田への土産の菓子鑵。家でお重とお留守番した芳江への土産は書かれなかった。漱石はこの小説に暖かそうな家庭の匂いを持ち込みたくなかったのであろう。女景清、突き返された土産の百円札。『心』先生への帰省土産「先生が干した椎茸なぞを食うかしら」「こりゃ何の御菓子」。卒業して田舎へ凱旋するときに、新しい鞄に詰めて持って帰る東京土産。
 『道草』倫敦で買った(自分用の)記念の革財布。家族への外国土産の類いの話は、他の作品においても触れられることはなかった。忌避されたのは倫敦か家族か。縁起でもないもののように扱われる島田の手土産。『明暗』男の子にあげる土産は人殺しの出来るようなものでなくてはならない。津田の「甥の」藤井真事へ鉄砲。お延の従弟の岡本一への土産は歌舞伎座にはなかった。湯治に出かける津田に渡された吉川夫人の果物籠。津田は勝手に清子への土産とした。漱石最後の土産は、漱石最後の(小さな)嘘でもあった。
 結局旅の土産もまた、漱石の中では碌でもないものの1つに数えられるのであろう。

 ということで、前項の例題1大移動、本項の例題2外国例題3小旅行ともに、「すべての漱石作品に共通してあるもの」と見てよいと思うが、例題4土産については、『草枕』『野分』『それから』『彼岸過迄』の4作に書かれなかった。例の3部作の理屈からいくと、

◇土産の品の出て来ない作品
Ⅰ『それから』
Ⅱ『彼岸過迄
Ⅲ『(幻の最終作品)』

 ということになりそうである。『それから』三千代が買って来た鈴蘭があるではないかと言われそうであるが、あれは手土産なんぞではない、まったく別なものであろう。

(この項つづく)