明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 22

357.『野分』すべてがこの中にある(1)――オリジナルを求めて


 『野分』の基本的な枠組は、前項まで述べて来たような『明暗』への萌芽となる「対決する」人物群の設定であるが、その外に『野分』ならではの独自性が発見できるか、その小説的道具立て(使われる素材・部品)について、漱石作品全体を俯瞰するという観点から調べてみよう。なおここで言う(『野分』以外の)漱石の全作品とは、短篇と『坑夫』を除く12作品(『猫』『坊っちゃん』『草枕』『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『心』『道草』『明暗』)のことを指す。
 一応その道しるべとして以下の3区分を設けてみる。なお「道具立て」というからには、(『野分』の)個々の事情、その使われ方ではなく、あくまで道具そのもの有無について、外形的・包括的に棚卸しするものである。

Ⅰ 『野分』にのみあって、他の漱石作品には見られないもの。
Ⅱ 『野分』にも他のすべての漱石作品にも、共通してあるもの。
Ⅲ 他のすべての漱石作品にあるが、『野分』にだけないもの。

 まずの、『野分』の孤高性について、本当にそんなものがあるのかどうか、章ごとに見てみよう。分かりやすくするため、章に見出しと登場人物を付記する。続く行の「章題」と称するものが、その章における『野分』の「道具立て」のことである。

第1章 白井道也は文学者である(道也 VS. 細君)
章題1 予期せぬ事情によって職を(学校を)去る

 登場人物の離職譚は『坊っちゃん』、『草枕』那美さんの銀行家の夫、『それから』平岡と続き、『門』の宗助と安井に降りかかった災難もその範疇であろうが、偶然にもこれらはすべて(道也の3度の追放ともども)地方都市での出来事であった。『彼岸過迄』森本になって始めて、舞台が東京(新橋駅掛員)に戻って来た。『心』のKは形式上は中途退学であろうか。『道草』健三も退職金を口実に洋行後の「転職」を決断している。『明暗』小林は食い詰めて都落ちを余儀なくされるという設定であるが、これは実行されるだろうか。未遂ということでは『三四郎』広田先生の帝大任官運動、『行人』二郎の洋行話もある。

 彼らにはなぜか多く外地(満洲・朝鮮)の影が付きまとう。『それから』平岡も、独身なら満洲でも亜米利加でも行くのだがと言っているし、『坊っちゃん』うらなりの転勤先延岡は、「猿と人とが半々に住んでいる」と書かれる。わざと書いているのだろうが、化外の地のように見えてその実本土内にとどまったのは、うらなりが漱石と同じ英語教師であったせいか。山嵐は、坊っちゃん(23歳)より年を喰っているが(27、8歳。うらなりもそれくらいであろう)、人望ある理系教師であるからには職探しには困るまい。
 うらなりと同じ英語教師の道也の場合は、漱石の分身たる宗助や坊っちゃん同様、外地へ行く心配はないものの、辞め方といい回数といい、転職組の魁にして正統的なチャンピオンであろう。しかし苦沙弥は同じような嫌がらせに屈しなかった。というより苦沙弥はそれをまるで分かっていなかったところが堪らなくおかしい。漱石はふざけっ放しにはしなかった。道也先生は苦沙弥先生や坊っちゃんの騒動にけじめを付けた、とは言える。苦沙弥(と坊っちゃん)が始めにあって、それから道也が生れたのである。

第2章 高柳君と中野君(高柳 VS. 中野)
章題2 レストランで樽麦酒。もしくは卒業しても自活の道が闢けない

 明治時代で早くも生ビールというのはうらやましい。ビールは『猫』の吾輩の鬼門にもなったが、漱石にとってはシャンパンみたいに食卓場面の飾りにしか過ぎなかった。
 いっぽう高柳君の、帝大を出てもいい口が見つからないという、(徳川期から)今に変わらぬ即物的な悩みは、漱石作品の底流の1つとなっている。直接小説の中に書き込まれるのは『虞美人草』『それから』『彼岸過迄』『心』であるが、そもそも高等遊民という発想はその問題の対処療法であろう。

第3章 江湖雑誌の編輯記者(道也 VS. 中野、道也 VS. 細君)
章題3 江湖雑誌の訪問記者

 職業の1つとしての雑誌記者。『野分』にとっては大事な設定ではあるが。
 漱石の主人公は(学生でなければ)皆仕事を有つ。何もしないのは『猫』の吾輩だけあるが、吾輩は猫である。人間ではない。漱石は元々勤勉なのである。勤勉だが職業なら訪問記者も編集も翻訳も教師も小説家もすべて厭。道楽ならやってもよいが、それらは道楽で出来る仕事ではない。漱石は心情的には生涯高等遊民を通した「小説家」であったろう。朝日の社員だったかも知れないが、朝日は雇用主ではなくスポンサーでもない。所謂タニマチ(金と権力を持っている贔屓)に過ぎまい。
 卒業して3年間遊んでいた代助も(高柳君の友人にもそんなのがいると書かれる)、小説のラストでは職業を探しに出掛ける。『心』の先生が唯一の例外に見えるが、それでも学生の私にとってはどこまでも「先生」であった。それに『心』の心臓部たる「遺書」においては、先生(とK)はあくまで学生だったのである。

第4章 高柳君音楽会へ迷い込む(高柳 VS. 中野)
章題4 音楽会

 洋楽の音楽会は規模こそ違え『猫』(寒月のヴァイオリン合奏会)で読者は体験済。邦楽の演奏会は(邦楽といっても漱石の場合は、長唄や清元と違ってもっと古い時代のものを意味するようであるが)『行人』で紹介された。どちらも男女の縁の取っ掛かりのように使われる。『野分』の場面はそんな艶っぽい話ではなく、中野君と高柳君の食事のあと、高柳君は厭々つきあわされるだけである。中野君の高雅な趣味である音楽会は、『それから』の代助に引き継がれた。代助は音楽会によく出かける。どのような演奏会かは一切明らかにされないが、それは『野分』で書き過ぎてしまったということだろうか。『野分』では会場の様子ばかりでなく演奏曲目まで書かれる。漱石は同じことを繰り返し書いているように見えて、冗長な(と思われそうな)ことは2度書かない。

第5章 ミルクホールで江湖雑誌を読む(高柳 VS. 道也論文)
章題5 雑誌論文の内容紹介

 憂世子「解脱と拘泥」はユニークではあるが、『三四郎』零余子「偉大なる暗闇」で裏を返された。論文の中身はもちろん憂世子の方が優れている。『それから』以降そういったシーンはだんだん書かれなくなったが、思うにそのころ漱石が名実ともに専業小説家になったせいだろうか。雑誌に自分の考えを発表しなくてもよくなった。漱石ほど正直な人はいない、と誰もが思うだろう。

第6章 高柳君道也に弟子入りする(高柳 VS. 道也)
章題6 男性主人公2人の直接対決

 男性主人公が2人というのは、見方によっては漱石の小説はすべてそうだと言えなくもない。仇同士の場合もある。例外は『草枕』か。短篇に近いので仕方ないが、何度も繰り返すように、『一夜』を『草枕』のプロローグと見れば、男は始めは2人いたわけである。奇体なことに那美さんは男の役割も担っていたような感じも受ける。男も女もない。親も子もない。これを非人情の小説と謂うのであろう。ただし夫婦に代表される異性愛だけは別である。『草枕』の末尾で那美さんの目に浮かんだ「憐れみ」は、まさにその別物であった。それを漱石は『三四郎』で Pity’s akin to love という句で表現した。憐れみ・慈しみが、人情とはまったく異なる、人間愛の極致だと言いたいのであろう。さらに勘ぐれば、人情は匹夫匹婦でも解するが、憐れみ・慈しみを感じるのは選ばれた者のみであると言いたかったのかも知れない。
 それはともかく、あくまで『野分』の独自性を追求すれば、この章題の眼目は道也の発言内容にある。
 文学とは何か。
 小説の中で述べられたこのかなり珍しい主張は、『野分』の特長ではあるが、主張のユニークさは作品のユニークさとはまた別の話であろう。ドストエフスキィの小説ではないのだから。

第7章 中野君の愛のヴィーナス(中野 VS. 婚約者)
章題7 メリメ「ヴィーナス殺人事件」

 劇中劇ならぬ小説の中で他の文学作品・著作物を参照する。漱石は人生の問題解決を過去の賢人に求めなかった。自身の懊悩に向き合うときも、書物に頼らなかった。しかしすべての漱石作品に書物は紹介される。当然ながらそれは小説の本筋ではない。所詮枝葉の小道具ではあるが、独創的なものも中にはあるようだ。メリメは漱石にしては月並だが、漱石ならではの書物も出て来る。(漱石の読者なら何冊かの岩波文庫がすぐに思い浮かぶだろう。――ちょうどイザヤベンダサン『日本人とユダヤ人』がロングセラーになったとき、『日暮硯』が復刊されたように。)
 漱石の作中著作物については、漱石の本業の話でもあり、また後で触れたい。

第8章 道也の人格論(高柳 VS. 道也)
章題8 男主人公2人がばったり出くわす

 湯島天神前で高柳君は道也先生に偶然出くわした。狭い地区のこととはいえ、なかなか無いことではある。三四郎と与次郎がすれ違うといっても、大学付近では珍しくもない。『道草』の遠い前触れかとも思われるが、これは本式には、幻の最終作品の結末部分に使われるのではないか。苦悩の歳月を経て、男2人が(東京から離れた)ある場所で懐かしくも邂逅するのである。

 一方道也先生と高柳君の出会いを、教場での教師と学生の出会いと見れば、漱石は数え切れない学生たちと毎年「偶然」出くわしているわけである。
 高柳君は明治28年長岡中学入学、明治31年、4年次のとき道也が帝大を出て赴任して来た。おそらく次の年に高柳君と道也は(始めて)出会ったはずである。(2年間も教わったのなら道也は高柳君の顔を覚えている可能性の方が高いし、高柳君の方も無暗に意地悪をしないのではないか。)1年だけ教わって明治33年、卒業の前後に道也は学校を去った。それから6年経った明治39年、高柳君は市ヶ谷薬王寺の道也宅を訪れ、道也の気付かないままに再会を果たす。それだけでは足りないと思ったのか、律儀な漱石は舞台を長岡から湯島天神(学問の神の在所)に移して、7年ぶりに道也と高柳君の「偶然の出合い」を再現して見せたのである。

 男と女の出逢いはまた別のアイテムであろうが、女同士の遭遇はまずあり得ないことと思っていたら、『明暗』で病院へ向かうお延が、停留所近くで電車の中に座る吉川夫人の横顔を目撃していた。お延は小説の最後に、湯河原へ向かう乗換駅で、東京に引揚げる清子と遠く擦れ違うというのが論者の想像である。でもこれらの場合はお延がみとめただけで、道也と高柳君の遭遇とはまったく性質が異なるかも知れない。

(この項つづく)