明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 26

361.『野分』すべてがこの中にある(5)――旅する人が手紙を書く


 旅する人になくてはならぬものの1つに「手紙」がある。文人漱石にとっては旅の土産品より手紙の方が大切だったのではないか。漱石は多く手紙を書いた人であったが、自分の小説にもまた多く手紙を取り込んだ。

《例題5 手紙》
 漱石は処女作のときから既に数多くの手紙・葉書を登場させている。『猫』ではそのすべてが本体の小説同様洒落のめしたものである。おまけに早くも「全文掲載(引用)」を3つも試みている。迷亭・天道公平(立町老梅)そして縫田針作(針田縫作でもいいが、よりありそうでない方を選んだのだろう)という裁縫大学校長の3通である。そして金田富子(こちらはフェイクのヒロインなので、むしろ平凡な名前にしている)への付け文事件は、漱石が物語の題材として始めて手紙を扱ったケースであろう。年賀状も『猫』1作で残りの全作品分くらいの量を発表している。
 坊っちゃんが松山入りした翌日旅館で清に書いた、3行半(句読点除く150文字)の手紙(全文)が、おそらく漱石が小説にふつうに(まじめに)書き込んだ最初の手紙であろうか。(『坊っちゃん』の中の、この「150」ないしは「15」という数字の、10ヶ所以上に及ぶ連鎖については、本ブログ坊っちゃん篇21を参照いただきたい。漱石がなぜ松山15万石をわざと、あるいはうっかり25万石と書いたか、その理由について推測している。)
 その返事たる清の手紙を読むくだりは、癇性でせっかちな数学教師坊っちゃんの書いた文章と思えないくらい、柔和でかつ文芸的である。ターナー島の叙景も劣らず詩的であるが、このときも坊っちゃんは、こんなところへ清を連れて来たらさぞ愉快だろうと言っている。『坊っちゃん』の清ほど作者の同情を受けた登場人物は他にいないだろう。それもこれも作者始めての「女性の手紙」ゆえであろうか。(清の手紙を「女性の手紙」とするのは飛躍かも知れないが、萩野の婆さんは「奥様からの手紙」と言い切っている。坊っちゃんはこのとき「取って24」だから「奥様」は20歳くらいの若い女であろう。読者より小説の方がぶっ飛んでいるのである。)

 『野分』では手紙のステータスはやや低くなる。優柔不断な高柳君は母へ手紙を書いたようにも見え、書かなかったようにも見える。道也は兄からの呼び出しの手紙を受取り、債権者へ言い訳の手紙を書く。
 『虞美人草』の末尾は、甲野さんが倫敦の宗近に送った手紙とその返事である。漱石は最初期の作品から手紙に親しんだ小説を書き続けた。『三四郎』以下は断わるまでもない。漱石作品は常に手紙と共にあった。
 全巻を俯瞰すると『草枕』が唯一の例外かと思われるが、那美さんは別れた夫の動向を知っていたのであるから、当然手紙の遣り取りはあったはず。まあそれは物語の外の話だから除外するとしても、画工の旅の手帖に書き入れた那美さんの付け句や添削は、画工へのラヴレターになっていたとは言えるだろう。

 漱石作品で一番長い手紙は、勿論「先生の遺書」(『心』)であるが、次が『塵労』(『行人』)のHさんの手紙、3番目が『松本の話』(『彼岸過迄』)市蔵の手紙(複数)であろう。後2者は手紙というより旅日記に近いが、先生の遺書にしても、故郷を捨てて都会を放浪する先生とKの、最後に辿り着いた悲劇の物語であるとも言えよう。この3本の手紙には(実体が何であれ)、ボリュウムや男性が書いていること、原文通り(書かれた通り)に紹介されていること以外にも、奇妙な共通点がいくつかある。

A.事前に書く約束がしてあり、半ば義務によって書かれている。
B.何らかの報告書の形で書かれている。
C.返事をまったく期待しない、一方通行の手紙である。
D.漱石の分身たる人物が書いている。あるいは分身たる人物について書かれている。
E.その小説の最後を飾るものとして配置されている。

 中期3部作の異称に「おたより3部作」を加えたくなる所以であるが、これらの共通点だけを見ると、手紙や日記というよりは、学生の課題提出(レポート)か年度末試験に近いものであり、いっそ漱石の書く新聞小説のようでもある。
 また「先生の遺書」は遺書であって手紙ではないとする意見もあるかも知れないが、私が夜汽車の中で読んだ「遺書」の冒頭と末尾はまさに手紙そのものであり、1通の手紙としてカウントすることに何の問題もない。『心』には他にも10通以上の手紙が紹介される。私が先生に出した手紙は3通、先生からの手紙は2通で、小包みたいな2通目が大部の遺書である。先生からは電報も2本貰っていた。
 『行人』でも手紙は同じく10通以上、効果的に使われている。二郎の佐野氏観察報告、三沢の電報みたいな葉書や緊急入院を綴った手紙、旅先から留守宅への寄書きの絵葉書、どこぞへ長い手紙を書く父は二郎に拝啓の啓の字の略し方について小言を言う。
 『彼岸過迄』も森本の大連からの手紙、田口の手紙を使った同僚へのいたずら、敬太郎に対する尾行の依頼等も(差し向かいや電話でなく)手紙でなされ、市蔵母子を鎌倉に誘ったものは千代子百代子連名の手紙であった。末尾の市蔵の卒業旅行でも、葉書で短い報告が何度か繰り返された後、3通の沈鬱な手紙が書かれる。

 余談だが、半年分の賄い付き下宿料を踏み倒して失踪した森本からの手紙が、敬太郎の手許に届いた経緯については大いに疑問が残る。いくら差出人を匿しても、清国の切手や消印から下宿側には逃亡した森本であるとバレているのではないか。だいたい状袋(封筒)を見れば男か女か年配者か、敬太郎と同じ学生かくらいのことは直ぐ分かるのである。被害額は100円は下らないはずである。すでに早く大家は森本と敬太郎の関係を疑っていたのであるから、怪しい手紙は密かに開封されておかしくない。森本は(漱石も)その辺のリスクは承知していたものと見えて、手紙の中に負債は遠からず全額返済する旨の記述をしたうえで、自分の名前や精確な住所地は明かしていない。
 物語の進行はその後も限りなく怪しい方向へ発展するのであるから(玉を呑む蛇頭ステッキ・七味唐辛子も売る文銭占い・黒子の男尾行事件)、漱石もどこまでもミステリィ仕立てで行こうと決めていたのかも知れない。この探偵小説趣味、理屈を押し出す作風が、当時の純文学の専門家から嫌われた所以であろう。

 ついでに他の3部作にも触れると、『三四郎』美禰子の菊人形お知らせハガキ、ストレイシープの画ハガキも文章が書かれていない分、より強く印象に残る。これらのハガキこそが始めての「女性の手紙」であろうか。ファンの中では「好きな漱石の手紙」の1、2を争うかも知れない。文章はたったの1行であるが。
 小説の構成上でのインパクトとしては『それから』末尾で兄の持参した父の手紙(絶縁通告)が強烈である。小説冒頭の平岡の(乱暴な字の)葉書も、なぜか読者の記憶に残る。この葉書には裏表事件というのもあった。
 『門』も宗助の手紙を書くシーンから始まって、小説全体で優に20通を超える手紙が披露される。数では(次作の『彼岸過迄』を押えて)ナンバー1かも知れない。佐伯の叔母の手紙を見て御米が、叔母さんらしいと宗助に言うのは、(御米は佐伯の叔父叔母とほとんど接点がないのだから)不自然であるとは、本ブログでも述べたことがある。(門篇12)

 『道草』では養母が健三の学校(五高)へ長い愚痴の手紙を送りつけて、健三は珍しくはっきり苦情を申し込んでいる(ただし東京の兄にそれを代行させた)。出不精の健三が御住の父へ年始を省略して年賀状だけで済まそうとしたのを、岳父が決して許さなかったというエピソードも、自分の経験を書いただけにせよ時代を感じさせる。
 『明暗』は大長編の分だけ手紙もそれなりに行き交う。津田の温泉宿で書く絵葉書のシーンで、従兄弟の真事のことを「甥の真事」と(小説の本文を)書き間違えたのは有名な話。特異なのは画学生原とおぼしい人物の手紙の全文紹介であろう。長さも漱石の中では連載1回分を使って、堂々の4位というところか。ただし手紙の内容はストーリーにとくに結びつかないようで(書かれなかった続篇に空想をめぐらせても、あの叔父叔母に騙された話にオチがあるとは思えない)、『猫』の手法に「本卦還り」してしまったのだろうか。
 余談だが『明暗』には(百科全書みたいに)それまでの漱石の作品の特色が全て詰まっているが、『猫』まで参照していたのではいつまでも終わらないわけである。(『猫』には「送籍」の短篇『一夜』まで飛び出すが、『明暗』にも倫敦の戴冠式見物肩車事件の「猿」が描かれる。)
 珍しいのはお延の(京都の)両親宛手紙の文章が、全部でないにせよそのまま引用されていること。『坊っちゃん』清の手紙も『それから』嫂梅子の手紙も、語り手の言葉でリライトされていたことを思うと、女性主人公お延が、半分だけ男(漱石)であったことが察しられる。

 ちなみに漱石作品で女性の手紙が「全文掲載」されたケースは、ほぼないに等しい。わずかに上記でも少し触れた美禰子の三四郎宛葉書、

「明日午後一時頃から菊人形を見に参りますから、広田先生のうち迄入らっしゃい。美禰子」(『三四郎』5ノ3回)

 が紹介されるだけである。この短いメッセージに前文が付着していたか否かについては、漱石に直接聞いてみるしかないが、論者は付いていない派である。美禰子が「新しい女」であるというのは、こういう「電報みたいな」葉書を書く「男」(『行人』の三沢)であるという意味であろう。

 葉書を全文引用したからといって、これを美禰子のセリフと見れば、小説の他の部分と同じではないか、とも言われよう。慥かにそうかも知れない。しかし(男の)作者にとっては、女の登場人物がしゃべるのと手紙を書くのとでは、天地の差があるのではないか。漱石は女にしゃべらせても、代わりに日記や手紙を書くことはしないはずである(太宰治じゃないのだから)。那美さんが画帖に付け句をしたのをそのまま書いたことが、すでに異例のことであった。分かりにくいかも知れない話なのでもういちど整理すると、


イ.那美さんの付け句・添削。
ロ.美禰子の2通の葉書。
ハ.お延の両親宛手紙(の一部)。

 女性の書いたものがこの3回だけ、作者の「言い換え」を経ずに、直接オリジナルの形で読者の前に披露されている。繰り返すが、ヒロインのセリフや所作を叙述することと、ヒロインが書いたものをそのまま剝き出しで記述することとは、作者の心情という観点からは全く異なる行為ではないか。
 ヒロインのセリフをどう書こうが、それは作者にとっては通常の意味での執筆作業である。作者はその都度女になりきっているわけではない(少しはなるかも知れないが)。しかしヒロインに日記や手紙を書かせて、それをそのまま発表すれば、それは作者が「女装」することにつながる。本人になりきらないと、ふつうは日記も手紙も書けないからである。太宰治はこれを「毛脛丸出し」と言った。漱石は(ドストエフスキィに比べても)毛脛を丸出しにしない作家であるが、その漱石にして上記3つの特例があった。漱石はこのときだけ女になっていたのである。という言い方が漱石に似つかわしくないのであれば、彼女たちはこのときだけ男(漱石)になっていたのである。

 ついでに言えば、上記 イ.ロ. も断片に近いものである。かろうじて文章といえるものは、引用した美禰子の1通目の葉書だけである。そのことを見ても ハ. のお延の10行くらいの手紙が、いかに異例であるかが分かるだろう。『明暗』のお延こそが漱石最初で最後の、真の「女主人公」であった。