明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 24

280.『坊っちゃん』1日1回(2)――芋が剥き出しになっている


第2章 到着 (全3回)
(明治38年9月4日月曜~9月5日火曜)

1回 松山初日に清の夢を見た
(9月4日月曜~9月5日火曜)
(P261-6/ぶうと云って汽船がとまると)
港屋で中学校の行き方を尋く~山城屋~港の鼻たれ小僧や宿の客引きや女中にも馬鹿にされる

 坊っちゃんが上がりそうになって上がらなかった「港屋」は、ターナー島の章でちらと参照されたあと、最終章で山嵐の臨時のベースキャンプとして蘇ることになる。坊っちゃんが実際に泊まった宿は、勘太郎の家と同じ「山城屋」であった。思うに漱石は『坊っちゃん』を短篇小説と位置付けていたので、読者の記憶力にも頼むところがあったのであろう。同じ名前、言い回しが登場することの視覚的(聴覚的)効果を期待していたと思われる。
 前述したが屋号だけでなく、例えばこの回に登場する様々なアイテムは、他の章にも書かれて互いに参照・共鳴し合って、独特のリズムを生む基となっている。

①マッチ箱のような所謂坊っちゃん列車――第7章マドンナ登場へ。
②中学校の宿直教員――第4章宿直事件へ。
③清が笹飴を食う夢を見た――第1章の清の越後の笹飴は、第4章バッタ事件でも触れられた。
④田舎者と見くびられたズックの革鞄(第1章見送りのとき清が歯ブラシ等を入れてくれた)――小説の大尾にもちゃんと書かれた。
⑤下女が顔を見てにやにや笑うので江戸前の啖呵を切った――第11章教員仲間に顔を見られて笑われたとき同じような啖呵を切った。

 『明暗』の頃の漱石は自作の展開を芋掘りに譬えたが、『坊っちゃん』ではその芋は地中に埋められているというよりは、畠(原稿紙というフィールド)の上へそのまま並べられていると言っていい。漱石は愉しみながらそれを収穫しているようでさえある。

2回 教員控所で1人ずつ辞令を見せた
(9月5日火曜)
(P264-4/学校は昨日車で乗りつけた)
全員に渾名を付けて遣った~狸・赤シャツ・うらなり・山嵐・漢学の爺さん・野だいこ

 漢学の爺さんだけ渾名が付けられなかったのは、江戸の人漱石による中国への遠慮であろうか。徳川期の人にとって明朝は親会社みたいなものであるから(藤三娘とまでは言わないにせよ、荻生徂徠も物徂徠と中華風に署名していた)、たとえ唐詩王陽明に私淑していなくても、昔の中国の文字を教える先生に、結句そこから派生したであろう言葉による渾名を付けるのは、漱石といえども憚られたのであろう。その漱石にして「日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろう」と暴言を吐かしめているのは、(酒席であることを考慮しても)漱石もまた明治の人であったということか。(ちゃんちゃんという「蔑称」は清朝を指し明治期に始まったとされるようだが、それよりもっと以前、例えば秀吉の対明出兵の頃には既に使われていたのではないか。)
 それを気にしたのか坊っちゃんの渾名ツアーのラストは、野だに対する、「こんなのが江戸っ子なら江戸には生まれたくないもんだと心中に考えた」で締め括られた。つまり中国・漢学に対する遠慮を、丸ごと(江戸ごと)吹き飛ばそうとしたのである。

3回 早速清へ手紙を書く
(9月5日火曜)
(P268-1/挨拶が一通り済んだら)
授業は明後日から~階段下の部屋から大座敷へ~清への手紙~山嵐の急襲~いか銀へ宿替え~女房はウィッチに似ている

 この部屋かいと大きな声がするので眼が覚めたら、山嵐が這入って来た。最前は失敬、君の受持ちは……と人が起き上がるや否や談判を開かれたので大に狼狽した。

 坊っちゃんの部屋を訪れた山嵐は、(『それから』の)代助の家を急襲した平岡を彷彿させる。山嵐と平岡の共通点は世間話をしないということだろうか。坊っちゃんの書き振りに似て無駄話を一切しない。書生風と言ってしまえば身も蓋もないが、代助も坊っちゃん山嵐みたいに、平岡と心を通じ合う友だったこともある。その代助が平岡とまったく別世界の人間として小説の中で描かれているのは、坊っちゃん山嵐と絶交するという先例に倣ったのだろう。人は裏切り得るのである。

 幸いにも山嵐の来る前に坊っちゃんは、茶代を5円はずんだおかげで15畳敷の広い座敷に移っていた。その(生まれて始めての)快適な座敷で坊っちゃんは清に「150字」の手紙を書く。早速清が笹飴を笹ごと食う夢を見たと、「笹飴」を再登場させている。学校の職員仲間に全員渾名を付けてやった、と余計なことまで書く。この埋められた芋たちはこれから先どこで掘り返されるのか。というより無造作に置かれた芋は、どこで拾われるのだろうか。
 清からは第7章で返事が来る。禁欲的にも手紙はこの2通だけである。『坊っちゃん』のボリュームからこれが精一杯と漱石は判断したのだろう。漱石作品に手紙は付き物である。長篇短篇合わせて手紙の登場しない小説は皆無と言ってよい。(『二百十日』と『坑夫』がそれに該当するかも知れないが、それは度外視して、)唯一の例外とおぼしきは『草枕』であるが、全体が絵手紙とも言える『草枕』の中から敢えて探せば、画工が写生帖に書き連ねた発句に、那美さんがこっそりいたずらで付け句をしている。これは変則的なラヴレターであろうか。

 ストイックなのは手紙だけでなかった。『坊っちゃん』という小説の長さ(短かさ)が何よりもまずストイックである。安物の松屋製(24✕24)全150枚。先にも引用した虚子宛書簡、

「新作小説存外長いものになり、事件が段々発展只今百〇九枚の所です。もう山を二つ三つ書けば千秋楽になります。趣味の遺伝で時間がなくて急ぎすぎたから今度はゆるゆるやる積です。もしうまく自然に大尾に至れば名作、然らずんば失敗、ここが肝心の急所ですからしばらく待って頂戴。」(明治39年3月23日付高浜虚子宛書簡)

 これは物語のエンディングのまとめ方を言っているのではなく、小説のボリュームのことを言っているのではないか。現在109枚である。これが「150枚」にまとまれば成功、でなければ失敗。先の項で漱石が15に異様にこだわるように見える書き方をしたが、坊っちゃんの「150文字」の手紙を(概要でなく)わざわざ全文、小説に記したということは、漱石は慥かにカウントしたのではないか。漱石はある信念を以って真面目にそれを数えていた。縁起を「担いだ」わけでない。鏡子夫人が貼り付けた(伸六だかの)虫下しのお札を、怒って塵芥箱に叩き込んだのも、漱石にはそういう信念があって、それで本気に怒ったのだと思われる。自分の細君がたわいもない迷信に頼ったからといって、ふつう夫はそこまで腹を立てない。漱石には漱石の信じる「宗派」が(そのときだけ)あったのである。

 とまれやって来た山嵐に紹介されて、坊っちゃんはいか銀の下宿へ移ることになる。前述したが、帰りに奢られた「氷水(1銭5厘)」という語が、(その場限りのものでなく)今後幾度となく繰り返されるのを、ほとんどの読者はもう知っていることだろう。
 そのいか銀では主人が出しゃばるが女房はウィッチに似ているとしか描かれない。坊っちゃんが次に引き移った萩野の下宿はその反対で、謡を唸る隠居老人の主人は引っ込んで婆さんの独り舞台である。前述したがこの婆さんはシェイクスピア劇に出て来る魔女的な役目を帯びていて、観客に作者の舞台設定を「解説」してくれる。思うに漱石は倫敦の下宿での体験をそのまま書くわけにはいかないので、いか銀(外見)と萩野(実質)、2人の下宿屋の女房に魔女役を振り分けたのであろう。