明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 23

279.『坊っちゃん』1日1回(1)――勘太郎ふたたび


 恒例により『坊っちゃん』に目次を付けてみる。幸いにも『坊っちゃん』は11に章分けされている。これは『三四郎』13、『それから』17、『門』23に比べてどうか。1章あたりのページ数という観点から、バランス的には『門』がもっとも近いようであるが、『門』は新聞連載では全104回である。してみると『坊っちゃん』を新聞連載すると50回くらいになるのだろうか。
 本ブログでも再三引き合いに出している、『坊っちゃん』と似たような分量の3作品、『彼岸過迄/須永の話+松本の話』全47回、『行人/塵労』全52回、『心/先生と遺書』全56回と比べてみても、『坊っちゃん』50回というのは妥当と言えるが、実際には『坊っちゃん』は一気呵成に書かれたから、後年の諸作品の書き振りが参考になるか、疑問ではある。まずは『坊っちゃん』を始めから読んで行くしかない。
 回数分けは無論仮定であるが、その箇所の参考として附したページ表記は、定本漱石全集(第2巻)のページと行番号である。目安として該当行の書出しと、回の末尾を数行ずつ付け加えた。言うまでもないが章や回のタイトル・カレンダーは、あくまでガイドのつもりで勝手に付けてある。

第1章 坊っちゃん (全5回)
(明治16年~明治38年/明治38年8月31日木曜~9月2日土曜)

1回 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る
(明治16年1歳~明治28年13歳)
(P249-5/親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出して居たら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、此次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。)
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(太い孟宗の節を抜いて、深く埋めた中から水が湧き出て、そこいらの稲に水がかかる仕掛であった。其時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ちぎれをぎうぎう井戸の中へ挿し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食って居たら、古川が真赤になって怒鳴り込んで来た。慥か罰金を出して済んだ様である。)

飛降事件~刃傷事件~勘太郎事件~人参畠事件~井戸埋立事件

 さて先にもくだくだしく述べた勘太郎退治事件であるが、実はこの事件にはもうひとつの解がある。勘太郎が一方的に悪いのではないという、坊っちゃんにとっては芳しくない展開であるが、漱石にとっては他のいたずら事件と整合性が取れるということで、あながち等閑視できない見方である。

 庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりに①聊か許りの菜園があって、真中に栗の木が一本立って居る。是は命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに背戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が山城屋と云う質屋の庭続きで、此質屋に勘太郎という十三四の倅が居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖に四つ目垣を乗りこえて、②栗を盗みにくる。・・・山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ真逆様に落ちて、ぐうと云った。

 この①でいう「菜園」が、坊っちゃんの家の菜園であるとはどこにも書いてない。もちろん山城屋の持ち物でもない。菜園の西側は、書かれてある通り坊っちゃんの家の庭であろうが、それに接して南側はずっと菜園まで山城屋の土地である。勘太郎は自分の敷地(だけ)を歩いて、南側から崖と四つ目垣をよじ登って第三者所有の菜園に侵入した。菜園の中に立つ栗の木は、坊っちゃんが大切にしている宝物であるから、勘太郎は②のように盗人扱いされるが、もともと誰のものでもない。勘太郎坊っちゃんに退治される謂われはないのである。これだと母親が山城屋に詫びに行ったのもよく理解できるだろう。

2回 こいつはどうせ碌なものにはならない
(明治29年14歳~明治30年15歳)
(P251-6/おやじは些ともおれを可愛がって呉れなかった。母は兄許り贔屓にして居た。此兄はやに色が白くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじが云った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った。成程碌なものにはならない。御覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。只懲役に行かないで生きて居る許りである。)
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(清がこんな事を云う度におれは御世辞は嫌いだと答えるのが常であった。すると婆さんは夫だから好い御気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めて居る。自分の力でおれを製造して誇ってる様に見える。少々気味がわるかった。)

家族の誰からも愛されない~母の死に目に会えず~下女清の登場~勘当事件(飛車投擲事件)~清だけが可愛がってくれる

 漱石の不幸の始まりは、前述した実家と養家の2種類の親であったが、坊っちゃんは幸いにも親は1組しかいなかった。しかし両親から相手にされないのでは、いないのと同じである。否もっとたちが悪いかもしれない。清はそれを察知して坊っちゃんを可愛がったが、それは結局金之助が養家に不必要に甘やかされ、実家からは居候のように扱われたことと同じ不幸である。
 坊っちゃんには『道草』で謂う島田夫婦の代りに清がいた。それで帝大ではなく物理学校へ行った。坊っちゃん漱石の違いはそれだけである。それが何を意味するかは俄かには断じがたいが、坊っちゃんもまた極端に偏った愛情によって2方向に引き裂かれたことだけは慥かである。これを悲劇と言わずして何を悲劇と言おうか。

3回 母が死んでから清は愈おれを可愛がった
(明治31年16歳~明治34年19歳)
(P253-7/母が死んでから清は愈おれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。つまらない、廃せばいいのにと思った。気の毒だと思った。夫でも清は可愛がる。折々は自分の小遣で金鍔や紅梅焼を買ってくれる。寒い夜などはひそかに蕎麦粉を仕入れて置いて、いつの間にか寝て居る枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼饂飩さえ買ってくれた。只食い物許りではない。靴足袋ももらった、鉛筆も貰った。帳面も貰った。是はずっと後の事であるが金を三円許り借してくれた事さえある。)
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(ほかの小供も一概にこんなものだろうと思っていた。只清が何かにつけて、あなたは御可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。其外に苦になる事は少しもなかった。只おやじが小使を呉れないには閉口した。)

父と兄と男だけの味気ない生活~清の同情と異様な溺愛~3円借金事件

 おれは何が嫌だと云って人に隠れて自分丈得をする程嫌な事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、おれ一人に呉れて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄したもので御兄様は御父様が買って御上げなさるから構いませんと云う。是は不公平である。おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。然し清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺れて居たに違ない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。

 坊っちゃんは間違いは糺す性分である。清の主張は正しくない。父は依怙贔屓しない(父は跡取りの長男と余計者の次男を正当に区別したに過ぎない)と、他ならぬ坊っちゃんが断言している。では清のくれた諸々の小間物は兄と折半すべきであろう。しかし坊っちゃんは清の愛情のせいにする。そしてその愛情のそもそもの由来は、坊っちゃんの存在にあるのではなく、清の教育のなさにあるというのである。

 ある時抔は清にどんなものになるだろうと聞いて見た事がある。所が清にも別段の考もなかった様だ。只手車へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。

 これはなかなか抒情的なシーンであるが、同時に坊っちゃん漱石)の哀しい記憶でもある。家というものの中に家族のイメジがない。人がいない。ただ玄関があるだけである。坊っちゃんにとって家とは何か。清の意見に紛らせているが、坊っちゃんの頭の中にある家には、肝心の家族がいないのである。これでは立派な玄関があろうがなかろうが、何の役にも立たないではないか。ちょうど漱石の生家の玄関が何のおまじないにもならなかったように。

4回 六百円の使用法に就て寝ながら考えた
(明治35年20歳)
(P256-4/母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。其年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。おれは東京でまだ学問をしなければならない。兄は家を売って財産を片付けて任地へ出立すると云い出した。おれはどうでもするが宜かろうと返事をした。どうせ兄の厄介になる気はない。世話をしてくれるにした所で、喧嘩をするから向でも何とか云い出すに極って居る。)
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(どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出て居たから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続をして仕舞った。今考えると是も親譲りの無鉄砲から起った失策だ。)

父の死~財産整理~兄に600円貰う~清は50円貰う~兄との別れ~物理学校入学

 とはいえ坊っちゃんに母の死は相当こたえたようである。

母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮して居た。(第1章2回)
母が死んでから清は愈おれを可愛がった。(第1章3回)
母が死んでから五六年の間は此状態で暮して居た。(第1章3回)

 文節の書出しに「母が死んでから」を繰り返しているが、この回の冒頭にも、さらにそれが繰り返される。つい勢いで書いてしまったのだろうが、珍しいことではある。

母が死んでから六年目の正月に⑤おやじも卒中で亡くなった(第1章4回)

 父の死は⑤の1行だけである。父親は頑固だが依怙贔屓しなかった。坊っちゃんも頑固であるが、父と母の(死の)扱いには格差を設けているようである。それより前項で気になった母の死亡時の坊っちゃんの年齢について、④に続く文章は、「其年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。」である。母の死んだ年が14歳とすると、④にあるようにそれから6年目の、父の亡くなった正月は20歳。それから物理学校に3年、卒業して今23歳で松山に来ている。三四郎は物理学校でなく五高に3年行って、それから大学に入るときに宿帳に23年と書いている。「おれは清から三円借りている。其三円は五年経った今日までまだ返さない」(第6章)というのは18歳、中学4年のときのことである。母が亡くなって6年間、14歳から20歳まで(現代でいえば中学高校の6年間)、坊っちゃんは父から小遣いを貰えなかった。これがどんなに辛いことだったかは想像するに余りある。では坊っちゃんは(小説だから)14歳でいいとして、『硝子戸の中』の「13、4歳」はどう解釈すればいいのか。『硝子戸の中』は『道草』の頃に書いた随筆である。漱石はわざと間違えたのだろうか。それともそこには何か理由があるのだろうか。

 おれは六百円の使用法に就て寝ながら考えた。

 漱石は元来自然体を旨とし、文章に技巧を凝らす作家(芥川龍之介のように)ではない。しかしこの自然に出て来るような、味のある言い回しを技巧と捉えれば、とてつもない技巧派と言えよう。「寝ながら考えた」の「寝ながら」を取り除いて読んでみると分かる。もちろん他のどんな言葉にも置き換わらない。1つの言葉がそれに続く10行の記述に効果を及ぼし続ける。ふつうの作家が書くと、わざとらしくなってしまうことが多い言い回しであるが、前後の文章とのつながりもあり、真似しようとして簡単に出来るものでもない。

 六百円を三に割って一年に二百円宛使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。夫から⑥どこの学校へ這入ろうと考えたが、⑦学問は生来どれもこれも好きでない。ことに⑧語学とか文学とか云うものは真平御免だ。⑨新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない

 坊っちゃんは物理学校(たぶん数学科)に入るのだから、漱石坊っちゃんを自分と正反対の途を歩ませたと思われがちだが、坊っちゃんの学業に対する姿勢・考え方は漱石そっくりである。
 学校を頻繁に替える(⑥)。目的がはっきりしない(⑦)。二松学舎に学んだこともあるが、漱石は漢文国文には嵌り込まなかった。文学にしても英語にしても、そこに自己の目指すべきゴールを見つけたとは言えまい。事実漱石は、真平御免と思いながら英文学の講義を続けていたのだし(⑧)、新体詩の価値を認めていなかったこともまた否定できない(⑨)。坊っちゃんにかこつけて、漱石は自分の嗜好をちゃっかり主張している。坊っちゃん漱石の歩んだ通りを「寝ながら」主張している。

5回 もう御別れになるかも知れません
(明治35年20歳~明治38年23歳/明治38年8月31日木曜~9月2日土曜)
(P258-11/三年間まあ人並みに勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。然し不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業して仕舞った。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業して置いた。卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何の用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだと云う相談である。)
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(愈約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝て居た。おれの来たのを見て、起き直るが早いか、坊っちゃん何時家を御持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思って居る。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのは愈馬鹿気て居る。おれは単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢の乱れをしきりに撫でた。余り気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みには屹度帰る」と慰めてやった。夫でも妙な顔をして居るから「何か見やげを買って来てやろう、何が欲しい」と聞いて見たら「越後の笹飴が食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。「西の方だよ」と云うと「箱根のさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。出立の日には朝から来て、色々世話をやいた。来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れて呉れた。そんな者は入らないと云っても中々承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔を昵と見て「もう御別れになるかも知れません。随分御機嫌よう」と小さな声で云った。目に涙が一杯たまって居る。おれは泣かなかった。然しもう少しで泣く所であった。汽車が余っ程動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、矢っ張り立って居た。何だか大変小さく見えた。)

卒業~校長の呼び出し~中学校教師の口~清との別れ

 この回(全40行くらい)もすべて、先の「寝ながら考えた」が霞んでしまうくらいの見事な文章である。おそらく『坊っちゃん』の第1章の終わりの20行くらいが、文章としてはこの小説の白眉であろう(そのためガイドの引用行を特別に増やしてある)。この第1章最終回の、前半の20行くらいが3年間の話である。後半の(白眉の)20行は3日間である。それが限りなく自然に融け合って、大人も子供も腑に落ちる。それでいて小説全体の、一部分としての機能もちゃんと果たしている。永遠の名作たる所以である。