281.『坊っちゃん』1日1回(3)――記念すべき最初の松山弁
第3章 教室 (全3回)
(明治38年9月7日木曜~9月24日日曜)
1回 まちっとゆるゆる遣っておくれんかなもし
(9月7日木曜)
(P270-13/愈学校へ出た。初めて教場へ這入って高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒は八釜しい。時々図抜けた大きな声で先生と云う。先生には答えた。今迄物理学校で毎日先生先生と呼びつけて居たが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。何だか足の裏がむずむずする。おれは卑怯な人間ではない、臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けて居る。先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲を聞いた様な気がする。)
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(実はゆうべ茶を買ってくれと頼んで置いたのだが、こんな苦い濃い茶はいやだ。一杯飲むと胃に答える様な気がする。今度からもっと苦くないのを買ってくれと云ったら、かしこまりましたと又一杯しぼって飲んだ。人の茶だと思って無暗に飲む奴だ。主人が引き下がってから、あしたの下読をしてすぐ寝て仕舞った。)
最初の授業~あまり早くて分からんけれ~出来ん出来ん~お茶を淹れに来る宿の主人
・最初の1時限
控所へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。うんと単簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。
山嵐も坊っちゃんも無駄口を叩かない。しかし物語が佳境に入ると、そうでもないことが分かる。会津人山嵐はなかなか雄弁家である。江戸っ子坊っちゃんはべらんめいである。無口な小説家というのは言語の矛盾である。小説家は基本的におしゃべりである(川端康成といえども、あるいは大西巨人といえども)。おしゃべりだから小説を書くのである。
・2時限目
箆棒め、先生だって、出来ないのは当り前だ。出来ないのを出来ないと云うのに不思議があるもんか。そんなものが出来る位なら四十円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。今度はどうだと又山嵐が聞いた。うんと云ったが、うん丈では気が済まなかったから、此学校の生徒は分らずやだなと云ってやった。山嵐は妙な顔をして居た。
「妙な顔をする」「変な顔をする」というのは漱石のよく使う言い回しである。相手の言うことが理解できない、「?」という意味に過ぎないのであるが、その人物の心の中に踏み込んで書くわけにも行かず、といって漱石の性格から、相手の反応を書かないわけにも行かない。
顔の表情だけではない。この回にはいか銀のこんな記述もある。
おれはそんな呑気な隠居のやる様な事は嫌だと云ったら、亭主はへへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、どなたも御座いませんが、一反此道に這入ると中々出られませんと一人で茶を注いで妙な手付をして飲んで居る。
ここまで読んで来た第1章と第2章にも、この書き方は目立っている。
余り気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みには屹度帰る」と慰めてやった。夫でも妙な顔をして居るから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」と云った。(第1章5回)
門口へ立ったなり中学校を教えろと云ったら、中学校は是から汽車で二里許り行かなくっちゃいけないと聞いて、猶上がるのがいやになった。おれは、筒っぽうを着た男から、おれの革鞄を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。宿屋のものは変な顔をして居た。(第2章1回)
飯を済ましてからにしようと思って居たが、癪に障ったから、中途で五円札を一枚出して、あとで是を帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をして居た。夫から飯を済ましてすぐ学校へ出懸けた。(第2章1回)
ここで先の小説の記述を引用するのは気が引けるが、『坊っちゃん』全体ではいくつもないので、ついでに挙げてみる。
然し逃げられても何ですね。浮と睨めくらをしている連中よりはましですね。丁度歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙な事ばかり喋舌る。よっぽど撲りつけてやろうかと思った。(第5章2回)
あんまり腹が立ったから「マドンナに逢うのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして互に眼と眼を見合せている。赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。(第6章5回)
漱石以外の作家ならたいてい省略するか、あるいは別の種類の描写を試みるところであろう。漱石は自分の喋ったことが相手にどう伝わるか気になるのである。気にするのは作者自身や主人公に限らない。
「道理で妾が話したら変な顔をしていましたよ。貴方もよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」(『心/先生と遺書』47回)
奥さんはKの心の中を知るべくもないのであるから、下手な想像をして自滅するよりは、この書き方が「正しい」わけである。これほどまでに気を遣う漱石にして、時として作中人物に憑依することがあるのはどうしたわけであろう。本ブログ三四郎篇でも述べた美禰子についての、「三四郎は自分の方を見ていない。」という記述を、読者は困惑を以って受け止めざるを得ない。漱石はわざと書いているのだろうか。《本ブログ三四郎篇4.幽体離脱の秘儀(1)三四郎は自分の方を見ていない――欄外にリンク》
2回 おい天麩羅を持って来い
(9月8日金曜~9月14日木曜)
(P274-5/それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人が御茶を入れましょうと出てくる。一週間許りしたら学校の様子も一と通りは飲み込めたし、宿の夫婦の人物も大概は分った。ほかの教師に聞いて見ると辞令を受けて一週間から一ヶ月位の間は自分の評番がいいだろうか、悪るいだろうか非常に気に掛かるそうであるが、おれは一向そんな感じはなかった。教場で折々しくじると其時丈はやな心持だが三十分許り立つと奇麗に消えて仕舞う。おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。)
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(おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。すると此時迄隅の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゆちゆ食ってた連中が、ひとしくおれの方を見た。部屋が暗いので、一寸気がつかなかったが顔を合せると、みんな学校の生徒である。先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。其晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた。)
骨董責め~其うち学校もいやになった~散歩中に蕎麦屋を見つけた~天麩羅蕎麦4杯
いか銀の骨董責め3連発。3発目で坊っちゃんは、「此男は馬鹿に相違ない」と引導を渡している。
①印材。まとめて3円なら安い買い物。
②ナントカ崋山。15円。
③端渓。30円。
「其うち学校もいやになった」の独立性については前述したが、要するに学校が嫌になったのと、大町を散歩したこと・蕎麦屋を見つけたこと・好物の天麩羅蕎麦を食ったことは直接関係ないと、漱石は釈明したかったわけである。
3回 住田温泉には遊郭も公園も団子屋もある
(9月15日金曜~9月24日日曜)
(P276-13/翌日何の気もなく教場へ這入ると、黒板一杯位な大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑しいかと聞いた。すると生徒の一人が、然し四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯也。但し笑う可らず。と黒板にかいてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。)
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(泳ぐのは断念したが、学校へ出て見ると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚ろいた。何だか生徒全体がおれ一人を探偵して居る様に思われた。くさくさした。生徒が何を云ったって、やろうと思った事をやめる様なおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえる様な所へ来たのかと思うと情なくなった。それでうちへ帰ると相変らず骨董責である。)
天麩羅先生~天麩羅四杯但不可笑~天麩羅を食うと減らず口が~遊郭の団子~赤手拭~湯の中で泳ぐべからず
田舎者は此呼吸が分からないから、どこ迄押して行っても構わないと云う了見だろう。一時間あるくと見物する町もない様な狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争のように触れちらかすんだろう。憐れな奴等だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓見た様な小人が出来るんだ。無邪気なら一所に笑ってもいいが、こりゃなんだ。小供の癖に乙に毒気を持ってる。
天麩羅蕎麦で早くも坊っちゃんは本気で怒っている。辞めてもう東京へ帰ってもいいと確信したかのようである。坊っちゃんの怒りはホットである。とても10年前の昔話をしているようには見えない。(リアルタイムの)日露戦争が飛び出して不思議でない。ところが別の章で、やはりリアルタイムで家族や清のことを語っている筈の箇所(決して昔話をしているのではない箇所)では、坊っちゃんは怒りを忘れて10年前を懐かしむような様子を見せる。いったいどちらが本当の「坊っちゃん」であるか。
ところでこの楓の鉢植えは後年、『明暗』で吉川夫人が津田の入院見舞いに持参したことがあった。してみると吉川夫人も津田も、ひねこびた了見の狭い田舎者として造型されたのではないか。『明暗』の結末に救済の道が闢かれることはないのではないか。
それはともかく、住田の温泉は十五畳敷の大きさで、ここで早くも山城屋で坊っちゃんが2日目に通された大座敷(十五畳敷)の裏が返されるとは先の項で述べたところ。あらゆるパーツが使い捨てられることなく、互いに共振し合うようにその存在を主張する。音楽的な書き方というのであろうか、絵画的な書き方というのであろうか、モチーフや旋律が繰り返されて、その都度新鮮である。だから(絵や音楽のように)読んで飽きないのである。