明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 24

237.『先生と私』1日1回(10)――永訣


第8章 卒業祝い・お別れ (明治45年7月2日火曜~7月5日金曜)
    私・先生・先生の奥さん・下女

32回 卒業式~その晩は先生の家で御馳走になる~「先生は癇性ですね」~「御目出とう」
33回 私は卒業後何をしたいかまだ決めていない~どのくらいの財産があれば先生みたいに遊んで暮らせるのか
34回 九月までごきげんよう~先生たちもこの夏は避暑に出かけるかも~「静、御前はおれより先へ死ぬだろうかね」
35回「静、おれが死んだら此家を御前に遣ろう」~「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍仰しゃるの」~「御病人を御大事に」「また九月に」
36回 鞄と土産物を買う~父はもう亡くなるものと覚悟して苦にならない~兄へ手紙を書く~「人間の何うする事も出来ない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた」

 『心』の前半は前回(31回)で終っている。あとは如何に先生の「遺書」に繋げるかであるが、先生が不自然でなく遺書を書く気になるというのは、ちょっと考えても気の遠くなりそうな荒技が必要になる。とかく評判の悪い御大葬と乃木将軍の殉死であるが、では他に納得できるようなきっかけがあるかというと、それは奥さんがインフルエンザ(かチブスかジフテリア)で頓死するくらいしか思い浮かばない。
 奥さんが先へ死んでしまったら、ぶち壊しである。『心』という小説は別物になってしまう、と読者は思いがちであるが、果たしてそうか。
 これは先生がなぜすぐに自殺せず、中年になってからそれを実行したかという謎にも共通する問題であろう。
 Kへの贖罪を背負って辛うじて生きている先生が、奥さんの急死に遭遇して生きる望みを失うことは大いにありうる。先生は遂に、過去の自分の行為を打ち明けて許しを請う機会を、永遠に失ってしまった。先生は天国の奥さんとKを想起して、何をおもうであろうか。羨望か。嫉妬か。それとも自分の罪が天に裁かれる恐怖であろうか。(安らかに眠れ、もうすぐ自分も行くから、と思うような人なら絶対に自殺などしない。)
 そのとき始めて先生は、底知れぬ孤独感に襲われる。死者に孤独はない。死者は孤独ではない。孤独は常に生者のものである。そして死に結びつくような孤独とは、決して若者のそれではない。
 中年男たる先生の罪悪感と孤独感はまた、先生に計り知れぬ恐怖を与える。それはKの自裁に直面したときとは、比べ物にならないくらい大きな恐怖である。先生はその恐ろしさに耐えられず、死を択ぶことを決意する。そして私との約束通り、自分の過去の行為を(手紙によって)告白して天に謝罪し、Kと奥さんの許へ旅立つのである。
 自分の罪をさらけ出すことにより、許されて天国に行けるのであれば、あるいは別のどこかへ行くとしても、もう自分は孤独ではない。現世に生きる孤独と縁が切れるのなら、何も怖いものはないのである。先生は最後に安堵の笑みさえ浮かべるであろう。

 とまあ人の小説を勝手にいじくっても詮無いが、上記の(手紙によって)という語を(小説によって)と置き換えれば、およそ人の心を撽つような小説は、多かれ少なかれこのような要請に基づいて書かれるものであろう。それは何もシラーやアンデルセンのような、(あるいはトマスマンやドストエフスキーのような)作家たちに限らない、シャーロックホームズやアガサクリスティにあっても同じである。ただそれらの作家は、『心』の先生のような区々とした罪の行為というよりは、また別の個々人の思念なり罪悪感に囚われているのであり、それが論者が先に述べた「慟哭」に繋がるのだろう。(人に普遍的な感動を与えるような作品には必ず、作家の「慟哭」が附着しているというほどの論のこと。分かりやすく言えば、作者の血が流されて始めて、傑作が産まれるという、ごく当り前のことを言っている。)

「又当分御目にかかれませんから」
「九月には出て入らっしゃるんでしょうね」
 私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。然し暑い盛りの八月を東京迄来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月頃になるでしょう」
「じゃ①随分御機嫌よう。私達も②此夏はことによると何処かへ行くかも知れないのよ。随分暑そうだから。行ったら③又絵端書でも送って上げましょう
「④何ちらの見当です。若し入らっしゃるとすれば
先生は此問答をにやにや笑って聞いていた
「何まだ行くとも行かないとも極めていやしないんです」(『先生と私』34回)

 夏だけの暇乞いのつもりが永の別れになってしまったが、①「随分御機嫌よう」という定句については、『坊っちゃん』の清を思い出す。2007年集英社から『直筆で読む「坊っちゃん」』が出て、平成版の岩波の全集に、「存分御機嫌よう」と書かれた根拠が、一般の読者にも明らかになった。しかしこの箇所は漱石の書き誤りであろう。「存分御機嫌よう」などという言い方はない。「随分」という語は『坊っちゃん』には他に10ヶ所あるが、(上記集英社版によると)いずれもはっきり楷書に近い字体で「随分」と書かれている。清の別れの言葉だけ「存分」と、これまたはっきり(間違って)書かれている。
 ところで『野分』の原稿にも同じような言い方がある。

 庭には何もない。芭蕉がずたずたに切れて、茶色ながら立往生をして居る。地面は皮が剥けて、蓆を捲きかけた様に反っくり返っている。道也先生は庭の面を眺めながら

「⑦存分吹いているな」と独語の様に云った。
 ・・・
 表に案内がある。寒そうな顔を玄関の障子から出すと、道也の兄が立っている。細君は「おや」と云った。
 道也の兄は会社の役員である。其会社の社長は中野君のおやじである。長い二重廻しを玄関で脱いで座敷へ這入ってくる。
「⑧大分吹きますね」と薄い更紗の上へ坐って抜け上がった額を逆に撫でる。
「お寒いのによく」(『野分』10章)

 この⑦の「存分」が、初出(ホトトギス)、初版はじめ全ての出版物で「大分(だいぶ)」となっている。道也先生は「大分吹いているな」と言った。ふつうの言い方である。しかし平成版の岩波の全集が出なければ分からなかったことであるが、原稿が「存分」となっているのであれば、ここでも正解は「随分吹いているな」ではないか。
 吹いているのは木枯らしである。そして久しぶりに訪れた兄もまた、⑧「大分吹きますね」と挨拶している。弟が少し前に同じセリフを吐いていけないとは言わないが、漱石がわざわざ(大分でなく)「存分」と書いたのであれば、ここは「随分」のつもりではなかったか。明治39年に漱石は2回も同じ書き間違いをしたわけである。
 思うに漱石は、若い女のテヨダワ言葉に準ずる言い方、「随分だわ」「随分ね」を連発するが、若い女でない人物のセリフの頭として「随分」と書くときに、少し躊躇するものがあったのではないか。(どうでもいいことかも知れないが、奥さんは「じゃ」という接続詞のあとに「随分」という言葉を発している。)

 余談ついでに言えば、前記『直筆で読む「坊っちゃん」』のおかげで、物理学校の校長に呼ばれたときの、「何か用だろう」という投げやりな言葉が、「何の用だろう」という当たり前の言葉に訂正されたのは、坊っちゃんのためにも慶賀すべきことであった。

 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、⑨用だろうと思って、出掛けて行ったら、⑩四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだと云う相談である。(『坊っちゃん』1章)

 変体カナでは「か」は可のくずしだから、「の」の上に横棒「ー」である。この横棒を漱石はつつましやかに書くから、「か」と「の」を読み違えることがある。「か」を「の」と読み違えることはあっても、ふつう「の」を「か」と間違えることはない。でもなぜか日本一有名な小説『坊っちゃん』でその間違いが起きてしまった。
 ⑨の部分を昭和版全集等従来の「何か用だろうと思って」に置き換えて読んで見ると、改めてその不具合さに気付かされる。坊っちゃんは真摯な性格である。まっすぐな性分で融通が利かない。「何か用だろう」と思ったのなら、坊っちゃんは校長の言うことにそれほど関心はないことになる。どうでもいいのである。事実は逆で、人の言うことがどうでもよくないから、色んな場面で衝突するのである。

 ついでに言えば⑩の「四国」は、当初の原稿では「中国」である。「中」を「四」に直しているのは(筆跡から)漱石自身と思われるが、インクの濃さ・字の線の太さや勢いが、同じ原稿紙面の他の修正箇所とまるで違う。おそらく中学校へ赴任したあと、具体的に書いて来て中国では収拾が着かなくなったのだろう。

 もうひとつだけ、『坊っちゃん』から『三四郎』を経て『心』まで、上梓された本を見て漱石がなぜ訂正を申し込まなかったかであるが、これは前著でも述べたように、漱石は自作を読み返す趣味はなかった。自分の作品は自分の子供のようなもので、気に入らないからといって取り換えるわけにも手直しするわけにもいかない。「私生児みたいなもの」とも漱石は言っている。つまり可愛いけど人様に見せるのは恥ずかしい気持ちがある。自作を大勢の人が読んでくれるのは嬉しくもあり、また恥ずかしくもある。自分の欠陥を頼まれもせぬのに世間に晒していることに、漱石は気が引けているのである。そこにテニオハの間違いがあったとしても、漱石としてはもうそんなことにこだわるよりは、次のステップを目指した方がましである。人生は短い、ということであろう。

 原稿が新聞紙面になる際の間違いの当事者は、作者・担当者(校正者)・文選工、様々である。大体は本にするときまでに直されて、それでも漱石の場合は内容が高度で複雑なだけに、未だにクリアされていない問題も残っている。漱石は新聞紙面は毎日チェックして、朝日の編集者には文句を言うこともあるが、本になったらもうそれは「我が子」と同じ扱いになる。すなわち「則天去私」の心境である。自分の著作物は自分の物であって自分の物でない。すべて天の配剤である。これはある意味では正鵠を射た考え方であるとも言える。1人の詩人に神なり天なりが加担しているとしか思えないのが漱石の作品群であるとすれば。