明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 32

367.『野分』すべてがこの中にある(11)――最終作品への道


・『草枕』と『虞美人草』の例外
 『草枕』は季節だけを言えば春休みの話である。画工が那古井の温泉宿に滞在する何日かを語っているに過ぎない。画工は教師ではないのだから(那美さんからは先生と呼ばれるが)、春休みは関係ないだろうが、次の『虞美人草』も同じく春休みの旅行・移動から始まる話である。虞美人草の花が夏を越せないように、小説も春のうちに幕を閉じる。秋に無関係どころか、季節の移ろいにさえ縁のない作品である。
 この2作品が漱石にとって満足のいかない出来に終わったのは、それが原因しているのではないか。一般には飾りの多い、きらびやか過ぎる文章のせいにされているようであるが、それもまた漱石の1つの文体である。後から振り返って気に入らなかったといっても、自分の子供と同じで存在を否定することは出来ない。漱石が全部書き直したいと思ったとしたら、それは文体の問題ではなく、季節の問題ではなかったか。もっと露骨にいうと、秋の物語にすればよかったのではないか。

 物語を秋にすると文体も変わる。他の漱石作品のように、落ち着いた佇まいの文章になるのではないか、というのは文豪に対して礼を失する言い方であろうが、『草枕』は菜の花と雲雀のさえずりを変更しなければならない。シェリーの詩も別なものに差し換える必要があろう。しかし温泉の景色は秋の方が風情があるし、蜜柑山もそれらしく見えるのではないか。(だいたい田圃の稲穂が白米になるのを知らなかった漱石が、春に蜜柑畑のことを書いても、説得力に欠けるのである。)
 季節は動かせても日露戦争は動かせないから、久一の出征する時期は熟考を要するが、物語を少し早めることで解決出来よう。
 最大の問題はやはり執筆、発表時期にあったのか。夏休みに書いてすぐ一括掲載するからには、なかなか秋の話にならないわけである。『坊っちゃん』の書き方は、追憶風の過去の話の上にリアルタイムの現実を乗っけて、半年前の秋から書き起こして春に擱筆という体裁にした。『草枕』は数日間の物語であるから、夏に秋の話を書くと、過去の回想か近未来の話になってしまう。それでは『草枕』は書けない。漱石が実際に小天の温泉を訪れたのは冬(休み)と夏(5月)であったが、その体験の実感よりも、執筆している「今」の季節感の方を優先した。これが漱石の言うような文体の問題につながるのだろうか。

 『虞美人草』も直接の原因は同じところにあった。6月に執筆・連載が始まるので、つい春の話にしてしまったのではないか。『虞美人草』を秋の話にすると、タイトルから変えなければならないが、ラストの大森行きの雰囲気はより艶っぽくなるだろう。上野の博覧会は困るが、当該博覧会は4年前に大阪で、12年前に京都で、それぞれ大々的に行なわれており、井上父娘や小野さんは既に見ている可能性が高い。そうでなくても自分が行ったばかりの博覧会のことをすぐ書くというのは、いくら漱石がそういうことをする人であるといっても、文芸的には拙速に過ぎよう。ここは『三四郎』ふうに菊人形にして問題ない。
 まあそれは暴論であろうが、いずれにせよ「秋」を含まない『草枕』と『虞美人草』の2作品が、漱石の中で失敗作(書き直すべき作品)という位置付けであったことは、紛れもない事実である。

 明治39年、漱石は教師をしながら小説を書いた。(『猫』のような写生文は別として)ふだんは講義があるので小説は書けない。それで『坊っちゃん』が春休み、『草枕』夏休み、『野分』冬休みというわけである。『坊っちゃん』は小説の大尾を執筆の「今」につなげた。同じことを繰返さない漱石は、『草枕』では小説全体を「今」の季節感のまま書き切った。『野分』はそのハイブリッドであろう。作家である前にどこまでも教師であるという意識が働いている。
 ところが教師を辞めて始めて書いた『虞美人草』もまた、どちらかといえば『草枕』に近い書き方になった。夏休みに春の事件を(記憶の薄れないうちに)書いているというイメジである。朝日に入った最初の年だから仕方がないという見方もあろう。しかし先の項でも述べてきたように、1年経った『三四郎』も夏休みに書かれ、2年経った『それから』も夏休みに書かれている。「身体が覚えている」のだろうか。環境が変わって、もう必要がなくなったのにいつまでも同じ動作を繰り返す。まるでチャプリンの道化のようである。
 それで3回目(3年目)の夏、何を書いていたかというと、漱石は何も書かずに修善寺で病臥していた。小説の方が心配であるが、手回しのいいことに『門』はその年の前半で書き了えていたのである。『門』以降、漱石は1日1回の執筆ペースを守るとともに、夏になる前に小説に着手するようになって、それは最後の年まで続けられた。修善寺の大患はきっかけではなく、それまでの習慣を変更した「結果」だったのである。

・『それから』の例外
(『門』が大患前に書いた最後の作品とすると、)『それから』は漱石が「夏休み」に書いた最後の作品である。
 小説は春に始まり夏に終わっている。暑くなるにつれて代助も平岡も熱してくる。『三四郎』は爽やかな処もあったが、『それから』は暑苦しい小説である。煤煙事件も大隈事件も暑苦しい。銀行に勤めた平岡も実業家の父や兄も、もともと代助にとっては鬱陶しい存在である。三千代を平岡に周旋したのは、その鬱陶しさに対する代助なりの(甘えにも似た)反撥ではなかったか。代助の稚い本音は、三千代に「たくましそうだけど、あんながさつな人は嫌」とでも言ってもらいたかったのだろう。代助もまた(漱石に似て)天の邪鬼なところがある。

 しかし代助は平岡と争ってまで三千代を獲得する気はなかった。あとからその気持は間違っていたと弁解するが、それは小説の成行上仕方なく口にした言葉である。小説に書かれたのは代助の愛情ではなくて、代助の三千代に対する同情であった。漱石は『三四郎』で持ち出した Pity’s akin to love のオチを付けたわけである。それはここで言うことではないにせよ、漱石は梅雨の鬱陶しさを払い除けるために、謂わば俗世間の渦に清涼剤を注入するかのように、三千代を平岡に周旋し、3年後同じように暑苦しさから逃れようとして、三千代の救済に迸ったのである。
 その「暑苦しさ」はどこから来たのだろうか。『それから』だけが他の作品と季節がズレているのは、そこに原因があるのか。秋はどこへ行ったのか。

其年の秋、平岡は三千代と結婚した。そうしてその間に立ったものは代助であった。」(『それから』7ノ2回)

 平岡と三千代は秋に結婚した。ところがそれが「3年前」のことであると、小説の全篇にわたって繰り返し繰り返し10回以上も書かれている(精確には14回か15回か)。
 3年前に代助は三千代を平岡に周旋し、3年前の秋に平岡と三千代は結婚し、3年前結婚と同時に平岡夫妻は大阪に旅立ち、3年前に代助は平岡夫妻に別れた。漱石はしつこくそう書いている。つまり『それから』もまた秋の話であったことになる。
 これはおそらく『それから』の執筆時期(6月~8月)と連載時期(6月~10月)を見越して、春から夏にかけての物語の最初から、3年3年と書いているのであろうが、例えば平岡と三千代の結婚が9月だとして、執筆なり連載なりの夏を基準にして、3年前であると言い言いすることは不自然ではない。
 これが「結婚の秋」だけの話なら、「物語の今現在」の基準の置き方の問題、つまり「表現の仕方」で片付く話であろうし、あるいは(人の女房を盗むという筋立てに気を取られた)漱石の拘泥で済ませることも可能かも知れない。しかし詳しくは本ブログそれから篇に譲りたいが、『それから』の時間軸の核たる平岡と三千代の結婚時期は、小説の他の記述と照し合せても、微妙に半年だけズレているように見える。
 平岡と三千代の結婚の時期を「春」と書き換えさえすれば、すべての問題は解消すると思われるが、しかし漱石にはどうしても2人の結婚を「秋」にしたい理由があった(※1)――。

 前項でも述べた「幻の最終作品」(※2)は、『それから』のバリエーションのようなところもあるが、そこでは物語の季節は正式に秋に戻るのではないか。結婚も秋、物語も秋。では現行の『それから』は(『草枕』や『虞美人草』のような)意に満たない暫定作品なのか。
 よく知られていると思うが、『それから』の結末について、漱石自身が語ったものとして、林原耕三の文章にこんなのがある。

「あの結末は本当は宗教に持って行くべきだろうが、今の俺がそれをするとうそ、、になる。ああするより外なかった」(林原耕三『漱石山房の人々』1971年9月講談社版)

 代助は三千代と2人で世間の荒波に漕ぎ出す覚悟を決めたように書かれる。それは漱石の本意ではなかった。漱石は実のところ代助に出家させたかったのである。しかし『三四郎』を書いたばかりの漱石には、そんなことは出来なかった。三四郎が美禰子に失恋したからといって、出家するはずがない。三四郎も野々宮も出家しない。(漱石は次作『門』で、かろうじて禅寺に公案の門を敲かせるにとどまった。)
 漱石はいつ終わるとも知れない『明暗』のあとの最終作品で、『それから』の結末を宗教に持って行くという、かねての構想を実行しようとしていたのだろう。『それから』はそのために(秋という)季節の穴が最初から1ヶ所空けてあったのではないか。

※注1)秋の結婚式
 『猫』物語のラスト、10月末日くらいに苦沙弥の家に全員集合したとき、2組の結婚が読者に知らされる。寒月は郷里で結婚して来たと言うから、寒月の結婚は秋である。多々良三平は金田富子との結婚を決めて、皆に披露宴の出欠を打診しているから、年末までには結婚式は行なわれるのだろう。多々良三平の結婚は冬である。『草枕』那美さんの花嫁姿は馬上に桜の花びらの散る絵画的なシーンで印象深い。那美さんの結婚は春であった。『野分』中野君たちの結婚披露の園遊会も小春日和というからには秋~冬であるが、本ブログで比定したのは12月である。
 3部作に入ってからは3部作ごとに見てみよう。

・青春3部作
三四郎』美禰子「冬」
『それから』平岡と三千代「秋」・代助と三千代「夏」(代助と三千代の結婚は書かれないが、まあ物語の終わった夏を、2人の新しい人生のスタートと見ていいだろう。)
『門』宗助「春」(本ブログ門篇で年表を作成したが、宗助と御米が一所になったのは晩春であると思われる。)

・中期3部作
彼岸過迄』(該当なし)
『行人』お貞さんと佐野「冬」
『心』先生「冬」(卒業して半年経つか経たないうちに結婚したと書かれる。)

・晩期3部作
『道草』健三「夏」(健三の勤務地で急遽行なわれた。御住の父はセルの単衣を着ていたと書かれる。漱石と鏡子の三々九度は6月、健三たちも同じと見ていい。)
『明暗』清子「冬」・津田「春」(前著でも述べたが、津田とお延の結婚は春休み。その前の清子の結婚は3月初旬の可能性もあるが、あまりに接近しすぎるのも不自然なので、まあ2月か。)

 『行人』中断後の「塵埃」で、三沢の結婚が近いことが語られたとき、そのまま進めばぎりぎり春に間に合うような時期であったが、なぜか理由も説明されずに(先方の都合で、つまり三沢=漱石サイドの責任でなく)「秋まで延期するかも知れない」と書かれる。さらにはお重は、どこでもいいからなるべく早くお嫁に行って家を出ると泣いて宣言しているから、おそらく三沢の結婚の後、冬には片付くのだろう。(二郎はさらにそのあとで、いつになるやら分からない。)
 もう1つ、「幻の最終作品」では男(主人公の親友)と女(その後自死)の結婚は、『それから』でも強引に記述された季節たる「秋」であると思われるから、それらを加味してもういちどまとめると、

・初期作品  「秋」寒月・「冬」富子・「春」那美さん・「冬」中野君
・青春3部作 「冬」美禰子・「秋」平岡・「夏」代助・「春」宗助
・中期3部作 「冬」お貞さん・「冬」先生・「秋」三沢・「冬」お重
・晩期3部作 「夏」健三・「冬」清子・「春」津田・「秋」(幻の最終作品)

 漱石の結婚の基本は「冬」である。作品の中でふつうに採り上げられ、読者に報知される登場人物の「結婚」はなぜか冬であることが多い。「春」は冬の季節がずれ込んだというより、「夏」とともに別のグループに属するといった方が適切か。春と夏は、これもなぜか「主人公の結婚」ばかりである。

・「冬の結婚」富子・中野君・美禰子・お貞さん・先生・お重(推定)・清子。
・「春夏の結婚」那美さん・代助・宗助・健三・津田。


「春夏」の主人公のラインナップを見ると、決め付けるわけではないが、訳あり・失敗・碌でもないといった不吉な言葉が連想される。結婚自体も回想風に素っ気なく書かれるだけである。那美さんは離婚しているし、代助は結婚するかどうかさえ判然としない。読者は宗助の登場を見て始めて代助が結婚したことを知る。しかし漱石の主人公であるからには、皆一定の幸せな生活を送っているとは言える。
「冬」の方は副人物が多いせいか、ふつうの結婚のようである。『心』の先生が唯一の例外のように思われようが、先生と奥さんの夫婦は子供がいないことを除けば(除かなくても)仲の好い、世間一般によくある1つがいである。先生の物語最後に起きる悲劇は、この結婚譚とは無関係の別物であろう。先生と奥さんはちゃんと「結婚」している。それが失敗だったかどうかは他人の判断することでない。このグループは全員幸不幸の判定の外側にいる。

 ではアンダラインで強調した「秋の結婚」はどうか。

「秋の結婚」寒月・平岡・三沢・(幻の最終作品)

 対象人物はすべて主人公の友人である。つまり主人公ではなく副主人公である。そしてその結婚は限りなく曖昧なものに描かれる。
 寒月は記念すべき『猫』の中で、さらに記念すべき漱石最初の結婚譚の当事者である。しかしそこには怪しげな雰囲気が漂う。富子と結婚するものとばかり思われていたが、帰省したら突然配偶者がいたという。その相手は小説には一切登場しない。
 平岡は代助に三千代を差し出す。平岡の結婚は破綻した。
 三沢はまだ結婚もしていない。これも虚偽の匂いさえ漂うが、それを避けるため母親なる人が登場して、色々心配して見せる。三沢の相手の美しいという女性は、ほとんど描写されることがない。寒月の相手ほどではないが、何も分からない人物が結婚相手として紹介されるのは、漱石作品としては異例である。美禰子の夫君でも二言三言セリフはあった。
 幻の最終作品については論者の推測であるに過ぎず、論じても詮方ないのだが、まあ『それから』の三千代がいきなり死んでしまって、主人公は僧籍に入るというような筋書きであるから、結婚の当事者たる主人公の親友は、(平岡と違って)ただ気の毒な青年紳士という位置付けになるだろう。

 以上、『それから』でなぜ(春でなく)「秋に結婚した」と書かれたか、『行人』で三沢の結婚が無理矢理「秋」に延期されてしまったか、本当の理由は分からないにせよ、そこに何か不可解なものが潜んでいることだけは察しることが出来るのではないか。
 漱石は3部作に1つずつ「秋」の結婚話を配置した(しようとした)。そして漱石最後の結婚は漱石作品最大の悲劇を生むのである。それはヒロインの自死という、漱石が昔から様々に匂わせ、やるぞやるぞと見せかけて遂にやらなかった(と思われた)、「禁断の果実」たる究極の封じ手であった。

※注2)漱石「幻の最終作品」概略
 何度も引用するが、論者の謂う「幻の最終作品」とは、漱の死ぬ間際に残された「創作メモ」による論者の「妄想」である。

〇二人して一人の女を思う。一人は消極、sad, noble, shy, religious, 一人は active, social. 後者遂に女を得。前者女を得られて急に淋しさを強く感ずる。居たたまれなくなる。life  の meaning を疑う。遂に女を口説く。女(実は其人をひそかに愛している事を発見して戦慄しながら)時期後れたるを諭す。男聴かず。生活の真の意義を論ず。女は姦通か。自殺か。男を排斥するかの三方法を有つ。女自殺すると仮定す。男惘然として自殺せんとして能わず。僧になる。又還俗す。或所で彼女の夫と会す。(岩波書店版定本漱石全集第20巻『日記・断片下』大正5年断片71B末尾)