明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 14

388.『道草』先行作品(3)――『永日小品』


・第1集『永日小品』 明治42年1月~3月

 小品とはよく言ったものである。まるで漱石全集のためにある言葉といってもよい。漱石全集(岩波の)に随筆という分類はない。(『猫』という名作の存在にかかわらず、)漱石は筆にまかせて、筆のおもむくままに書くということをしない(出来ない)人であった。(それをするためには、「則天去私」というような標語を必要とする人であった。)必ず自分の意思が自分の主人である。
 漱石は日記も手紙もごく短い感想文も、すべて小説と同じ呼吸で書く。写生文も随筆も、メモ書きさえも、すべては同じ「漱石の文章」である。その中で小説( novel )と呼び得ないものを小品と呼ぶのだろう。そしてそのネーミングの由来( originality )は『永日小品』というタイトルに発するのだろう。もちろん「小品」という言葉はありふれた言葉である。肝要なのはその使い方である。これが真の意味での「独創」であろうか。

 小説を書き始めて丸4年、『永日小品』は漱石始めての随筆集といってよいが、創作集と称しても違和感はない。『永日小品』の先行作品たる『文鳥』も『夢十夜』も、漱石としては創作のつもりではないかも知れないが、essay というにはあまりにも内容が fantastic に過ぎた。それはこれ以上言わないとして、まず『永日小品』を連載順に見てみよう。
 珍しく漱石は連載回ごとに小題を附しているので、それを(他の随筆集と区別するために)二重括弧で表記する。以後漱石はこんな親切を読者に示さなくなった。

1回『元日』 元旦の客~謡の会となり虚子が習い始めの鼓を打つ~吹き出して失敗
 初回の新聞掲載が1月1日なので、「元日」という小題を択んだのだろうか。それともこれだけ別物のつもりだったのだろうか。(2回目は1月14日の掲載で、以下1日1回という流れになる。)
 新聞連載随筆というには少し型破りで、ここでは1年前の元日の出来事を書いている。(漱石にしてみれば記憶にある元日を書いただけで、それがいつのことであるかは大きなお世話だというのであろう。)
 正月の謡い始めは(漱石読者なら全員納得するように)失敗におわった。読者は『猫』東風の朗読会を思い出す。鼓は『行人』お重であろうか。漱石は鼓よりは鼓手の掛け声に調子を狂わされて謡えなくなったのだろう。邦楽や古典芸能には渋い約束事も多いが、突拍子もない習慣もあるのである。

2回『蛇』 叔父さんと田圃の中で~「獲れる」~鰻が跳ねる~蛇の鎌首~「覚えていろ」
「覚えていろ」は鰻を逃がした叔父さんの呟きであろうか。叔父さんの掴んだのが蛇で、その蛇の捨て台詞とすれば、『夢十夜』の続篇になるが。

3回『泥棒上』 夜中に下女の泣き声~台所の雨戸を外して泥棒が入った~帯10本盗られる
4回『泥棒下』 巡査が来る~戸締りを厳重にするしかない~次の夜も台所で音がする~鼠が鰹節を齧っていた

 漱石は「何だ!」と怒鳴って部屋を飛び出したが、泥棒には逃げられた。次の日まさかと思ったがまた音がした。漱石は慎重に探査したが音の主は鼠で、鰹節を齧られたのだった。せっかくなら鼠を追ってくれればよかったのに、と鏡子は言う。1ヶ月くらい前の出来事。

5回『柿』 喜いちゃんはあまり外で遊ばない女の子~家は銀行家~長屋の与吉に渋柿を投げる
 喜いちゃんは女の子である。お琴の稽古をする中流家庭の子である。『硝子戸の中』の(南畝の写本を持ち出した)男の子の喜いちゃんとは、明らかに別人である。

6回『火鉢』 1ヶ月前に生れた子供が泣く~𠮟りつけたいがそうも行かぬ~雑事が重なって仕事が出来ない~寒い~蕎麦湯と火鉢に救われる
 子供(伸六)は生後満1ヶ月である。それが寒くて泣くというので腹を立てる。小憎らしくなって大声で叱りつけたいが、相手が小さすぎるので我慢する。
 こんな正直な感想を述べる著述家があるだろうか。1ヶ月の赤ん坊は泣くことしか出来ない。だいいち寒くて泣くのか腹が減って泣くのか抱いてほしくて泣くのか、そんなことが子育てしたことのない明治の男に分かるわけがない。要するに漱石はなぜこんなことを書くかといえば、それは自分の書いたものを読み手が読んでどのように感じるかに関心がないのである。つまり日記を書いていると思えば分かりやすいだろうか。漱石は自分の書きたいことを書く。もちろん正しいことしか書かない。倫理を外したことはなおさら書かない。世間一般の常識にかかるか否かよりも、自分の(著述家としての)良心を優先する。本ブログで何遍も繰り返す言い方であるが、これを人は誠実といい、また身勝手という。それで百年の命脈を保つのであるから、少なくともこの漱石の行き方自体は否定されるものでない。
 といって漱石といえどもまるで読み手を無視して書いているわけでもない。日記の読み手は「自分」であろうし、『永日小品』のそれは言うまでもなく新聞の読者である。ただ読み手のために文章を枉げないということである。
 金を借りに「長澤」が来る。長澤は仮名である。読者に特定されるような登場人物の名をそのまま書いているのは、第1話「元日」の「虚子(高浜)」と、最終話に近い第26話「変化」の「中村(是公)」だけであろう。その使い分けは何に拠るか。それは漱石に聞くしかないが、漱石の中に「正しい」基準が存在することだけは慥かである。

7回『下宿』 倫敦の最初の下宿~骨ばった主婦の口から出るきれいなアクセント~主婦の身の上話~「アグニス、焼麺麭を食べるかい」
8回『過去の臭い』 K君が蘇格蘭から帰って来た~主婦が互いを紹介した~K君は公務らしく金に余裕がある~K君に金を借りる~下宿を出た後再訪したことがある~アグニスに過去の臭いを感じた
 これも奇怪な話である。『夢十夜』外伝(西洋篇)といったところか。

9回『猫の墓』 早稲田に移ってから元気をなくした猫が死んだ
 この猫は明治37年夏に迷い込んだ福猫である。『文鳥』の項(本ブログ第12項)でも述べたが、千駄木に2年、西片に1年、早稲田に1年、わずか4年の生涯であった。作家になった漱石が(論者の謂う、漱石が始めて自分のタブローにサインを書き込んだ作品)『三四郎』を書いているのを見届けるように死んだ。身寄りもなく名前もつけられず家族の誰からも邪険に扱われたが、文豪の処女作によって文学史に永遠の名を刻んだ。そして『三四郎』によってある安心立命を得たかのように漱石の許を去った。まるで漱石の一番古くからの愛読者(例えば子規)に似て、またある意味ではこの捨てられた猫は、漱石と同じような生を歩んだとも言える。

10回『暖かい夢』 倫敦での寒く孤独な生活~人は皆速く歩む~明るい大きな劇場
11回『印象』 広場と大通り~人の海に溺れる~石刻の獅子
 アグニスに続く追憶の倫敦、2回目である。英国の話は『永日小品』では5回挿入される。まとめて書くと読者にある(間違った)印象を与えかねない。(漱石は「倫敦ところどころ」を書くつもりはない。)といって書かないわけにもいかない。
「小さい」「たった1人」広場の銅像を自分と重ね合わせる。漱石は倫敦で計り知れない孤独を味わったのであろう。

12回『人間』 御作さんが旦那と有楽座へ行く~髪結いが遅れてやきもき~表に酔っ払いがいた~「おれは人間だ」
 御作さん、旦那、巡査と酔っ払い、美いちゃん。essay というよりは創作に近い。主人公はもちろん御作さんである。

13回『山鳥上』 南部の青年が山鳥を持って訪れた~青年は文学志望~作品はあまりよくない
14回『山鳥下』 青年が借金を申し込む~青年の詫び状~郷里へ帰った青年から山鳥が届く
 話は小説的(自然主義の)であるが、事実に基づく典型的な essay であろう。青年(市川文丸)のエピソードは明治41年の漱石の書簡集にある通り。明治42年1月、お礼とお詫びの山鳥の小包も実際に届いている。
 ところでこの青年の宿を(間接にだが)債権者の代理として訪れた、漱石に金を借りたがる長塚なる人物を、長塚節とする解釈があるようだが、これはある種の「都市伝説」であろうか。長塚節がこの時期漱石山房に出入りした形跡はない。たとえ出入りしたとしても、茨城で大きな農家を営んでいた摯実な長塚節が、漱石の懐をあてにする理由がない。
 漱石長塚節の『土』を推したのは2年後の明治43年のことである。それは言うまでもなく自分の弟子として推薦したのではない。早くその才能を認めたゆえでの推薦である(明治40年『佐渡が島』)。長塚節は(子規には傾倒していたが)漱石の弟子ではない。彼は富農といえなくもない家の出であり、貧乏な感じがするのは(後の大病はさておいて)、当時から単に驕奢と無縁だったからに過ぎない。
「長塚」は(第6話の)「火鉢」の「長澤」の書き誤りではなかろうか。「火鉢」での長澤は、いつも漱石に金を貸してくれと訴える弟子の1人である。

 本ブログでは漢字は新字体を採用してほとんど不都合がないと信じるが、人名で考察すべき事案が発生した場合等はその限りでない。美禰子を美弥子と書けばそれは別の女になってしまうかも知れない。ただし廣田先生を(本ブログで)「広田」と書くのは、廣嶋を広島と書くようなもので、つまり使用する活字の(メーカーの)問題で、この場合は論旨にも作品鑑賞にも何の影響もないと思うからである。與次郎を与次郎と書くのも同様である。――とはいえ論者も鷗外を鴎外とは書かないし、芥川竜之介と書く「勇気」もまた持ち合わせない。では机竜之助・与謝野晶子国木田独歩ではいけないかと言うと、それは恥ずかしながら何とも言えない(机龍之助・與謝野晶子・國木田獨歩)。
 蕪村は徳川期の人にとって與謝であったか与謝であったか。中世近世の人が実際に(墨と筆で)どう書いたかということと、近代の印刷術における(鉛の)活字がどのようにデザインされたかということとは、別の問題ではなかろうか。いわんや現代の電子的に管理されるフォントをや。所詮その時その時に誰かが作ったものに過ぎまい。
 ともかく『永日小品』の「長澤」も本来なら「長沢」とすべきところであろうが、長塚との類推のため、(このくだりだけわざと)旧字体を使用した。