明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 4

339.『野分』式場益平からの手紙(3)――漱石は誰の手紙も保存しない


 さて式場益平の話に戻って、漱石の葉書を再々掲する。

〇書簡No.811 全文 明治40年1月[推定] はがき
 駒込神明町七十三 式場益平様/本郷西片町十ロノ七 夏目金之助
 野分の御批評難有存候。越後の高岡とかき候を越中と致し候は誤に候。長岡をわざと高岡と致し候。対話の「生きべき」抔矢張不都合に候。去る、、とはどこか覚えず候。下女の足袋は御説には不服に候。まずは御礼迄早々。大兄の名前がよめません。(定本漱石全集第23巻「書簡中」)(再々掲)

 引き続き式場益平の疑問4つのうちの2番目の項目から。

 越後を去るときの道也の言葉「生きべき」は誤用ではないか。

「諸君、吾々は教師の為めに生きべきものではない。道の為めに生きべきものである。道は尊いものである。此理窟がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。・・・」(『野分』第1章)

 この道也先生が生徒へ話した惜別の言葉の中の「生きべき」は、正しくは「生くべき」または「生きるべき」ではないか。
 漱石の回答は「ごもっとも」の一言であるが、江戸なまり・東京山の手なまりということがある。漱石に直すつもりはない。なぜなら訛りは「誤り」ではないからである。文法上はともかく、漱石は登場人物に「正しい」発音をさせただけである。
 それに文法といえども所詮人間が作ったものである以上、科学的真実に較べると絶対ではない。長い年月の間には変化することもある。公理定理に照らしての誤りなら匡しもしようが、たかが文法ではないか。苦沙弥先生も「間違いだらけの英文をかいたり」(『猫』第1篇)という自覚を有するのである。漱石としては、それがどうした、といったところであろう。

 「去る」の記述に、文脈上意味の取りづらい箇所があるというのが、質問者の指摘であると思われるが、漱石はそれがどの部分のことを言っているのか分からないようである。

「・・・不平な妻を気の毒と思わぬ程の道也ではない。只妻の歓心を得る為に吾が行く道を曲げぬ丈が普通の夫と違うのである。世は単に人と呼ぶ。娶れば夫である。交われば友である。手を引けば兄、引かるれば弟である。社会に立てば先覚者にもなる。校舎に入れば教師に違いない。去るを単に人と呼ぶ。人と呼んで事足る程の世間なら単純である。妻君は常に此単純な世界に住んで居る。妻君の世界には夫としての道也の外には学者としての道也もない、志士としての道也もない。道を守り俗に抗する道也は猶更ない。夫が行く先き先きで評判が悪くなるのは、夫の才が足らぬからで、到る所に職を辞するのは、自から求むる酔興に外ならんと迄考えている。」(『野分』第1章)

 質問者はおそらくこのくだりのことを言っているのだろう。「去るを」はこの場合、漢字を宛てるなら、「然(さ)るを」の方が分かりやすかったかも知れない。道をめざす者、正しい道を行く白井道也は選ばれし人である。「それを単に人と呼ぶ」「それなのに単に人と呼ぶ」「然(しか)るに単に人と呼ぶ」というほどの意味である。その他『野分』の中に「去る」についてのややこしい用例はない。すべて leave ( go away ) の意味で使われており、疑義はない。
 小説の冒頭から白井道也が3つの中学を「去った」ことが繰り返し書かれ、「去る」「去った」の表記は第1章だけでも10ヶ所を超える。そこへ「去るを単に人と呼ぶ」であるから、読者によっては混乱する。「単に人と呼ぶ」「人と呼ぶ」という簡素な表現自体が、「去るを」という冠を付けることにより、かえって分かりにくくなったようだ。

 世間は個々人の真の個性は見ない。見る習慣がないと言うべきか。首から下げられた看板だけを見ていると言うべきか。その意味で細君が夫を真に理解することはないという主張も尤もであるが、妻にとっては夫は常に、学者でも天才でも英雄でもない、芸術家でも詐欺師でも泥棒でもない、ただの夫(男・man )である。ただの人。パーソナリティとは関係ない、妻を養ってくれる存在としてだけのただの人。そういう意味で漱石は「人」という言葉を使ったのであろうが、厄介なことに漱石は金(稼ぎ)を念頭にそれらを述べているので、この場合の「人」という語の裏側には、人格ではなくて金という価値が貼り付いているのである。
 後段(第11章)で語られる道也の演説『現代の青年に告ぐ』には、10頁足らずの間に「金( money )」という言葉が50回以上出て来る。『野分』のテーマの1つは、『坊っちゃん』や『草枕』同様、「意地」であるが、『野分』では「意地」という言葉の裏側に、(「怒り」という字だけでなく)「金」という字も書いてあったのである。

 「下女の足袋」というのは、第3章で道也先生が中野君の談話を取りに中野邸を訪れたときの下女の描写、「下女は何とも云わずに御辞儀をして立って行く。白足袋の裏丈が目立ってよごれて見える。」とあるのに対し、質問者が何らかの感想なり批評を述べたのであろう。漱石は肯じなかった。(あなたの)意見には服さないと、珍しくはっきり言い切っている。漱石は下女については一家言ある。あるいは含むところがある。下宿屋の下女とは違うと言いたかったのかも知れない。

(オマケ) 漱石は見知らぬ人への返信であっても、つい余計な一言を書く。本人の書いた「益」の字が(達筆過ぎて)漱石には読めなかったのかも知れない。現存している葉書の宛名を見ると(写真版だが)、漱石は慥かに「益」という字を書いているように見えるが、別の(不明な)字のように見えなくもない。いらぬことを言うのは漱石の生来の癖でもあり、漱石の律儀なところでもある。あるいは「マスヘイ」は所謂重箱読みであるから、漢詩漱石としてはつい「エキヘイ」「マスヒラ」という読み方が頭をよぎったのか。いったん気になると人はなかなかそこから脱け出せない。

 震災や空襲の中を無事に生き延びた(らしい)式場益平宛漱石の葉書は、今どこにあるのだろうか。(新潟の)会津八一記念館にあるのか。惜しいことに消印が(薄くて)読み取れないようである。葉書がいつ書かれたかについては、読者の気になるところである。「怒涛の明治39年」の幕を閉じた頃で、野上弥生子の習作『明暗』に長い感想文を書いたのもこの頃である。漱石としては大学を辞めて新聞へ行こうかという、区切りを迎える時期でもあった。葉書の内容(漱石の記憶が鮮明である)からは、雑誌が出てすぐ(1月中)であったと推測されるが、当時漱石はまだ出講していたのであるから、どのようなタイミングでこの親切でぶっきらぼうな返信がなされたのか、消印に時刻が押印されてあれば(当時は1時間2時間刻みの集配スタンプになっていたはずである)、帰宅して夜書いたのか、日曜の昼間に書いたのか、より細かいことまで分かったのにと悔やまれる。消えたように見える消印の全体を「科学」の力で何とか復元できないものだろうか。

 いずれにしても本項まで、重ねて引用した式場益平宛葉書は、大正昭和版全集の、そして平成版全集の『野分』の本文が覆る内容であるからには、漱石の書簡集の中で最も価値のある書簡の1つであると言わねばなるまい。
 にもかかわらず前述の通り漱石の存命中は、「越後の高岡」は生き続けた。このことが大した問題にもならなかったのは、『坑夫』と『野分』の合本では、『草合』の販売部数も知れたものだったからであろう。
 一方岩波の全集で『野分』を読む新しい漱石の読者にとって、小説のラストが「越後の高田」となっておれば、誰も疑うものはない。高田は石油の町ではありませんよと、わざわざ天国の漱石にご注進に及ぶファンもおるまい。唯一それを発信出来る者があるとすれば、それは「あれは長岡のつもりだった」と直接漱石から打ち明けられた、二松学舎後輩にして新潟県人の式場益平だけであろう。

 その式場益平がそもそも漱石にどのような質問を投げ掛けたかについては、本当に想像するしかないのだろうか。故人は日記をつけていたようだが、明治40年の頃のものは残っていないのだろうか。漱石の葉書を保存している以上、漱石に手紙を出して返事を貰ったことを隠すような人ではなかったと思われるが、生前そんな話を聞いた家族や友人教え子などはいなかったのだろうか。
 これについては会津八一がエッセイを残しているのだが、話が混み入るので後の項に譲りたい。