明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 3

338.『野分』式場益平からの手紙(2)――115年目の本文改訂『野分』篇


「先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。」(『野分』第12章/大正6年12月漱石全集刊行会版漱石全集第2巻――以降20世紀の漱石全集すべて)(再掲)

 いったいどこからこの「高田」という町は湧いて来たのだろう。高田は石油の町か。中学があって「高」という字が付けばどこでもよかったのか。一体いつ誰がこんな突飛な思いつきをしたのだろうか。まさか漱石自身が生前に指示していたわけではあるまい。
「越後の高田」はその後も永く『野分』の本文であり続けた。今でも多くの『野分』の版ではそうなっているはずである。

 原稿が「越後の高岡」であることは既に述べた。しかし原稿はおろか「ホトトギス」も『草合』も、大正期の全集本さえ知らない現代の読者にとって、「越後の高田」の突飛さに気付くのは容易でない。
 集英社版全集第4巻(昭和58年)の『野分』校異表、

 初出「越中の高岡」
 初版「越後の高岡」
 集英社版本文「越後の高田」

 が、おそらく一般の目に触れた最初であろうか。「越中の高岡」も「越後の高岡」もおかしいのであるから、荒正人(たち)も従来の漱石全集を踏襲ぜざるを得なかったのだろう。読者もそれに倣うしかない。
 原稿準拠の前出平成版漱石全集第3巻(平成6年2月)でも、なぜか『野分』のこの部分だけは、そのまま取り残されてしまった。何の注釈もなくただ従前通りの「越後の高田」である。巻末の校異表には載っているから、原稿が「越後の高岡」であることは、製作者側では変らず認識されているのである。前述のようにこのときの書簡集(平成8年9月刊漱石全集第23巻)には式場益平宛葉書が新規に追加されているが(書簡No.781として)、そんなことはどこ吹く風といった按配である。

書簡No.781 全文 明治40年1月[推定] はがき
 駒込神明町七十三 式場益平様/本郷西片町十 ロノ七 夏目金之助
 野分の御批評難有存候。越後の高岡とかき候を越中と致し候は誤に候。長岡をわざと高岡と致し候。対話の「生きべき」抔矢張不都合に候。去るとはどこか覚えず候。下女の足袋は御説には不服に候。まずは御礼迄早々。大兄の名前がよめません。(平成8年9月刊漱石全集第23巻「書簡中」)(再掲)

 平成8年(1996年)9月以降、書簡No.781の式場益平宛葉書に仰天した読者で、本文の「越後の高田」に悩まなかった者はおるまい。注解頁にはまだ何の注釈も書かれない。「長岡をわざと高岡」にした理由が何かあるのだろうとは察しられるが、明治39年旧友坂牧善辰が長岡中学校校長時代に転任の仲介を漱石に問い合わせて来たことなど、ほとんどの読者にとって関心や知識の外にある話である。


 ところが2017年の定本漱石全集になって、突如漱石の原稿は復活した。「越後の高田」という怪物の代わりに、「越後の高岡」という、かつて死に絶えたかに見えた妖怪が、百年の時を経てゾンビのように蘇ったのである。それも漱石の書いたままという錦の御旗の下に。

「先生私はあなたの、弟子です。――越後の高岡で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。」(『野分』第12章/定本漱石全集第3巻平成29年2月岩波書店版――初版本『草合』明治41年9月春陽堂版に同じ

《「高岡」「高田」2大怪物変遷史》
・「越後の高岡」(原稿)明治39(1906)年12月
・「越中の高岡」(ホトトギス)明治40(1907)年1月~
・「越後の高岡」(『草合』初版)明治41(1908)年9月~
・「越後の高田」(第1次漱石全集)大正6(1917)年12月~
・「越後の高田」(以後各次の漱石全集すべて)
・「越後の高田」(原稿準拠漱石全集)平成6(1994)年2月~
・「越後の高岡」(定本漱石全集)平成29(2017)年2月~(ただし注解付)
・「越後の長岡」(本ブログ改訂案)令和4(2022)年10月~

 漱石はラストシーンで高柳君の告白を書く際に、中学校の所在地をそのまま語るのが自然であると考えた。慥かに小説の大尾まで来て、告白相手に対して自分たちだけが共有する中学の名(町の名)をぼかす理由はない。告白相手たる恩師は、自分が恩師であることさえ気づいていないのである。高柳君は静かに亢奮している。道也先生に自分の立場を正確に伝えるのが最大の責務である。曖昧な表現は厳に慎まねばならぬ。しかるにやっかいなことに作者は長岡中学の名は出したくない――。
 岩波の定本漱石全集の方の注解は、漱石が長岡中学に奉職している友人(先に触れた坂牧善辰)の手前を慮ったのだろうと書くが、読者は漱石の意図は諒解しても、それで「越後の高岡」を承認するわけではない。

 ここでの最適改訂案は、ズバリ「長岡」を正直に書くことである。21世紀にもなって、もう誰かに気を置く必要はないのである。
 漱石が長岡の名を隠したがったという事実を、どうしても本文に残したいのであれば、不本意ではあるが伏せ字にするという手もある。しかしこれも今の時代にはそぐわないだろう(次善案)。
 どちらにしても真相はすでに明らかになっているのであるから、泉下の漱石を満足させるためにも、『野分』の本文は、まず言葉として「正しく」あるべきである。

「先生私はあなたの、弟子です。――越後の長岡で先生をいじめて追い出した弟子の一人です」(『野分』第12章本文改訂案)

「先生私はあなたの、弟子です。――越後の〇〇で先生をいじめて追い出した弟子の一人です」(次善案)

 まあ変人の白井道也を追い出したからといって、それほど長岡市の不名誉になることでもあるまい。坊っちゃん松山市は反対に大変な経済効果を生んだ。気の毒なのは根拠なく漱石サイドに庇い損ねられた高田市の方である。住民から抗議は来なかったのだろうか。その高田も、平成の大合併で市の名称としての高田は今はもうないが。

 今にして論者はさらに余計な想像をする。漱石山房でのある日。ホトトギスの「越中の高岡」のことはもう過ぎた話としても、単行本として(大した量でないにせよ)市中に出回っている「越後の高岡」については、流石に周囲も気になっている。校正を担当する弟子の誰かが言う。
「先生、高岡は越中だから、こうなってしまったんですよ」
「そうかも知れないね。でもタカオカでもカタオカでも何でもいいじゃないか」
「高岡の場合そうは行きません。越後なら高岡じゃなくて高田ではありませんか」
「ふむ、高田かい。しかし……」
「高田なら中学もありますしお城もあります。有名ですよ」
「そうか」
「ここは越後でなけりゃならんのです」
「だから越後ならどこでもいいのだろう」
「そうです。だから高岡では困るのです。高田にしますか」
「どっちでもいいよ」
「では高田に直しておきましょう」
「でも『草合』は今は刷らないんだろう?」
「分かりませんよ。本屋にはもうないそうですから」
「出しても売れないよ、あんなもの」
「廉価本という手があるのです」
「何でも考えるものだな。まあこっちは構わないから、やりたいようにやるがいい」

 漱石は長岡の名をよう出さなかった。長岡を石油の町として書いたことを忘れていたのかも知れない。もともと漱石は自分の旧作に興味はないのであるが、もしこのような会話すらなく、弟子たちが漱石の死後勝手に、あるいは編輯会議のようなところで官僚的妥協案としての「越後の高田」が採用されたのなら、その罪は万死に値しよう。
 またまた繰り返しになるが、(理論上)1億人くらいの日本人が『野分』の舞台が「高田中学」であると信じ込んだままあの世に行ってしまった。そして今いる1億人のうち、このことを知る人が何人いるだろうか。

 しかし百年を支配した「越後の高田」の罪以前に、先にも挙げた明治41年9月から大正6年12月までの9年間、ほぼ漱石山房とともに生き通した「越後の高岡」の方が、罪としては重いようである。罪という前に一層不思議である。高岡は越中であって越後ではない。漱石が国民的大作家になるのはいいが、正行居士の文豪と「越後の高岡」は似合わない。高岡市民からクレームは来なかったのだろうか。漱石の小説に「備後の岡山」とあれば、岡山市民(県民)なら即座に文句を言うところであるが。

 ところでこの不可思議な話の発起点は、やはり「ホトトギス」の「越中の高岡」であろう。話を蒸し返すようで申し訳ないが、当時待ち兼ねて雑誌を読んだ志賀直哉の眼にはどう映ったであろうか。新聞や雑誌に誤植は付き物であるから、別に気にしなかったとも思われるが、越中の高岡が新潟県でないことくらいは、さすがに志賀直哉は知っていたはずであるから、「越中の高岡」と書かれた頁を、どんな顔で見ていただろうか。