明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 15

350.『野分』何を怒っているのか(1)――朝日入社と正宗白鳥


 『野分』は漱石が12年にわたる教師時代の最後に書いた小説である。同時に白井道也が7年間勤めた中学教師を辞めて生活に困窮する話でもある。道也は教師を辞めて専業の著述家・文士になろうとしている。道也は表面的には漱石の行跡を先取りした形になった。両者のキャリアに何か接点はあるのだろうか。
 もちろんそれは偶然ではなく、『野分』が書かれたときには漱石は読売新聞入社の話が具体的に持ち上がっていた。読売は紅葉の『金色夜叉』を連載していたことからも、当時の漱石にとっては第1に検討すべき新聞社であったのだろう。漱石は『猫』で苦沙弥の家の居間にある新聞のことを「読売新聞」と書いている。(「朝日」と書くときは、それは煙草のことであった。)

漱石略歴
明治0年(慶応3年)1歳 東京生れ。
明治1年(慶応4年)2歳 明治維新
明治28年 29歳 松山中学(1年間)。
明治29年 30歳 五高(7年間)。結婚。
明治33年 34歳(内ロンドン留学2年間)
明治36年 37歳 帝大(4年間)。
明治38年 39歳 『猫』第1篇発表。
明治39年 40歳 『坊っちゃん』『草枕』執筆。読売入社話と『野分』執筆。
明治40年 41歳 12年間の教師生活終了。朝日入社。

白井道也略歴
明治6年 1歳 東京生れ。
明治31年 26歳 長岡中学(2年間)。
明治32年 27歳 結婚。
明治33年 28歳 柳川中学(3年間)。
明治36年 31歳 山口中学(2年間)。
明治38年 33歳 7年間の教師生活終了。
明治39年 34歳 『野分』の今現在。

 漱石と道也のキャリアが重なるのは、東京でずっと育ったあと、帝大を卒業していきなり地方の中学教師になったことと、教師になって1年後に結婚したことだろうか。その教師を辞めた、あるいは辞めつつあるということが、『野分』と漱石を結びつけるように傍からは見えるが、道也が教師の地位を放り出した年齢(33歳~34歳)からすると、漱石は渡英のときにもう五高に戻るつもりはなかったのだろう。その釈明が(する必要はないのだが)、道也の離職譚になったのではないか。細君や兄が驚くのも無理はない。
 漱石は苦沙弥・坊っちゃん・白井道也を中学教師として書いたが、朝日入社以後は(自分も教職から身を引いていたことも相俟って)大学教師として長野一郎と健三を、一高教師として広田先生を書いたにとどまった。それを例によって3部作ごとの塊りとして見ると次のようになる。

《主人物が教師である小説》
 前期3部作『三四郎』 広田先生。
 中期3部作『行人』 長野一郎。
 晩期3部作『道草』 健三。

 さて晴れて教師生活に別れを告げて、文筆1本で立とうとした漱石であるが、読売の話が結実しなかった理由については俄かに断言は出来ないものの、最初に直接話を持って行った正宗白鳥が、漱石の文学を認めていなかったことが最大の原因ではないか。人は誰も己れを知る者のためには死ねるのであるが、自分を評価しない人間と対座すれば、それは何か感ずるところはあるのである。
 この経緯は『野分』第3章の中にそれとなく書かれている(ように思われる)。
 白井道也は「江湖雑誌」の仕事で中野君の談話を取りに中野邸を訪問する。取次に出た下女に、「あの若旦那様で?」と聞かれるが、若旦那様も大旦那様も、道也は中野君自身のことを殆ど知らない。

「大学を御卒業になった方の……」と迄云ったが、ことによると、おやじも大学を卒業して居るかも知れんと心付いたから
「あの文学を御遣りになる」と訂正した。

 この書き方では現代の読者は、親爺も文学士だったらどうするのかと、つい思ってしまうが、明治39年で親爺の方も文学士だとすると、それはかなり数が限られる。文科大学設立当初の卒業生で、全部併せても10人とか20人である。当然道也も名前くらいは知っている。それに当時は文学士といっても、政治・経済を主にする者ばかりで、そうでなければ哲学である。そもそも開化の世に(西欧文化の礎となったギリシャ・ローマ哲学はともかく)大学校で文学や国史の専門家を養成するという発想はなかったのであろう。あるいはそちらの方面の泰斗は(羽織を着て)すでに鎮座していたのかも知れない。哲学の他に美学・漢学・史学・文学などと明確にコースが分かたれたのは漱石の時代からである。それで「文学をやる」と言えば息子の方を指すに決まっていると思ったのであろう。
 取材相手のことをよく調べないで訪問するのは乱暴な話であるが、相手が下女でもあり、ここまではまあ良しとしよう。運よく面会は叶う。

 所へ中野君が出てくる。紬の綿入に縮緬の兵子帯をぐるぐる巻きつけて、金縁の眼鏡越に、道也先生をまぼしそうに見て、「や、御待たせ申しまして」と椅子へ腰をおろす。
 道也先生は、あやしげな、銘仙の上を蔽うに黒木綿の紋付を以てして、加平治平の下へ両手を入れた儘、「どうも御邪魔をします」と挨拶をする。泰然たるものだ。
 中野君は挨拶が済んでからも、依然としてまぼしそうにして居たが、やがて思い切った調子で
「あなたが、白井道也と仰しゃるんで」と大なる好奇心を以て聞いた。聞かんでも名刺を見ればわかる筈だ。それを斯様に聞くのは世馴れぬ文学士だからである。
「はい」と道也先生は落ち付いて居る。中野君のあては外れた。中野君は名刺を見た時はっと思って、頭のなかは追い出された中学校の教師丈になっている。・・・

 士族然とした態度もかろうじて許される。中野君は年若い後輩である。平身低頭するばかりが礼ではない。人に頭を下げることを知らないのは漱石も同じであるが、相手が実業家であれば露骨に嫌われる。漱石もそれが分かっているので、最初から実業家には近寄らない。嫌われることが明白なので、あらかじめこちらからも嫌っておく。

実は今日御邪魔に上がったのは、少々御願があって参ったのですが」と今度は道也先生の方から打って出る。・・・
実は今度江湖雑誌で現代青年の煩悶に対する解決と云う題で諸先生方の御高説を発表する計画がありまして、夫で普通の大家許りでは面白くないと云うので、可成新しい方も夫々訪問する訳になりましたので――そこで実は一寸往って来てくれと頼まれて来たのですが、御差支がなければ、御話を筆記して参りたいと思います」

 この依頼の仕方はまず最悪の部類に属するだろう。普通の大家ばかりでは面白味に欠けるから貴方のような若造にも話を聞きたいと言っている。中野君でなければ怒り出すところかも知れない。そしてさらにひどいのが、自分は単に社から頼まれて来たのだという、「子供の使い」発言。漱石はわざと書いているのだろうか。
 そしてこの訪問挨拶の箇所だけで「実は」という言葉が3回続けて使われる。大西巨人(『神聖喜劇』)ではないが、「実」だけで生きている漱石のような人にとって、「実は」という感投詞だか副詞だか(『猫』による)は、本来必要のない言葉であろう。繰り返すが漱石は分かって書いているのではないか。

 道也先生は静かに懐から手帳と鉛筆を取り出した。取り出しはしたものの別に筆記したい様子もなければ強いて話させたい景色も見えない。彼はかかる愚な問題を、かかる青年の口から解決して貰いたいとは考えて居ない。
「成程」と青年は、耀やく眼を挙げて、道也先生を見たが、先生は宵越の麦酒の如く気の抜けた顔をしているので、今度は「左様」と長く引っ張って下を向いて仕舞った。
「どうでしょう、何か御説はありますまいか」と催促を義理ずくめにする。ありませんと云ったら、すぐ帰る気かも知れない
「そうですね。あったって、僕の様なものの云う事は雑誌へ載せる価値はありませんよ」
「いえ結構です」
「全体どこから、聞いて入らしったんです。あまり突然じゃ纏った話の出来る筈がないですから」
御名前は社主が折々雑誌の上で拝見するそうで
「いえ、どうしまして」と中野君は横を向いた。
何でもよいですから、少し御話し下さい
「そうですね」と青年は窓の外を見て躊躇している。
せっかく来たものですから
「じゃ何か話しましょう」
「はあ、どうぞ」と道也先生鉛筆を取り上げた。

 この引用部分前半もひどい。道也のやる気のなさが剝き出しで書かれている。後半もすべて他人事で不誠実・無責任・自分勝手。漱石は(『坊っちゃん』みたいに)滑稽物語を書こうとしているのだろうか。

「その位な所で」と道也先生は三度目に顔を挙げた。
「まだ少しあるんですが……」
「承るのはいいですが、大分(だいぶ)多人数の意見を載せる積りですから、反ってあとから削除すると失礼になりますから」
「そうですか、夫じゃその位にして置きましょう。何だかこんな話をするのは始めてですから、嘸筆記しにくかったでしょう」
「いいえ」と道也先生は手帳を懐へ入れた。
 青年は筆記者が自分の説を聴いて、感心の余り少しは賛辞でも呈するかと思ったが、相手は例の如く泰然として只いいえと云ったのみである。
「いや是は御邪魔をしました」と客は立ちかける。
「まあいいでしょう」と中野君はとめた。責めて自分の説を少々でも批評して行って貰いたいのである。夫でなくても、先達て日比谷で聞いた高柳君の事を一寸好奇心から、あたって見たいのである。一言にして云えば中野君はひまなのである。

 中野君の側にも事情があった。高柳君たちの起こした道也追放事件の当の本人か否か、そして何より中野君は閑暇があった。中野君が道也を許したのは温厚な性格ゆえだけではなかったのである。

「いえ、折角ですが少々急ぎますから」と客はもう椅子を離れて、一歩テーブルを退いた。いかにひまな中野君も「夫では」と遂に降参して御辞儀をする。玄関迄送って出た時思い切って
「あなたは、もしや高柳周作と云う男を御存じじゃないですか」と念晴らしの為め聞いて見る。
「高柳?どうも知らん様です」と沓脱から片足をタタキへ卸して、高い背を半分後ろへ捩じ向けた
「ことし大学を卒業した……」
「それじゃ知らん訳だ」と両足ともタタキの上へ運んだ。
 中野君はまだ何か云おうとした時、敷石をがらがらと車の軋る音がして梶棒は硝子の扉の前にとまった。道也先生が扉を開く途端に車上の人はひらり厚い雪駄を御影の上に落した。五色の雲がわが眼を掠めて過ぎた心持ちで往来へ出る。(以上『野分』第3章一部再掲)

 高柳君(中学時代)の話だけでなく、中野君のフィアンセも登場する展開になって、読者はこのとんでもない茶番を忘れる。
 これは正宗白鳥漱石を訪ねたときのいきさつを(デフォルメしているものの)感じとしてよく捉えているのではないか。道也はそういうところは確かにあるものの、決してこのような空気を読めない一辺倒の男ではない。それは後段の立会演説会の要所を衝いた駆け引きを見ても明らかである。

 退職と朝日入社。漱石はこの2つの私的なイベントに対する(自分自身への)申し開きの念も込めて、『野分』を書いたと言える。『野分』が『坊っちゃん』『草枕』に続く傑作とならなかった所以であろう。
 そして漱石はどさくさに紛れて白井道也を背の高い人と書く。道也は顔も長く、背丈も長いと何度も書かれる。『猫』では苦沙弥は迷亭「どうだい苦沙弥抔はちと釣って貰っちゃ、一寸位延びたら人間並になるかも知れないぜ」と言われる。(苦沙弥は半分その気になるが、背が延びるのではなく脊髄が壊れるのだと寒月に言われて断念する――『猫』第3篇首縊りの力学。)坊っちゃんも小柄と書かれるし、『草枕』の画工も身長については触れられないが、那美さんが脱衣所で「後ろへ廻ってふわりと背中へ着物をかけた」からには、大男ではあるまい。道也が始めて長い人と書かれた。爾後漱石作品で漱石らしいと目される(「等身大の」漱石と目される)登場人物は、おおむね背が高いとされるが、『野分』の道也はその草分けとなった。ちなみに正宗白鳥は身長の低いことでは漱石の上を行っている。漱石は疑われないように韜晦したか、あるいは思い切って皮肉を効かせたのかも知れない。もちろんその皮肉はほとんどブーメランのように、自分にも降りかかってくることは承知の上での話だろうが。