明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 6

341.『野分』のカレンダー(1)――やはり1年ズレているかも知れない


 『野分』は明治39年12月に書かれ、『ホトトギス』明治40年1月号に一括掲載された。物語は概ねその明治39年の終わりの頃の話である。これは白井道也が演説会で「明治の四十年」( four decades )を連呼していることから、ほぼ間違いのないところ。物語の季節は秋~冬になっている。これについては後述したいが、まず10月下旬~12月中旬の2ヶ月くらいの期間と見ていい。

 では主人公の年齢は如何ほどか。『野分』では登場人物の年齢は一切書かれない。その代わり「いつ」卒業したか、学校に関することについては丁寧に書かれるので、かえって年齢は数えやすいのかも知れない。

 ①八年前大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、②去年の春飄然と東京へ戻って来た。・・・
 始めて赴任したのは越後のどこかであった。越後は石油の名所である。学校の在る町を四五町隔てて大きな石油会社があった。学校のある町の繁栄は三分二以上此会社の御蔭で維持されて居る。町のものに取っては幾個の中学校よりも此石油会社の方が遥かに難有い。・・・
 次に渡ったのは九州である。九州を中断して其北部から工業を除けば九州は白紙となる。炭鉱の烟りを浴びて、黒い呼吸をせぬ者は人間の資格はない。・・・
 第三に出現したのは中国辺の田舎である。ここの気風は左程に猛烈な現金主義ではなかった。只土着のものが無暗に幅を利かして、他県のものを外国人と呼ぶ。・・・ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。此神様が道也の教室へ這入って来た時、道也は別に意にも留めず授業を継続していた。・・・(『野分』第1章)

 越後のどこかが長岡であることは前述した。次の九州(福岡県)は、当時筑豊に中学はなかったようであるから、三井炭鉱の柳川中学だろうか。第3の中国辺の田舎というのは山口中学のことであろう。「外国人」「旧藩主」「殿様」「華族様」「神様」と書かれるからには長州以外にない。漱石は松山に行く前に山口中学の話もあった。『坊っちゃん』で「四国辺」と直される前の原稿に「中国辺」と書かれていたのは、全集の読者なら周知の事実である。

 始めて越後を去る時には妻君に一部始終を話した。其時妻君は御尤もで御座んすと云って、甲斐甲斐しく荷物の手拵を始めた。九州を去る時にも其顛末を云って聞かせた。今度は又ですかと云ったぎり何にも口を開かなかった。中国を出る時の妻君の言葉は、あなたの様に頑固では何処へ入らしっても落ち付けっこありませんわと云う訓戒的の挨拶に変化して居た。④七年の間に三たび漂泊して、三たび漂泊するうちに妻君は次第と自分の傍を遠退く様になった。

 酔興を三たび重ねて、東京へ出て来た道也は、もう田舎へは行かぬと言い出した。教師ももうやらぬと妻君に打ち明けた。学校に愛想をつかした彼は、愛想をつかした社会状態を矯正するには筆の力によらねばならぬと悟ったのである。今迄はいずこの果で、どんな職業をしようとも、己れさえ真直であれば曲がったものは苧殻の様に向うで折れべきものと心得て居た。盛名はわが望む所ではない。威望もわが欲する所ではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、向上の眼を開かしむる為め、取捨分別の好例を自家身上に示せば足るとのみ思い込んで、⑤思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗したのである。渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟のよく分かる所に聚まると早合点して、此年月を今度こそ、今度こそと、経験の足らぬ吾身に、待ち受けたのは生涯の誤りである。世はわが思う程に高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。(以上同第1章)

 道也には妻がある。子供はいない。子供がいれば道也は苦沙弥になる。道也の細君は苦沙弥の細君になり、『道草』の御住にもなってしまう。まあそれは後の話として、これで道也と細君の来歴は分かる。

 いっぽう高柳君と中野君はもっとシンプルである。

 彼等は同じ高等学校の、同じ寄宿舎の、同じ窓に机を並べて生活して、同じ文科に同じ教授の講義を聴いて、同じ年の此夏に同じく学校を卒業したのである。同じ年に卒業したものは両手の指を二三度屈する程いる。然し此二人位親しいものはなかった。

「僕だって三年も大学に居て多少の哲学書や文学書を読んでるじゃないか。こう見えても世の中が、どれ程悲観すべきものであるか位は知ってる積りだ」
「書物の上でだろう」と高柳君は高い山から谷底を見下ろした様に云う。(以上同第2章)

 分かりやすい高柳君の年表から作ってみよう。(中野君は同い年、ただし東京の人間であろう。)

明治14年 新潟県生れ(1歳)
明治28年 長岡中学入学
明治29年 長岡中学2年次
明治30年 長岡中学3年次
明治31年 長岡中学4年次 (18歳)
明治32年 長岡中学5年次 (19歳)
明治33年 長岡中学卒業 一高入学 (20歳)
明治34年 一高2年次
明治35年 一高3年次
明治36年 帝大入学(23歳)
明治37年 帝大2年次
明治38年 帝大3年次
明治39年7月 帝大卒業(26歳)
明治39年10月~ 物語の今現在

 高柳君が越後の中学校で道也先生をいじめて追い出した年はいつか。
「追い出した」というからには高柳君たちはその後、最後の1年くらいは学校に残っていたと考えるのが自然かも知れない。ある程度の高学年でないと教師を追い出すような乱暴も出来ないとも言える。ABCのアンダラインで強調したのは、その可能性のある年次であるが、道也先生の退職月は概ね年度末であろうから、それはABC各年3月の頃になるだろう。

 の明治31年3月の可能性はもちろんある。自分たちがこれから中学4年になろうとするとき、道也先生は学校を辞めた。するといじめはおもに3年生の時に行なわれたことになり、数えで17歳~18歳ということは、満で16歳~17歳である。
 後に明らかにされる「いじめ」の実例の1つは、『猫』の落雲館中学や『坊っちゃん』の(松山)中学の吶喊事件を思わせるが、年齢的にはちょうどこれくらいの程度(生意気盛り・幼稚さ加減)が相当であると言えそうである。
 そうはいえ、上級生たちもしっかり揃っていたはずであるから、代表して責任を感じるまでには至らないのではないか。「追い出した」のは上級生であり、高柳君たちはただその尻馬に乗ったに過ぎないとも言える。
 の明治32年3月はどうか。一番可能性が高いようにも思える。やりたい放題の4年生のときに先生をいじめる。3月に先生は去る。4月以降自分たちは最高学年である。道也先生は寂しく当地を引き払ったようである。どこへ行ったか誰も知らないが、そんなことはもうどうでもいい。もっと大事なことが待ち構えている。受験勉強もしなくてはならぬ。自分たちの人生はこれからである。
 の明治33年3月。卒業年であれば受験や引越し等で慌ただしくもあり、その前に道也先生をいじめている暇があるかという疑問も湧く。自分が晴れて東京へ出立するのであるから、このとき同時に道也が退職したとしても、共に新天地へ出立するとまでにはならないにせよ、「自分たちが追い出した」という実感は湧きにくいのではないか。自分たちもまたある意味では追い出されるのである。
 しかしこの場合は、高柳君が退職後の道也の消息をまったく知らなかったということの説明としては、一番理にかなっているかも知れない。
 いずれにせよ前途ある自分たちに引き較べ、辞めてしまった道也の惨めな境遇を対照的に眺めたという設定そのものに変わりはない。しかし五高教授になった漱石の例もあり、田舎の中学を辞めたことが挫折に直結するというのは短絡に過ぎるという気もする。

 ここで上記①②③④⑤及びABCを踏まえて道也先生の年表を考える。

明治6年 東京生れ(1歳)
明治28年9月 帝大入学(23歳)
明治29年9月 帝大2年次
明治30年9月 帝大3年次
明治31年7月 帝大卒業 長岡中学赴任(26歳)(①8年前)
明治32年 この頃結婚(④7年前)
明治33年4月 越後⇒福岡 
明治34年
明治35年
明治36年 この頃福岡⇒山口
明治37年
明治38年4月 山口⇒東京へ舞戻る(②)
明治39年10月~ 物語の今現在(34歳)

 ④の結婚して7年間ということは、道也先生の結婚したのは常識的に見て、明治32年6月頃から12月くらいまでの間であろう。その細君は③に書かれているように、新潟から九州への移動を経験しているのであるから、最初の追放の時期は結婚の前ではありえない。結婚後の出来事であるからには、あれこれ考えるまでもなく、道也先生の越後追放は明治33年春()であった。
 この場合、前述した高柳君の卒業時期と重なるという問題点を回避すべく、道也の追放をぎりぎり明治32年12月~明治33年1月頃に前倒しする調整案も可能であるが、中途半端な時期に辞職すれば次の口に影響しよう。②の「去年の春」に教師のキャリアを閉じていることからも、道也先生の漂泊は年度ごとと考える方が理屈に合っている。漱石は好き勝手しているように見えて、案外規則正しいのである。
 それに結婚時期と追放があまり接近すると、今度はまた別の問題が生起する。妻帯が職業替えのきっかけになるというのは、世間一般ではままあることである。細君が道也の退職に責任がないという設定にするのであれば、細君は新潟での(新婚)生活もしっかり消化しなければ不自然である。
 最初の追放を明治33年春として、彼らの結婚はズバリ明治32年8月であろうか。勤め始めて1年を経過して、経済的にも落ち着いたので東京から妻を迎えた。結婚式は課業に差し支えのない暑中休暇中を充てた。

 ちなみに⑤の、人と衝突して6年間余りというのは、越後の中学赴任の年の翌年にあたる明治32年1月頃から東京へ引揚げた去年明治38年3月までの「6年余」を指す。道也先生といえど(坊っちゃんと違って)最初の年は大人しくしていたのである。というより結婚(新婚)生活が道也の性格を1ミリも変えなかったところが漱石らしい。結婚や子供が出来ることによって人間が丸くなるというようなことと無縁なのが、漱石漱石の登場人物であろう。人はこれを誠実・清廉潔白と謂い、こんな身勝手はないとも謂う。