明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 36

371.『野分』全50回目次(3)――下篇(第10章~第12章)


『野分』下篇 (全3章14回)


〇第10章 道也と細君生計のピンチ (全4回)

 道也 VS. 細君 細君 VS. 兄 (明治39年12月11日火曜)

1回 足立教授の序文が貰えない

(P404-2/道也先生長い顔を長くして煤竹で囲った丸火桶を擁している。外を木枯が吹いて行く。「あなた」と次の間から妻君が出てくる。紬の羽織の襟が折れていない。「何だ」とこっちを向く。机の前に居りながら、終日木枯に吹き曝されたかの如くに見える。「本は売れたのですか」「まだ売れないよ」「もう一ヵ月も立てば百や弐百の金は這入る都合だと仰しゃったじゃありませんか」「うん言った。言ったには相違ないが、売れない」「困るじゃ御座んせんか」「困るよ。御前よりおれの方が困る。困るから今考えてるんだ」「だって、あんなに骨を折って、三百枚も出来てるものを――」「三百枚どころか四百三十五頁ある」「それで、どうして売れないんでしょう」「矢っ張り不景気なんだろうよ」)
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(「だって食べられないんですもの」「たべられるよ」「随分ね、あなたも。現に教師をしていた方が楽で、今の方が余っ程苦しいじゃありませんか。あなたは矢っ張り教師の方が御上手なんですよ。書く方は性に合わないんですよ」「よくそんな事がわかるな」細君は俯向いて、袂から鼻紙を出してちいんと鼻をかんだ。「私ばかりじゃ、ありませんわ。御兄さんだって、そう御仰しゃるじゃありませんか」「御前は兄の云う事をそう信用しているのか」)

木枯らしが吹くようになった~435枚も書いた原稿が売れない~足立に序文を頼んだが断って来た~道也は筆で食うと言う~細君はこれでは生活できないと言う

2回 細君の悩み
(P408-4/「信用したっていいじゃありませんか、御兄さんですもの、そうして、あんなに立派にして入らっしゃるんですもの」「そうか」と云ったなり道也先生は火鉢の灰を丁寧に掻きならす。中から二寸釘が灰だらけになって出る。道也先生は、曲った真鍮の火箸で二寸釘をつまみながら、片手に障子をあけて、ほいと庭先へ抛り出した。庭には何にもない。芭蕉がずたずたに切れて、茶色ながら立往生をして居る。地面は皮が剥けて、蓆を捲きかけた様に反っくり返って居る。道也先生は庭の面を眺めながら「随分(※)吹いてるな」と独語の様に云った。「もう一遍足立さんに願って御覧になったら、どうでしょう」「厭なものに頼んだって仕方がないさ」)(※岩波本文は「存分」であるが、ここは論者の改訂案を採用した。)
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(世間の夫は皆道也の様なものかしらん。みんな道也の様だとすれば、この先結婚をする女は段々減るだろう。減らない所で見るとほかの旦那様は旦那様らしくして居るに違ない。広い世界に自分一人がこんな思をしているかと気がつくと生涯の不幸である。どうせ嫁に来たからには出る訳には行かぬ。然し連れ添う夫がこんなでは、臨終まで本当の妻と云う心持ちが起らぬ。これはどうかせねばならぬ。どうにかして夫を自分の考え通りの夫にしなくては生きている甲斐がない。――細君はこう思案しながら、火鉢をいじくって居る。風が枯芭蕉を吹き倒すほど鳴る。)

細君と兄は同意見~執筆なんかやめて定職に就け~足立にもう一度序文を頼んでみよう~細君の胸の裡~細君の父母はもういない~可愛がってくれる筈の人はこの世に1人もいない~世の夫は皆あんなものか~ならば結婚する女はいなくなるだろう~夫は変わるか夫を変えられるか

3回 道也の留守に兄が来る
(P411-10/表に案内がある。寒そうな顔を玄関の障子から出すと、道也の兄が立っている。細君は「おや」と云った。道也の兄は会社の役員である。其会社の社長は中野君のおやじである。長い二重廻しを玄関へ脱いで座敷へ這入ってくる。「大分吹きますね」と薄い更紗の上へ坐って抜け上がった額を逆に撫でる。「御寒いのによく」「ええ、今日は社の方が早く引けたものだから……」「今御帰り掛けですか」「いえ、一旦うちへ帰ってね。それから出直して来ました。どうも洋服だと坐ってるのが窮屈で……」兄は糸織の小袖に鉄御納戸の博多の羽織を着ている。「今日は――留守ですか」「はあ、只(たった)今しがた出ました。おっつけ帰りましょう。どうぞ御緩くり」と例の火鉢を出す。)
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(「仕舞にゃ人に迄迷惑をかける。――実はね、きょう社でもって赤面しちまったんですがね。課長が私を呼んで聞けば君の弟だそうだが、あの白井道也とか云う男は無暗に不穏な言論をして富豪抔を攻撃する。よくない事だ。ちっと君から注意したらよかろうって、散々叱られたんです」「まあどうも。どうしてそんな事が知れましたんでしょう」「そりゃ、会社なんてものは、夫々探偵が届きますからね」「へえ」「なに道也なんぞが、何をかいたって、あんな地位のないものに世間が取り合う気遣はないが、課長からそう云われて見ると、放って置けませんからね」「御尤もで」)

道也の兄は会社の社員~その会社の社長は中野君の親爺~細君の名は御政~弟が兄の家に寄り付かないのは変人だから~あれほど訳がわからないとまでは思わなかった~女の云う事を聞かないので困り切ります~近頃は少しどうかしているんじゃないかと思います~しきりに金持を攻撃する~そんな事をしてどこが面白い~一文にもならず人からは擯斥される~自分の損になるばかり

4回 道也を教師の道へ引き戻す策略
(P415-9/「それで実は今日は相談に来たんですがね」「生憎出まして」「なに当人は居ない方が反っていい。あなたと相談さえすればいい。――で、わたしも今途中で段々考えて来たんだが、どうしたものでしょう」「あなたから、篤と異見でもして頂いて、又教師にでも奉職したら、どんなもので御座いましょう」「そうなればいいですとも。あなたも仕合せだし、わたしも安心だ。――然し異見でおいそれと、云う通りになる男じゃありませんよ」「そうで御座んすね。あの様子じゃ、とても駄目で御座いましょうか」「わたしの鑑定じゃ、到底駄目だ。――夫でここに一つの策があるんだが、どうでしょう当人の方から雑誌や新聞をやめて、教師になりたいと云う気を起させる様にするのは」)
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(「どうしたら已めるで御座んしょう」「是もよせったって、頑固だから、よす気遣はない。やっぱり欺すより仕方がないでしょう」「どうして欺したらいいでしょう」「そうさ。あした時刻にわたしが急用で逢いたいからって使をよこして見ましょうか」「そうで御座んすね。それで、あなたの方へ参る様だと宜しゅう御座いますが……」「聞かないかも知れませんね。聞かなければ夫迄さ」初冬の日はもう暗くなりかけた。道也先生は風のなかを帰ってくる。)

当人の方から雑誌や新聞をやめて教師になりたいと云う気を起させる~百円の融通期限は12月15日~返済を厳しく迫って定職に就かざるを得ないよう仕向ける~頭を下げて来た時に取って抑える~おれの云う事を聞かなければあとは構わない~「何分宜しく願います」~神田に道也の演説広告が出ていてびっくり

〇第11章 道也の演説会 (全6回)

 道也 VS. 細君 高柳 VS.道也の演説 (明治39年12月中旬)

1回 演説会当日に兄から呼び出し

(P419-10/今日も亦風が吹く。汁気のあるものを悉く乾鮭にする積りで吹く。「御兄さんの所から御使です」と細君が封書を出す。道也は坐った儘、体をそらして受け取った。「待ってるかい」「ええ」道也は封を切って手紙を読み下す。やがて、終りから巻き返して、再び状袋のなかへ収めた。何にも云わない。「何か急用ででも御座んすか」道也は「うん」と云いながら、墨を磨って、何かさらさらと返事を認(したた)めている。「何の御用ですか」「ええ? 一寸待った。書いて仕舞うから」返事は僅か五六行である。宛名をかいて、「是を」と出す。細君は下女を呼んで渡してやる。自分は動かない。「何の御用なんですか」「何の用かわからない。只、用があるから、すぐ来てくれとかいてある」)
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(「だって、もしあなたが、其人の様になったとして御覧なさい。私は矢っ張り、其人の奥さん同様な、ひどい目に逢わなけりゃならないでしょう。人を御救いなさるのも結構ですが、些っとは私の事も考えて、やって下さらなくっちゃ、あんまりですわ」道也先生はしばらく沈吟していたが、やがて、机の前を立ちながら「そんな事はないよ。そんな馬鹿な事はないよ。徳川政府の時代じゃあるまいし」と云った。例の袴を突っかけると支度は一分たたぬうちに出来上った。玄関へ出る。外は未だに強く吹いている。道也先生の姿は風の中に消えた。)

兄の家から使いが来る~すぐ来いという~道也は演説会があるので行かれない~演説会は電車事件で捕まった仲間の家族を援けるため~細君は社会主義者と間違われたらどうすると心配~間違えても正しい道なら構わない

2回 道也の演説「現代の青年に告ぐ」始まる
(P423-10/清輝館の演説会は此風の中に開かれる。講演者は四名、聴衆は三百名足らずである。書生が多い。其中に文学士高柳周作がいる。彼は此風の中を襟巻に顔を包んで咳をしながらやって来た。十銭の入場料を払って、二階に上った時は、広い会場はまばらに席をあまして寧ろ寂寞の感があった。彼は南側の可成暖かそうな所に席をとった。演説は既に始まっている。「……文士保護は独立しがたき文士の言う事である。保護とは貴族的時代に云うべき言葉で、個人平等の世に之を云々するのは恥辱の極である。退いて保護を受くるより進んで自己に適当なる租税を天下から払わしむべきである」と云ったと思ったら、引き込んだ。聴衆は喝采する。)
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(「それはわからんでも差支ない。然し吾々は何の為めに存在して居るか? 是は知らなくてはならん。明治は四十年立った。四十年は短かくはない。明治の事業は是で一段落を告げた……」「ノー、ノー」と云うものがある。「どこかでノー、ノーと云う声がする。わたしは其人に賛成である。そう云う人があるだろうと思うて待って居たのである」聴衆はまた笑った。「いや本当に待っていたのである」聴衆は三たび鬨を揚げた。)

演説会の聴衆に高柳周作がいる~道也の演説が始まる~自己は過去と未来をつなぐものである~自己は何のためにあるのか~人間は過去のために生きるのか~それで明治の代は完成するか

3回 明治の40年は次の世代の為に在る
(P427-9/「私は四十年の歳月を短かくはないと申した。成程住んで見れば長い。然し明治以外の人から見たら矢張り長いだろうか。望遠鏡の眼鏡は一寸の直径である。然し愛宕山から見ると品川の沖が此一寸のなかに這入って仕舞う。明治の四十年を長いと云うものは明治のなかに齷齪しているものの云う事である。後世から見ればずっと縮まって仕舞う。ずっと遠くから見ると一弾指の間に過ぎん。……一弾指の間に何が出来る」と道也はテーブルの上をとんと敲いた。聴衆は一寸驚ろいた。「政治家は一大事業をした積りで居る。学者も一大事業をした積で居る。実業家も軍人もみんな一大事業をした積で居る。した積で居るがそれは自分の積りである。明治四十年の天地に首を突き込んで居るから、した積りになるのである。……一弾指の間に何が出来る」)
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(只前代を祖述するより外に身動きがとれぬ。身動きがとれなくなって、人間が腐った時、又波瀾が起る。起らねば化石するより外にしようがない。化石するのがいやだから、自から波瀾を起すのである。之を革命と云うのである。以上は明治の天下にあって諸君の地位を説明したのである。かかる愉快な地位に立つ諸君は此愉快に相当する理想を養わねばならん」道也先生は是に於て一転語を下した。聴衆は別にひやかす気もなくなったと見える。黙っている。)

明治の40年は弾指の間に過ぎない~弾指の間に何が出来る~明治の代に過去はない~明治は先例のない代である~我々は過去を顧みるのではなく、未来のために生きるべきである~紅葉一葉は我々の先例になるために生きたのではない、我々を生むために生きたのである

4回 どの道を歩むか何を成し遂げたか
(P431-6/「理想は魂である。魂は形がないからわからない。只人の魂の、行為に発現する所を見て髣髴するに過ぎん。惜しいかな現代の青年は之を髣髴することが出来ん。之を過去に求めてもない、之を現代に求めては猶更ない。諸君は家庭に在って父母を理想とする事が出来ますか」あるものは不平な顔をした。然しだまっている。「学校に在って教師を理想とする事が出来ますか」「ノー、ノー」「社会に在って紳士を理想とする事が出来ますか」「ノー、ノー」「事実上諸君は理想を以て居らん。家に在っては父母を軽蔑し、学校に在っては教師を軽蔑し、社会に出でては紳士を軽蔑している。是等を軽蔑し得るのは見識である。然し是等を軽蔑し得る為めには自己により大なる理想がなくてはならん。)
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(道也先生は、がたつく硝子窓を通して、往来の方を見た。折から一陣の風が、会釈なく往来の砂を捲き上げて、屋の棟に突き当って、虚空を高く逃れて行った。「諸君。諸君のどれ程に剛健なるかは、わたしには分らん。諸君自身にも知れぬ。只天下後世が証拠だてるのみである。理想の大道を行き尽して、途上に斃るる刹那に、わが過去を一瞥のうちに縮め得て始めて合点が行くのである。諸君は諸君の事業そのものに由って伝えられねばならぬ。単に諸君の名に由って伝えられんとするは軽薄である」)

魂の理想像を想像できるか~西洋にそれを求めることに意味があるか~理想あるものは歩くべき道を知っている~その道はどんなに困難でも必ず行かなくてはならない~理想の大道を行き尽したか否かは、ただ後世の天下のみが知るだろう

5回 学問と金儲けは正反対の道である
(P434-15/高柳君は何となく極りがわるかった。道也の輝やく眼が自分の方に注いで居る様に思れる。「理想は人によって違う。吾々は学問をする。学問をするものの理想は何であろう」聴衆は黙然として応ずるものがない。「学問をするものの理想は何であろうとも――金でない事丈は慥かである」五六ヶ所に笑声が起る。道也先生の裕福ならぬ事は其服装を見たものの心から取り除けられぬ事実である。道也先生は羽織のゆきを左右の手に引っ張りながら、先ず徐ろにわが右の袖を見た。次に眼を転じて又徐ろにわが左の袖を見た。黒木綿の織目のなかに砂が一杯たまっている。「随分きたない」と落ち付き払って云った。笑声が満場に起る。是はひやかしの笑声ではない。)
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(「社会上の地位は何できまると云えば――色々ある。第一カルチュアーで極る場合もある。第二門閥で極まる場合もある。第三には芸能で極る場合もある。最後に金できまる場合もある。而して是は尤も多い。かように色々の標準があるのを混同して、金で相場がきまった男を学問で相場がきまった男と相互に通用し得るように考えている。ほとんど盲目同然である」エヘン、エヘンと云う声が散らばって五六ヶ所に起る。高柳君は口を結んで、鼻から呼吸をはずませている。)

学問する者の理想とは何か~学問は金に遠ざかる器械である~学者と町人とはまるで別途の人間である~それは互いに矛盾相反する存在である~物の理が分かるということと金を稼げるということは相反する特質である~学問に費やす時間と金儲けに費やす時間は共有出来ない~つまり財産と地位を有する者は物事の道理が分からないことになる

6回 道徳・人生・社会の問題は学者に聞け
(P434-15/「金で相場の極まった男は金以外に融通は利かぬ筈である。金はある意味に於て貴重かも知れぬ。彼らは此貴重なものを擁して居るから世の尊敬を受ける。よろしい。そこ迄は誰も異存はない。然し金以外の領分に於て彼らは幅を利かし得る人間ではない、金以外の標準を以て社会上の地位を得る人の仲間入は出来ない。もしそれが出来ると云えば学者も金持ちの領分へ乗り込んで金銭本位の区域内で威張っても好い訳になる。彼等はそうはさせぬ。然し自分丈は自分の領分内に大人しくして居る事を忘れて他の領分迄のさばり出様とする。それが物のわからない、好い証拠である」高柳君は腰を半分浮かして拍手をした。)
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(災は必ず己れに帰る。彼等は是非共学者文学者の云う事に耳を傾けねばならぬ時期がくる。耳を傾けねば社会上の地位が保てぬ時期がくる」聴衆は一度にどっと鬨を揚げた。高柳君は肺病にも拘わらず尤も大なる鬨を揚げた。生れてから始めてこんな痛快な感じを得た。襟巻に半分顔を包んでから風のなかをここ迄来た甲斐はあると思う。道也先生は予言者の如く凜として壇上に立っている。吹きまくる木枯は屋を撼かして去る。)

報酬は労力に付随して得られる筈である~しかし現実には報酬は眼前の利害に直結して決定される~高等な労力に高等な報酬が伴なわない~金を多く得る者が高尚な努力をしたとは限らない~金の多寡で人物の価値は決まらない~金持ちは金儲けの専門家だが人事や物事の理屈は分からない~人生や社会の問題は学者に聴くしかない~金持ちはそれを理解できないところが金持ちたる所以である

〇第12章 道也の『人格論』を百円で買う

 高柳 VS. 中野 道也 VS. 債権者 高柳 VS. 道也 (明治39年12月16日日曜)

1回 中野君は高柳君に療養を勧める

(P442-12/「ちっとは、好い方かね」と枕元へ坐る。六畳の座敷は、畳がほけて、とんと打ったら夜でも埃りが見えそうだ。宮島産の丸盆に薬瓶と験温器が一所に乗っている。高柳君は演説を聞いて帰ってから、とうとう喀血してしまった。「今日は大分いい」と床の上に起き返って後から掻巻を背の半分迄かけている。中野君は大島紬の袂から魯西亜皮の巻莨入を出しかけたが、「うん、烟草を飲んじゃ、わるかったね」と又袂のなかへ落す。「なに構わない。どうせ烟草位で癒りゃしないんだから」と憮然として居る。「そうでないよ。初が肝心だ。今のうち養生しないといけない。昨日医者へ行って聞いて見たが、なに心配する程の事もない。来たかい医者は」「今朝来た。暖かにしていろと云った」)
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(「それじゃ心快く僕の云う事を聞いてくれてもよかろう。自分で不愉快の眼鏡を掛けて世の中を見て、見られる僕等迄を不愉快にする必要はないじゃないか」高柳君はしばらく返事をしない。成程自分は世の中を不愉快にする為めに生きてるのかも知れない。どこへ出ても好かれた事がない。どうせ死ぬのだから、なまじい人の情を恩に着るのは反って心苦しい。世の中を不愉快にする位な人間ならば、中野一人を愉快にしてやったって五十歩百歩だ。世の中を不愉快にする位な人間なら、又一日も早く死ぬ方がましである。)

中野君が高柳君の下宿を訪れる~医者は転地を勧める~中野君は援助を申し出るが高柳君は受けたくない~元気なときならともかく病気になって援助を受けるくらいならいっそ死んだ方がよい

2回 高柳君の傑作に百円の前渡し
(P446-1/「君の親切を無にしては気の毒だが僕は転地なんか、したくないんだから勘弁してくれ」「又そんなわからずやを云う。こう云う病気は初期が大切だよ。時期を失すると取り返しが付かないぜ」「もう、とうに取り返しが付かないんだ」と山の上から飛び下りた様な事を云う。「それが病気だよ。病気の所為でそう悲観するんだ」「悲観するって希望のないものは悲観するのは当り前だ。君は必要がないから悲観しないのだ」「困った男だなあ」としばらく匙を投げて、すいと起って障子をあける。例の梧桐が坊主の枝を真直に空に向って曝している。「淋しい庭だなあ。桐が裸で立っている」「この間迄葉が着いてたんだが、早いものだ。裸の桐に月がさすのを見た事があるかい。凄い景色だ」)
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(「死ぬまでかいちゃ大変だ。暖かい相州辺へ行って気を楽にして、時々一頁二頁ずつ書く――僕の条件に期限はないんだぜ、君」「うん、よし屹度書いて持って行く。君の金を使って茫然として居ちゃ済まない」「そんな済むの済まないのと考えてちゃいけない」「うん、よし分った。兎も角も転地しよう。明日から行こう」「大分早いな。早い方がいいだろう。いくら早くっても構わない。用意はちゃんと出来てるんだから」と懐中から七子の三折れの紙入を出して、中から一束の紙幣をつかみ出す。)

机の上の書きかけの小説~中野君の提案~述作の完成と引き換えに保養の費用を負担するという取引~中野君は高柳君に百円の札束を渡す

3回 百円を懐中して道也先生を訪なう
(P449-14/「ここに百円ある。あとは又送る。是丈あったら当分はいいだろう」「そんなに入るものか」「なに是丈持って行くがいい。実は是は妻の発議だよ。妻の好意だと思って持って行ってくれ玉え」「それじゃ、百円丈持って行くか」「持って行くがいいとも。折角包んで来たんだから「じゃ、置いて行って呉れ玉え」「そこでと、じゃ明日立つね。場所か? 場所はどこでもいいさ。君の気の向いた所がよかろう。向へ着いてから一寸手紙を出してくれればいいよ。――護送する程の大病人でもないから僕は停車場へも行かないよ。――外に用はなかったかな。――なに少し急ぐんだ。実は今日は妻を連れて親類へ行く約束があるんで、待ってるから、僕は失敬しなくっちゃならない」「そうか、もう帰るか。それじゃ奥さんによろしく」)
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(高柳君は玄関から客間へ通る。推察の通り先客がいた。市楽の羽織に、くすんだ縞ものを着て、帯の紋博多丈がいちじるしく眼立つ。額の狭い頬骨の高い、鈍栗眼である。高柳君は先生に挨拶を済ました、あとで鈍栗に黙礼をした。「どうしました。大分遅く来ましたね。何か用でも……」「いいえ、一寸――実は御暇乞に上がりました」「御暇乞? 田舎の中学へでも赴任するんですか」 間の襖をあけて、細君が茶を持って出る。高柳君と御辞儀の交換をして居間へ退く。)

中野君の提案は妻の発議~それじゃ奥さんによろしく~この己を出さないでぶらぶらと死んでしまうのは勿体ない~これ一つ纏めれば死んでも言訳は立つ~今の百円は他日の万金よりも貴い~転地の前に道也に暇乞いに出掛ける

4回 道也先生の原稿を百円で買う
(P453-5/「いえ、少し転地しようかと思いまして」「それじゃ身体でも悪いんですね」「大した事もなかろうと思いますが、段々勧める人もありますから」「うん。わるけりゃ、行くがいいですとも。何時? あした? そうですか。夫じゃまあ緩くり話したまえ。――今一寸用談を済まして仕舞うから」と道也先生は又鈍栗の方へ向いた。「それで、どうも御気の毒だが――今申す通りの事情だから、少し待ってくれませんか」「それは待って上げたいのです。然し私の方の都合もありまして」「だから利子を上げればいいでしょう。利子丈取って元金は春迄猶予して呉れませんか」「利子は今迄でも滞りなく頂戴して居りますから、利子さえ取れれば好い金なら、いつ迄でも御用立てて置きたいのですが……」)
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(「君、そんな金を僕が君から……」と道也先生は押し返そうとする。「いいえ、いいんです。好いから取って下さい。――いや間違ったんです。是非此原稿を譲って下さい。――先生私はあなたの、弟子です。――越後の長岡(※)で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。――だから譲って下さい」愕然たる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛れ去った。彼は自己を代表すべき作物を転地先よりもたらし帰る代りに、より偉大なる人格論を懐にして、之をわが友中野君に致し、中野君とその細君の好意に酬いんとするのである。)(※岩波本文は「高岡」であるが、ここも論者の改訂案を採用した。小説の冒頭で「越後のどこか」と巨視的・大局的に書かれた土地が、ラストで見事なあるいは渋いオチが付けられたわけである。その折角のオチが地理的・行政的に間違っていたのでは洒落になるまい。)

昨日が期限の百円をどうあっても今夜中に~著述が本屋に売れるまで待っては呉れますまいか~高柳君は道也の原稿『人格論』をちょっと見せてくれと言う~告白と結末

『野分』畢