明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 35

370.『野分』全50回目次(2)――中篇(第6章~第9章)


『野分』中篇 (全4章16回)


〇第6章 高柳君道也に弟子入りする (全4回)

 高柳 VS. 道也 (明治39年11月 ある日)

1回 高柳君道也に面会す
(P340-4/「私は高柳周作と申すもので……」と丁寧に頭を下げた。高柳君が丁寧に頭を下げた事は今迄何度もある。然し此時の様に快よく頭を下げた事はない。教授の家を訪問しても、翻訳を頼まれる人に面会しても、其他の先輩に対しても皆丁寧に頭をさげる。先達って中野のおやじに紹介された時抔は愈以て丁寧に頭をさげた。然し頭を下げるうちにいつでも圧迫を感じて居る。位地、年輩、服装、住居が睥睨して、頭を下げぬか、下げぬかと催促されて已を得ず頓首するのである。道也先生に対しては全く趣が違う。先生の服装は中野君の説明した如く、自分と伯仲の間にある。先生の書斎は座敷をかねる点に於て自分の室と同様である。)
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(「暇はないですね。わたし抔も暇がなくって困っています。然し暇は却ってない方がいいかも知れない。何ですね。暇のあるものは大分(だいぶ)居る様だが、余り誰も何もやっていない様じゃありませんか」「夫は人に依りはしませんか」と高柳君はおれが暇さえあればと云う所を暗にほのめかした。「人にも依るでしょう。然し今の金持ちと云うものは……」と道也は句を半分で切って、机の上を見た。机の上には二寸程の厚さの原稿がのっている。障子には洗濯した足袋の影がさす。)

だんだん寒くなった~真正の御辞儀~私の家へ話を聞きに来るような者はいない~何かやりたいが暇がなくて困る~金がなくても暇がなくても困ったなりにやればいい~何もしなくていい

2回 苦労が文学者を創る
(P343-9/「金持ちは駄目です。金がなくって困ってるものが……」「金がなくって困ってるものは、困りなりにやればいいのです」と道也先生困ってる癖に太平な事を云う。高柳君は少々不満である。「然し衣食の為めに勢力をとられて仕舞って……」「夫でいいのですよ。勢力をとられて仕舞ったら、外に何にもしないで構わないのです」青年は唖然として、道也を見た。道也は孔子様のように真面目である。馬鹿にされてるんじゃ堪らないと高柳君は思う。高柳君は大抵の事を馬鹿にされた様に聞き取る男である。「先生ならいいかも知れません」とつるつると口を滑らして、はっと言い過ぎたと下を向いた。道也は何とも思わない。「わたしは無論いい。あなただって好いですよ」)
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(「ふうん」と云って高柳君は首を低れた。文学は自己の本領である。自己の本領について、他人が答弁さえ出来ぬ程の説を吐くならば其本領はあまり鞏固なものではない。道也先生さえ、こんな見すぼらしい家に住んで、こんな、きたならしい着物をきて居るならば、おれは当然二十円五十銭の月給で沢山だと思った。何だか急に広い世界へ引き出された様な感じがする。)

金がなくても時間がなくても文学ならそれでいい~文学は他の学問とは違う~文学は人生そのものである~人生の障害物(貧困・多忙・圧迫・不幸・悲酸・不和・喧嘩)に進んで飛び込んでこその学問である

3回 独りぼっちになれないようでは文学者にはなれない
(P346-8/「先生は大分御忙しい様ですが……」「ええ。進んで忙しい中へ飛び込んで、人から見ると酔興な苦労をします。ハハハハ」と笑う。是なら苦労が苦労にたたない。「失礼ながら今はどんな事をやって御出で……」「今ですか、ええ色々な事をやりますよ。飯を食う方と本領の方と両方遣ろうとするから中々骨が折れます。近頃は頼まれてよく方々へ談話の筆記に行きますがね」「随分御面倒でしょう」「面倒と云や(※)、面倒ですがね、そう面倒と云うよりむしろ馬鹿気ています。まあいい加減に書いては来ますが」「なかなか面白い事を云うのがおりましょう」と暗に中野春台の事を釣り出そうとする。)(※岩波本文は「面倒と云や」であるが、これは漱石の筆の勢いであろう。)
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(苦しんだのは耶蘇や孔子許りで、吾々文学者は其苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて、自分丈は呑気に暮して行けばいいのだ抔と考えてるのは偽文学者ですよ。そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです」高柳君は今こそ苦しいが、もう少し立てば喬木にうつる時節があるだろうと、苦しいうちに絹糸程な細い望みを繋いでいた。其絹糸が半分許り切れて、暗い谷から上へ出るたよりは、生きているうちは容易に来そうに思われなくなった。)

食う方と本領を同時にやろうとすると中々骨が折れる~談話筆記の中には下らないものが多い~中野は私の同級生です~「昔から何かしようと思えば大概は独りぼっちになるものです」~人に排斥されるのを苦にするようでは文学者にはなれない~苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先で褒めるているだけでは偽文学者~そんな者に耶蘇や孔子を褒める権利はない

4回 高柳君は道也の天下唯一の知己かも知れない
(P349-14/「高柳さん」「はい」「世の中は苦しいものですよ」「苦しいです」「知ってますか」と道也先生は淋し気に笑った。「知ってる積ですけれど、いつ迄もこう苦しくっちゃ……」「遣り切れませんか。あなたは御両親が御在りか」「母丈田舎にいます」「おっかさん丈?」「ええ」「御母さん丈でもあれば結構だ」「中々結構でないです。――早くどうかしてやらないと、もう年を取って居ますから。私が卒業したら、どうか出来るだろうと思ってたのですが……」「左様、近頃の様に卒業生が殖えちゃ、一寸、口を得るのが困難ですね。――どうです、田舎の学校へ行く気はないですか」「時々は田舎へ行こうとも思うんですが……」「又いやになるかね。――そうさ、あまり勧められもしない。私も田舎の学校は大分経験があるが」)
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(「大変沢山柿が生って居ますね」「渋柿ですよ。あの和尚は何が惜しくて、ああ渋柿の番ばかりするのかな。――君妙な咳を時々するが、身体は丈夫ですか。大分瘠せてる様じゃありませんか。そう瘠せてちゃいかん。身体が資本だから」「然し先生だって随分瘠せていらっしゃるじゃありませんか」「わたし? わたしは瘠せている。瘠せては居るが大丈夫」)

「世の中は苦しいものですよ。知ってますか」~私も田舎の学校はだいぶ経験がある~「憂世子というのは私です。読みましたか」~「それじゃ君は僕の知己ですね。恐らく天下唯一の知己かも知れない」~商人は人を騙すために生きている~私は瘦せてはいるが大丈夫

〇第7章 中野君の愛のヴィーナス (全4回)

 中野 VS. 婚約者 (明治39年11月 ある日)

1回 ヴィーナスに嫉妬する

(P355-4/白き蝶の、白き花に、小き蝶の、小き花に、みだるるよ、みだるるよ。長き憂は、長き髪に、暗き憂は、暗き髪に、みだるるよ、みだるるよ。いたずらに、吹くは野分の、いたずらに、住むか浮世に、白き蝶も、黒き髪も、みだるるよ、みだるるよ。と女はうたい了る。銀椀に珠を盛りて、白魚の指に揺かしたらば、こんな声が出様と、男は聴きとれて居た。「うまく、唱えました。もう少し稽古して音量が充分に出ると大きな場所で聴いても、立派に聴けるに違いない。今度演奏会でためしに遣って見ませんか」「厭だわ、ためしだなんて」「それじゃ本式に」「本式にゃ猶出来ませんわ」)
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(「好きって、いいじゃありませんか、古今の傑作ですよ」女の批判は直覚的である。男の好尚は半ば伝説的である。なまじいに美学抔を聴いた因果で、男はすぐ女に同意する丈の勇気を失っている。学問は己れを欺くとは心付かぬと見える。自から学問に欺かれながら、欺かれぬ女の判断を、いたずらに誤まれりとのみ見る。)

中野君の婚約者新体詩を唄う~大勢の人の前では恥ずかしくて声が出せない~中野邸の庭にはヴィーナス像が~愛の神ヴィーナスは冷たい感じがする~ヴィーナスを愛するものは、自分を愛してはくれまい~女の批判は直覚的だが男の好尚は半ば伝説的である~男は美学に欺かれながら欺かれぬ女の判断を理解しない

2回 ヴィーナスの指輪
(P359-10/「古今の傑作ですよ」と再び繰り返したのは、半ば女の趣味を教育する為めであった。「そう」と女は云った許りである。石火を交えざる刹那に、はっと受けた印象は、学者の一言の為めに打ち消されるものではない。「元来ヴィーナスは、どう云うものか僕にはいやな聯想がある」「どんな聯想なの」と女は大人しく聞きつつ、双の手を立ちながら膝の上に重ねる。手頸からさきが二寸ほど白く見えて、あとは、しなやかなる衣のうちに隠れる。衣は薄紅に銀の雨を濃く淡く、所まだらに降らした様な縞柄である。上になった手の甲の、五つに岐れた先の、次第に細まりて且つ丸く、つやある爪に蔽われたのが好い感じである。)
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(「あら、あなた、御怒りなすったの、だから掘り出さした方だって、あやまって居るじゃありませんか」「ハハハハあやまらなくってもいいです。夫でテニスをして居るとね、指輪が邪魔になって、ラケットが思う様に使えないんです、そこで、それをはずしてね、どこかへ置こうと思ったが小さいものだから置きなくすといけない。――大事な指輪ですよ。結納の指輪なんです」)

中野君はヴィーナス像の美を婚約者に説く~「あらいやだ。あなたは失敬ね」「だって待っててもあとをおっしゃらないですもの」~婚約者は父親から指輪を買って貰った~指輪は魔物である

3回 メリメ『ヴィーナスの殺人』
(P363-14/「誰と結婚をなさるの?」「誰とって、そいつは少し――矢っ張り去る令嬢とです」「あら、御話しになってもいじゃありませんか」「隠す訳じゃないが……」「じゃ話して頂戴。ね、いいでしょう。相手はどなたなの?」「そいつは弱りましたね。実は忘れちまった」「それじゃ、ずるいわ」「だって、メリメの本を貸しちまって一寸調べられないですもの」「どうせ、御借しになったんでしょうよ。よう御座います」「困ったな。折角の所で名前を忘れたもんだから進行する事が出来なくなった。――じゃ今日は御やめにして今度其令嬢の名を調べてから御話をしましょう」「いやだわ。折角の所でよしたり、なんかして」「だって名前を知らないんですもの」)
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(愛に成功するものは必ず自己を善人と思う。愛に失敗するものも亦必ず自己を善人と思う。成敗に論なく、愛は一直線である。只愛の尺度を以て万事を律する。成功せる愛は同情を乗せて走る馬車馬である。失敗せる愛は怨恨を乗せて走る馬車馬である。愛は尤も我儘なるものである。)

中野君婚約者にメリメをレクチャする~テニスをするのに邪魔になるのでヴィーナス像の指に指輪を掛けておいた~それを忘れたまま青年が田舎に令嬢を迎えに行く~結婚指輪は当座のものを買って間に合わせた~しかし婚礼の晩に庭のヴィーナスが寝室に上がってきて・・・

4回 中野君の語る高柳君の悲観病
(P368-9/尤も我儘なる善人が二人、美くしく飾りたる室に、深刻なる遊戯を演じている。室外の天下は蕭寥たる秋である。天下の秋は幾多の道也先生を苦しめつつある。幾多の高柳君を淋しがらせつつある。而して二人は飽迄も善人である。「此間の音楽会には高柳さんと御一所でしたね」「ええ、別に約束した訳でもないんですが、途中で逢ったものですから誘ったのです。何だか動物園の前で悲しそうに立って、桜の落葉を眺めているんです。気の毒になってね」「よく誘って御上げになったのね。御病気じゃなくって」「少し咳をしていた様です。たいした事じゃないでしょう」「顔の色が大変御わるかったわ」)
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(「あなたは人物の専門家なの」「僕? 僕は――そうさ、――あなた丈の専門家になろうと思うのです」「厭なかたね」金剛石がきらりとひらめいて、薄紅の袖のゆるる中から細い腕が男の膝の方に落ちて来た。軽くあたったのは指先ばかりである。善人の会話は写真撮影に終る。)

神経質で自分で病気を拵える~慰めると却って皮肉を言う~失恋なの?~細君を貰ったら癒るかも知れないが元来が性分~遺伝か子供の頃何かあったのか~だって御自分で御金がとれそうなものじゃありませんか文学士だから~新潟県での白井道也とのいきさつ~中野君の趣味は写真撮影

〇第8章 道也の人格論 (全4回)

 高柳 VS. 道也 (明治39年11月 ある日)

1回 高柳君の孤独
(P373-8/秋は次第に行く。虫の音は漸く細る。筆硯に命を籠むる道也先生は、只人生の一大事因縁に着して、他を顧みるの暇なきが故に、暮るる秋の寒きを知らず、虫の音の細るを知らず、世の人のわれにつれなきを知らず、爪の先に垢のたまるを知らず、蛸寺の柿の落ちた事は無論知らぬ。動くべき社会をわが力にて動かすが道也先生の天職である。高く、偉いなる、公けなる、あるものの方に一歩なりとも動かすが道也先生の使命である。道也先生は其他を知らぬ。高柳君はそうは行かぬ。道也先生の何事をも知らざるに反して、彼は何事をも知る。往来の人の眼付も知る。肌寒く吹く風の鋭どきも知る。かすれて渡る雁の数も知る。美くしき女も知る。黄金の貴きも知る。)
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(僅かに残る葉を虫が食う。渋色の濃いなかにぽつりと穴があく。隣りにもあく、其隣りにもぽつりぽつりとあく。一面が穴だらけになる。心細いと枯れた葉が云う。心細かろうと見て居る人が云う。所へ風が吹いて来る。葉はみんな飛んで仕舞う。高柳君が不図眼を挙げた時、梧桐は凡て此等の径路を通り越して、から坊主になっていた。窓に近く斜めに張った枝の先に只一枚の虫食葉がかぶりついている。「一人坊っちだ」と高柳君は口のなかで云った。)

道也の天地は人の為~高柳君の天地は己れのため~道也は人の世話・指導をする為に生れた~高柳君は人に世話され頼る為に生れた~道也は独りぼっちが苦にならぬ~高柳君は独りぼっちが苦しい~庭の梧桐も色が変わって虫喰いの1葉を除いてすべて枯れてしまった

2回 秋雨の中を外に出る
(P376-12/高柳君は先月あたりから、妙な咳をする。始めは気にもしなかった。段々腹に答えのない咳が出る。咳丈ではない。熱も出る。出るかと思うと已む。已んだから仕事をしようかと思うと又出る。高柳君は首を傾けた。医者に行って見てもらおうかと思ったが、見てもらうと決心すれば、自分で自分を病気だと認定した事になる。自分で自分の病気を認定するのは、自分で自分の罪悪を認定する様なものである。自分の罪悪は判決を受ける迄は腹のなかで弁護するのが人情である。高柳君は自分の身体を医師の宣告にかからぬ先に弁護した。神経であると弁護した。神経と事実とは兄弟であると云う事を高柳君は知らない。)
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(電車の走るのは電車が走るのだが、何故走るのだかは電車にもわかるまい。高柳君は自分があるく丈は承知している。然し何故あるくのだかは電車の如く無意識である。用もなく、あてもなく、又あるきたくもないものを無理にあるかせるのは残酷である。残酷があるかせるのだから敵は取れない。敵が取りたければ、残酷を製造した発頭人に向うより外に仕方がない。残酷を製造した発頭人は世間である。高柳君はひとり敵の中をあるいている。いくら、あるいても矢っ張り一人坊っちである。)

高柳君は肺結核か神経か~日の明るい朝を迎えるのが苦痛~1人ぼっちで翻訳の仕事~故里の母へ手紙を書きかける~梧桐の最後の1葉が落ちる~いたたまれず外に出る~下宿の婆さんに部屋の傘を取って来てもらう

3回 高柳君道也先生と遇う (高柳君の過去Ⅱ)
(P380-8/ぽつりぽつりと折々降ってくる。初時雨と云うのだろう。豆腐屋の軒下に豆を絞った殻が、山の様に桶にもってある。山の頂がぽくりと欠けて四面から烟が出る。風に連れて烟は往来へ靡く。塩物屋に鮭の切身が、渋びた赤い色を見せて、並んで居る。隣りに、しらす干がかたまって白く反り返る。鰹節屋の小僧が一生懸命に土佐節をささらで磨いている。ぴかりぴかりと光る。奥に婚礼用の松が真青に景気を添える。葉茶屋では丁稚が抹茶をゆっくりゆっくり臼で挽いている。番頭は往来を睨めながら茶を飲んでいる。――「えっ、あぶねえ」と高柳君は突き飛ばされた。黒紋付の羽織に山高帽を被った立派な紳士が綱曳で飛んで行く。車へ乗るものは勢がいい。あるくものは突き飛ばされても仕方がない。)
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(「あとで聞くと官金を消費したんだそうで――其時はなんにも知りませんでした。母にきくと、おとっさんは今に帰る、今に帰ると云ってました。――然しとうとう帰って来ません。帰らない筈です。肺病になって、牢屋のなかで死んで仕舞ったんです。それもずっとあとで聞きました。母は家を畳んで村へ引き込みました。……」向から威勢のいい車が二梃束髪の女を乗せてくる。二人は一寸よける。話はとぎれる。)

初時雨の往来を歩く~行き先は湯島天神か~岩崎の塀へ頭をぶつけて壊したい~上野の図書館帰りの道也に遇う~「じゃ坂を上って本郷の方へ行きましょう。僕はあっちへ帰るんだから」~「創作をなさればそれで君の寿命は岩崎などよりも長く伝わるのです」~「先生私の歴史を聞いて下さいますか」

4回 孤独は崇高である
(P385-15/「先生」「何ですか」「だから私には肺病の遺伝があるんです。駄目です」「医者に見せたですか」「医者には――見せません。見せたって見せなくったって同じ事です」「そりゃ、いけない。肺病だって癒らんとは限らない」高柳君は気味の悪い笑いを洩らした。時雨がはらはらと降って来る。からたち寺の門の扉に碧巌録提唱と貼りつけた紙が際立って白く見える。女学校から生徒がぞろぞろ出てくる。赤や、紫や、海老茶の色が往来へちらばる。「先生、罪悪も遺伝するものでしょうか」と女学生の間を縫いながら歩を移しつつ高柳君が聞く。「そんな事があるものですか」「遺伝はしないでも、私は罪人の子です。切ないです」「それは切ないに違いない。然し忘れなくっちゃいけない」)
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(剥げかかった山高帽を阿弥陀に被って毛繻子張りの蝙蝠傘をさした、一人坊っちの腰弁当の細長い顔から後光がさした。高柳君ははっと思う。往来のものは右へ左へ行く。往来の店は客を迎え客を送る。電車は出来る丈人を載せて東西に走る。織るが如き街(ちまた)の中に喪家の犬の如く歩む二人は、免職になりたての属官と、堕落した青書生と見えるだろう。見えても仕方がない。道也はそれで沢山だと思う。周作はそれではならぬと思う。二人は四丁目の角でわかれた。)

先生罪悪も遺伝するものでしょうか~「あなたの生涯は過去にあるんですか未来にあるんですか。君はこれから花が咲く身ですよ」~独りぼっちは崇高なものです~「人が認めてくれるような平面ならば人も上ってくる平面です。芸者や車引に理会されるような人格なら低いにきまってます」~後世に名を残そうと力むなら、周囲と隔絶されてあるべき、その周囲から理解を得ようとしてはいけない~道也は違う、只自分の満足を得るために世のために働く

〇第9章 中野君の結婚披露 (全4回)

 高柳 VS. 中野夫妻 (明治39年12月 ある日)

1回 結婚披露の園遊会
(P390-2/小春の日に温(ぬく)め返された別荘の小天地を開いて結婚の披露をする。愛は偏狭を嫌う、又専有をにくむ。愛したる二人の間に有り余る情を挙げて、博く衆生を潤おす。有りあまる財を抛って多くの賓格を会す。来らざるものは和楽の扇に麾(さしまね)く風を厭うて、寒き雪空に赴く鳧雁(ふがん)の類である。円満なる愛は触るる所の凡てを円満にす。二人の愛は曇り勝ちなる時雨の空さえも円満にした。――太陽の真上に照る日である。照る事は誰でも知るが、だれも手を翳して仰ぎ見る事のならぬくらい明かに照る日である。得意なるものに明かなる日の嫌なものはない。客は車を駆って東西南北より来る。)
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(此夫婦の境界にある人は、いくら極りを悪るがる性分でも、極りをわるがらずに生涯を済ませる事が出来る。「入らっしゃるなら、ここに居て上げる方がいいでしょう」「来る事は受け合うよ。――いいさ、奥はおやじや何か大分居るから」愛は善人である。善人は其友の為めに自家の不都合を犠牲にするを憚からぬ。夫婦は高柳君のためにアーチの下に待っている。高柳君は来ねばならぬ。)

杉の葉のアーチと蜜柑の木のアーケード~高柳君を待つ新夫妻~厭でも来ると約束すると来ずにいられない男だからきっとくる~きまりのわるいのは自信がないから~自信がないのは人が馬鹿にすると思うから~「入らっしゃるなら、ここにいて上げる方がいいでしょう」

2回 夫婦を驚かせた高柳君の服装
(P393-21/馬車の客、車の客の間に、只一人高柳君は蹌踉として敵地に乗り込んで来る。此海の如く和気の漲りたる園遊会――新夫婦の面に湛えたる笑の波に酔うて、われ知らず幸福の同化を享くる園遊会――行く年をしばらくは春に戻して、のどかなる日影に、窮陰の面(ま)のあたりなるを忘るべき園遊会は高柳君にとって敵地である。富と勢と得意と満足の跋扈する所は東西球を極めて高柳君には敵地である。高柳君はアーチの下に立つ新しき夫婦を十歩の遠きに見て、是がわが友であるとは慥かに思わなかった。多少の不都合を犠牲にして迄、高柳君を待ち受けたる夫婦の眼に高柳君の姿がちらと映じた時、待ち受けたにも拘わらず、待ち受け甲斐のある御客とは夫婦共に思わなかった。)
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(「あるわよ、あなた。まあいいから入らっしゃいてえのに」とぐいぐい引っ張る。塩瀬は羽織が大事だから引かれながら行く、途端に高柳君に突き当った。塩瀬は一寸驚ろいて振り向いた迄は、粗忽をして恐れ入ったと云う面相をしていたが、高柳君の顔から服装を見るや否や、急に表情を変えた。「やあ、こりゃ」と上からさげすむ様に云って、然も立って見ている。「入らっしゃいよ。いいから入らっしゃいよ。構わないでも、いいから入らっしゃいよ」と女は高柳君を後目にかけたなり塩瀬を引っ張って行く。)

憐れなる高柳君の服装~互いに「是は」と思う~「是は」が重なると喧嘩なしの絶交となる~塩瀬の羽織を着た客とぶつかる

3回 独りぼっちの園遊会
(P396-11/高柳君はぽつぽつ歩き出した。若夫婦は遥かあなたに遮られて一所にはなれぬ。芝生の真中に長い天幕を張る。中を覗いて見たら、暗い所に大きな菊の鉢がならべてある。今頃こんな菊がまだあるかと思う。白い長い花弁が中心から四方へ数百片延び尽して、延び尽した端から又随意に反り返りつつ、あらん限りの狂態を演じているのがある。背筋の通った黄な片が中へ中へと抱き合って、真中に大切なものを守護する如く、こんもりと丸くなったのもある。松の鉢も見える。玻璃盤に堆かく林檎を盛ったのが、白い卓布の上に鮮やかに映る。林檎の頬が、暗きうちにも光っている。蜜柑を盛った大皿もある。)
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(「君は何を呑むのだい」「是を一つやって見玉え」と洋服が鰐皮の烟草入から太い紙巻を出す。「成程エジプシアンか。これは百本五六円するだろう」「安い割にはうまく呑めるよ」「そうか――僕も紙巻でも始め様か。是なら日に二十本宛にしても二十円位であがるからね」二十円は高柳君の全収入である。此紳士は高柳君の全収入を烟にする積である。)

菊の鉢と松の鉢~林檎の大皿と蜜柑の大皿~園遊会に燕尾服を着てくる非常識な男が2人いた~舞台と楽隊と朝妻船~葉巻と紙巻の呑み比べ

4回 高柳君は独りで帰ったのだろうか
(P400-2/高柳君は又左へ四尺程進んだ。二三人話をしている。「此間ね、野添が例の人造肥料会社を起すので……」と頭の禿げた鼻の低い金歯を入れた男が云う。「うん。ありゃ当ったね。旨くやったよ」と真四角な色の黒い、烟草入の金具の様な顔が云う。「君も賛成者のうちに名が見えたじゃないか」と胡麻塩頭の最前中野君を中途で強奪したおやじが云う。「それさ」と今度は禿げの番である。「野添が、どうです少し持ってくれませんかと云うから、左様さ、わたしは今回はまあよしましょうと断わったのさ。所が、まあ、そう云わずと、責めて五百株でも、実はもう貴所の名前にしてあるんだからと云うのさ、面倒だからいい加減に挨拶をして置いたら先生すぐ九州へ立って行った。)
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(「そうさ、――然し帰るならちっとは帰る前に傍へ来て話でもしそうなものだ」「なぜ皆さんの居らっしゃる所へ出て、入らっしゃらないのでしょう」「損だね、ああ云う人は。あれで一人じゃ矢っ張り不愉快なんだ。不愉快なら出てくればいいのに猶々引き込んで仕舞う。気の毒な男だ」「折角愉快にしてあげようと思って、御招きするのにね」「今日は格別色がわるかったようだ」「屹度御病気ですよ」「やっぱり一人坊っちだから、色が悪いのだよ」高柳君は往来をあるきながら、ぞっと悪寒を催した。)

株式値上がりの話~鴨猟の話~高柳君は新夫妻に挨拶せずに帰る~「あれで一人じゃやっぱり不愉快なんだ。不愉快なら出てくればいいのになおなお引き込んでしまう。気の毒な男だ」