明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 13

348.『野分』主人公は誰か(5)――兄と弟


 道也の家は市ヶ谷薬王寺前であった。薬王寺前というと、後の読者が知るように、『道草』の健三の兄が住む場所である。漱石は『道草』を書くときに『野分』の道也夫婦のことを一瞬でも憶い出したりしなかったであろうから、薬王寺前は漱石の中では兄弟につながるイメジがあったのだろう。『野分』では兄は道也の唯一の係累として描かれる。

で御兄(おあにい)さんに、御目に懸って色々今迄の御無沙汰の御詫びやら、何やらして、それから一部始終の御話をしたんです
「それから」
「すると御兄さんが、そりゃ御前には大変気の毒だって大変私に同情して下さって……」
「御前に同情した。ふうん。――一寸其炭取を取れ。炭をつがないと火種が切れる」
「で、そりゃ早く整理しなくっちゃ駄目だ。全体なぜ今迄抛って置いたんだって仰しゃるんです」
「旨い事を云わあ」
まだ、あなたは御兄さんを疑っていらっしゃるのね。罰があたりますよ
「夫で、金でも借したのかい」
「ほらまた一足飛びをなさる」
 道也先生は少々可笑しくなったと見えて、にやりと下を向きながら、黒く積んだ炭を吹き出した。
「まあどの位あれば、是迄の穴が奇麗に埋るのかと御聞きになるから、――余っ程言い悪かったんですけれども――とうとう思い切ってね……」で一寸留めた。道也はしきりに吹いている。
「ねえ、あなた。とうとう思い切ってね――あなた。聞いて居らっしゃらないの」
「聞いてるよ」と赫気で赤くなった顔をあげた。
「思い切って百円許りと云ったの」
「そうか。兄は驚ろいたろう」
「そうしたらね。ふうんて考えて、百円と云う金は、中々容易に都合がつく訳のものじゃない……」
「兄の云いそうな事だ」(『野分』第3章)

 『野分』を読むような現代の漱石の読者は、(志賀直哉のような明治期の若者でないのだから)当然『道草』を読んでいるはずである。

「御兄(おあにい)さんに島田の来た事を話したら驚ろいて居らっしゃいましたよ。今更来られた義理じゃないんだって。健三もあんなものを相手にしなければ好いのにって」
 細君の顔には多少諷諫の意が現われていた。
「それを聞きに、御前わざわざ薬王寺前へ廻ったのかい」
「またそんな皮肉を仰しゃる。あなたは何うしてそう他のする事を悪くばかり御取りになるんでしょう。妾あんまり御無沙汰をして済まないと思ったから、ただ帰りに一寸伺った丈ですわ
 彼が滅多に行った事のない兄の家へ、細君がたまに訪ねて行くのは、つまり夫の代りに交際の義理を立てているようなものなので、いかな健三もこれには苦情をいう余地がなかった。
「御兄さんは貴夫のために心配していらっしゃるんですよ。ああ云う人と交際いだして、また何んな面倒が起らないとも限らないからって」
「面倒ってどんな面倒を指すのかな」
「そりゃ起って見なければ、御兄さんにだって分りっ子ないでしょうけれども、何しろ碌な事はないと思っていらっしゃるんでしょう」
 碌な事があろうとは健三にも思えなかった。・・・(『道草』19回冒頭)

 薬王寺前が道也の住所地であることを覚えている読者は別として、健三や島田という名前を隠してこの文章をそっくり『野分』に挿入しても、誰も気付かないだろう。『道草』でも兄は(『野分』同様)お金のことで弟の心配をしている。兄はどちらの作品でも、金銭的には弟にとっては第三者であるように書かれている。『野分』では百円の借金を兄に相談した(実際には百円は兄から借りた)。『道草』で兄も認めた「碌でもないこと」とは、島田に取られる百円のことであろうが、それはまた先の話である。

 ところで『野分』では唐突に、道也はまだ兄を疑っているという記述が飛び出す。してみると兄は金銭的にも弟と無関係というわけには行かなかったのか。道也は以前に何か兄に対し疑念を抱くようなことがあった。読者はここでもまた、嫌でも家産とか相続がらみの連想をせずにはいられない。
 信じられないことに漱石は、この後も世襲財産のトラブルについて書き続けた。相続の問題について触れられていない小説は、(『猫』は別格として)『三四郎』だけではないか。『三四郎』が漱石の小説として例外的に爽やかに見えるのは、この漱石特有の鬱陶しい話題から解放されているためである。言い方を変えると、『三四郎』を(単なる青春小説として)物足りなく感じる向きは、この財産問題・相続問題が、『三四郎』に欠落しているということに、改めて想いを致すべきである。
 この問題は三四郎が長男(1人っ子)であるということに尽きよう。漱石は何のために坊っちゃんや白井道也を「弟」にしたのか。三四郎は兄弟がいないために薄っぺらな人間になってしまった。三四郎に懲りた漱石は以後1人っ子を封印した。長男に見える男でも実質は長男でないように造型した。例外的な1人っ子は『心』の先生であろう。先生はそのため(だけでもなかろうが)漱石で唯一死んでしまう主人公となった。自裁しない先生は三四郎のような軽い男になってしまう。漱石はそれに気付いていたとしか思えない。
 それで漱石は先生にKという義兄弟(心の兄弟)のような存在を張り付けたが、救いにはならなかった。Kが早く亡くなったため先生は十何年か生きながらえたが、K(兄者がいる)の代役たる学生の私(やはり兄がある)が先生に近付き、その私に(Kのように)卒業が迫ると、先生はもう歯止めが効かなくなる。
 その観点から言えば、限りなく1人っ子に近い(というより早くから親に見放された)長男の津田が、『明暗』の中で軽薄才子のように描かれる理由も分かるというもの。津田は始めから罰せられるべく生み出されていたのである。

 ところで『三四郎』が物足りないと思う人向けの解決策として、広田先生が三四郎に対して、『心』の先生みたいに、「お母さんが元気なうちに、貰える財産があれば貰っておいたほうがよい」と言えばいいのであるが、残念ながら親1人子1人の三四郎であれば、そんなアドバイスをするわけにもいかない。せいぜい(与次郎の遣い込みによる)臨時仕送り事件が関の山である。漱石は丁寧にもこのときの母親の不安と不満を、野々宮さん宛に送金するというはた迷惑な方法で描いて見せた。(そして『明暗』では父親による送金拒否事件にまで発展させた。)
 しかし『三四郎』第7章で、露悪家について広田先生が三四郎に説くところをよく読むと、三四郎に兄がおりさえすれば、おそらく広田先生は三四郎に上記のアドヴァイスをしたのではないかと思われる。

「・・・それと同じく腹をかかえて笑うだの、転げかえって笑うだのと云う奴に、一人だって実際笑ってる奴はない。親切も其通り。御役目に親切をして呉れるのがある。僕が学校で教師をしている様なものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だろう。之に反して与次郎の如きは露悪党の領袖だけに、度々僕に迷惑を掛けて、始末に了えぬいたずらものだが、悪気(にくげ)がない。可愛らしい所がある。丁度亜米利加人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為程正直なものはなくって、正直程厭味のないものは無いんだから、万事正直に出られない様な我々時代の、小六ずかしい教育を受けたものはみんな気障だ」(『三四郎』7ノ3回)

 広田先生の説明は分かりにくいが、例えて露悪家の典型例を想像するなら、それは親に向かって遺産の即時払いを請求することであろうか。金のある親はその恐怖から目を逸らすために、あるいはある種の歓びのために、せっせと(言われない先に)子供に金を与える。露悪の効用はあるのである。
 金のない家の場合は一見何の問題も起きないように見える。白井道也の場合(漱石の場合)はどうか。これは社会問題ではなく個人(家)の問題であるから、論ずべきではないかも知れないが、道也(漱石)は慥かに厭な経験をしたのだろう。でなければ一生書き続けるわけがない。

 ちなみに漱石にとって兄弟の話は常に相続と直結するのであるが、そういった俗事と無縁に見える『猫』でも、浮世風呂ならぬ横丁の銭湯のシーンではあるが、九郎義経が衣川を生き延びて大陸へ渡ったという、明治期に一世を風靡した義経成吉思汗伝説が語られる。遊牧民は父母のパオ(包・ポー)を長男から順に独立して出て行き、最後に残った末子が(形式だけにせよ)相続するのである。源氏の末裔たる漱石は、自分にも相続する権利があると、頭の何処かで感じていたに違いない。

「鉄砲は何でも外国から渡ったもんだね。昔は斬り合い許りさ。外国は卑怯だからね、それであんなものが出来たんだ。どうも支那じゃねえ様だ、矢っ張り外国の様だ。和唐内の時にゃ無かったね。和唐内は矢っ張り清和源氏さ。なんでも義経蝦夷から満洲へ渡った時に、蝦夷の男で大変学のできる人がくっ付いて行ったてえ話しだね。それで其義経のむすこが大明を攻めたんだが大明じゃ困るから、三代将軍へ使をよこして三千人の兵隊を借してくれろと云うと、三代様がそいつを留めて置いて帰さねえ。――何とか云ったっけ。――何でも何とか云う使だ。――夫で其使を二年とめて置いて仕舞に長崎で女郎を見せたんだがね。其女郎に出来た子が和唐内さ。それから国へ帰って見ると大明は国賊に亡ぼされて居た。……」何を云うのか薩張り分らない。・・・(『猫』第7篇)

 漱石近松(門左衛門)を持ち上げる理由は別にないが、茶化しているとも断じがたい。「義経のむすこが大明を攻めた」という箇所は無茶苦茶なようで妙に真を穿っているような感じでもある。「義経のむすこ」の解釈にもよるが、「三代様」が家光であることと鄭成功の故事は動かしようがないので、これは元朝清朝の間の400年をわざとショートカットした謂いか。大明国に滅ぼされた元朝と、その大明国を滅ぼした清朝は、徳川期の江戸庶民にとっては同じ(韃靼人の)国家に見えたはずである。それは大明国の子会社みたいな存在だった足利幕府とその後継者たる(源氏の)徳川幕府に対する、庶民のおちゃらけでもあった。相手が明でも清でも頭が上がらない徳川政権に対して、庶民はチャンバラレベルでの勝ち負け・敵討ちの話に落とし込んで愉しむのである。これもまた反骨精神の現れであろうか。

 漱石は自分の遠い祖先が、元の建国に協力した官僚(軍事顧問)であったことに誇りを持っていたに相違ない。大モンゴル帝国はアジアの民として始めて欧州を席捲した。
 ちなみに鄭成功の平戸における日本名は「田川」という姓である(田川福松)。漱石はそれと知って、後の主人公の1人に「田川敬太郎」という名を付けたのだろうか。