明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 29

242.『両親と私』1日1回(4)――先取り先生の遺書


 前項で述べたように、先生の迷い~電報~決心~遺書への流れは、時系列に整理しておく必要がある。それには『心』最終回の援けも借りなくてはならない。
 まず取っ掛かりは御大葬の夜の乃木大将の殉死である。すべてはここから始まる。乃木夫妻の自刃は9月13日夜。新聞報道は14日である。
 それから先は小説の記述に基づく推定になるが、採用にあたっては極力前倒しした日付にすべきであろう。というのは御大葬の前、推定で9月11日頃、会社を休んで帰って来た私の兄が、いつまでも足止めを食っているからである。
私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。是は万一の事がある場合でなければ、容易に父母の顔を見る自由の利かない男であった。」と書いたのは他ならぬ漱石自身である(『先生と私』22回)。
 妊娠中の妹のことも心配である。疾の床の父が、それでも初孫(と思われる)の顔を見たがっているらしいことはちゃんと書かれてはいるが(同12回)。

 ・・・私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。(『先生と遺書』56回)

 乃木大将の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」と云った。
 何事も知らない私達は此突然な言葉に驚かされた。(『両親と私』12回)

 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。・・・乃木さんは此三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだろうと考えました。(『先生と遺書』56回)

 其後私はあなたに電報を打ちました。有体に云えば、あの時私は①一寸貴方に会いたかったのです。それから貴方の希望通り②私の過去を貴方のために物語りたかったのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、③私は失望して永らくあの電報を眺めていました。あなたも電報丈では気が済まなかったと見えて、又後から長い手紙を寄こして呉れたので、あなたの出京出来ない事情が能く解りました。・・・(『先生と遺書』1回再掲)

 電報には一寸会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
 ・・・私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。出来る丈簡略な言葉で父の病気の危篤に陥りつつある旨も付け加えたが、夫でも気が済まなかったから、委細手紙として、細かい事情を其日のうちに認めて郵便で出した。・・・(『両親と私』12回末尾再掲)

 あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それで④其意味の返事を出そうかと考えて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに已めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかったから、そうして⑤此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それが為です。(『先生と遺書』1回末尾再掲)

 私の書いた手紙は可なり長いものであった。・・・すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛で届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。(『両親と私』13回再掲)

 ⑥それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。⑦私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。(『先生と遺書』56回)

 Ⅷの文章はの文章の後にすぐ続くものである。⑥の「それから二三日して」の「それから」は、殉死の9月13日か新聞報道の9月14日か、どちらを指すのか分かりづらいが、漱石の指示語は必ずしも直前の語を指さない場合が多いから、この場合も殉死の9月13日を基点にすべきか。どちらにせよ先生の決心の日は、9月15日~17日のいずれかであろう。この決心の日とシンクロして、の電報の交換が、それから3日間行われたことになる。

 ⑧私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。⑨始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然描き出す事ができたような心持がして嬉しいのです。・・・(『先生と遺書』56回)

 ・・・⑩何も知らない妻は次の室で無邪気にすやすや寝入っています。私が筆を執ると、一字一劃が出来上りつつペンの先で鳴っています。私は寧ろ落付いた気分で紙に向っているのです。不馴のためにペンが横へ外れるかも知れませんが、頭が悩乱して筆がしどろに走るのではないように思います。(『先生と遺書』3回末尾)

 ・・・此手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもう此世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。妻は十日ばかり前から市ヶ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病気で手が足りないというから私が勧めて遣ったのです。⑪私は妻の留守の間に、この長いものの大部分を書きました。時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。(『先生と遺書』56回)

 まるでロンドかフーガのように、同じ主題が繰り返され、現れてはまた消える連載回。それでも『心』の暦の糸は確実に終末に向かって紡がれてゆく。
 ⑧で決心の日から10日以上執筆に費やしているとあるから、脱稿は9月26日~29日のいずれかということになろう。
 兄が帰省してから私が先生の遺書を受取るまで、すでに半月以上が経つ。慥かに長過ぎる。長過ぎる訳は、先生が遺書を書いているからである。
 長過ぎると言っても、例外的なスピードで書き上げた『坊っちゃん』の製作日数が(荒正人の年表によると)十数日である。先生はそのときの漱石と似た年齢ではあるが、先生がそれ以上の早さで遺書を書けるとも思えない。

 そして常に読者を悩ませる先生の自殺の理由であるが、⑦であっさり書いているように、読者には分からないだろうと言い切っている。乃木大将の自殺の理由は乃木大将に聴けということである。
 それよりここで問題になるのは、

先生は死を決意したので私に電報を掛けたのか、それとも決意する前に迷って私に会おうと思ったのか

 ということであろう。

 一番の決め手になるのは⑧と⑨である。決心して、始めは直接会って話そうと思っていた。その同じ内容は①と②に書かれてある。私の行かれないという返電に失望して(③)、その決心はいったんは揺らいだかに見える。私の電報を永く眺めていたという③の記述は、すでに決心が固まっていたというよりは、まだ先生が悩みの中にいたことを思わせる。しかしそれは2日後には吹っ切れていたのではないか。私の手紙が届き、先生は改めて私の父の大変な状況であることを思い知らされる。自分の迷いで頭が一杯になっていたことを詫びようとも思ったが、もうそんな枝葉のことより、本来の義務たる告白の手紙(遺書)を書く方向に進路を定めた(④と⑤)。⑤の、手紙を書く時期がまだ少し早過ぎたというのは、もっと落ち着いてからゆっくり手紙を書けばいい、というような悠長な意味ではなく、約束の手紙を書き了えるには今少し時間がかかる、まだ手紙を投函するに至らないと解したい。繰り返すが漱石はせっかちなのである。
 決意した先生は手紙の筆を取り、前後して奥さんを市ヶ谷へ遠ざける手立てを講じた。まだ奥さんが家にいる間に最初の何枚かは書いていたであろうことが、⑩の「隣の部屋ですやすや寝ている」及び⑪の「大部分」という言葉から伺われる。

 してみると⑥の「それから二三日して」を、乃木大将の殉死(9月13日)から2、3日とみて、最速9月15日、先生はこの日に決心して私に電報を打った。そしてさらなる煩悶の2日間を経て、9月17日にその決心は揺るぎないものとなったと見ていい。私に上京するに及ばないという、生前最後の発信をしたときには、先生はもう引き返すことのない道に踏み出していた。私から届いた手紙は、先生の2番目の電報のきっかけにはなったが、それ以上のものではなかったと言える。

1.御大葬と殉死。
2.ある決心をする。
3.私に会いたいと思い第1の電報を打つ。
4.上京出来ないという私の返電を受ける。
5.2日間悩んだが、手紙によって過去を語ることに決める。
6.上京出来ない事情を細かく記した私の手紙が届く。
7.私にお詫びの手紙を書こうとして思いとどまる。
8.もう直接遺書を書く決心をする。
9.上京するに及ばずという第2の電報を打つ。
10.遺書を書き始める。
11.奥さんを市ヶ谷へ遠ざけた。

 では先生の決心の直接のきっかけになったものは何か。御大葬と殉死か。漱石は決してそのようには書いていないが、そう読めることもまた事実である。しかし漱石はトリガーについてはもう語る気はないようである。それは何でもいい。もっと大きな原因がある。そのために先生の遺書がある。その遺書に入る前に、もう一度私の父と先生、2人の最後の道のりを再確認してみる必要があるだろうか。