明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 28

241.『両親と私』1日1回(3)――手紙と電報の謎


 ところでこの先生の手紙(遺書)は、1枚目だけ『両親と私』で紹介されてしまっている。第3篇『先生と遺書』は先生の手紙の2枚目あたりから始まっているのである。小説の構成としてはむしろ趣きがあると言ってよいが、各篇の独立はどこへ行ったのであろうか。本ブログ(行人篇)でも述べたように、『行人』でもそのような傾向はみられたが、短篇形式の集合という掛け声は、『彼岸過迄』だけで忘れ去られてしまったかのようである。もちろん短篇を並べて、相互に話が一部分だけ重なるというような技法も、考えられないこともないが。
 そしてさらに、その2枚目3枚目あたりは、『先生の遺書』といっても、遺書の本体(先生の若い頃の話)に入る前の、前書きのような、私への事務連絡のような部分である。ここではそれを先に片付けて置いた方が分かりやすいだろう。

 其後私はあなたに電報を打ちました。有体に云えば、あの時私は一寸貴方に会いたかったのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかったのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めていました。あなたも電報丈では気が済まなかったと見えて、又後から長い手紙を寄こして呉れたので、あなたの出京出来ない事情が能く解りました。・・・(『先生と遺書』1回)

 あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それで其意味の返事を出そうかと考えて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに已めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかったから、そうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それが為です。(『先生と遺書』1回末尾)

 これは以前語られていた先生の電報事件について、私(と母)の想像が間違っていたことを示している。乃木大将の殉死の報が新聞紙面を賑わせていた頃、先生から突然電報が来る。私は行かれないと返電を打ったが、細かい事情を記した手紙をその日のうちに投函した。

 電報には一寸会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
「屹度御頼もうして置いた口の事だよ」と母が推断して呉れた。
 私も或は左右かも知れないと思った。然しそれにしては少し変だとも考えた。兎に角兄や妹の夫迄呼び寄せた私が、父の病気を打遣って、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。出来る丈簡略な言葉で父の病気の危篤に陥りつつある旨も付け加えたが、夫でも気が済まなかったから、委細手紙として、細かい事情を其日のうちに認めて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間の悪い時は仕方のないものだね」といって残念そうな顔をした。(『両親と私』12回末尾)

 私の書いた手紙は可なり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とか云って来るだろうと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛で届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
「大方手紙で何とか云ってきて下さる積だろうよ」
 ・・・
「兎に角私の手紙はまだ向こうへ着いていない筈だから、此電報は其前に出したものに違いないですね」
 私は母に向かって斯んな分り切った事を云った。母は又尤もらしく思案しながら「左右だね」と答えた。私の手紙を読まない前に、先生が此電報を打ったという事が、先生を解釈する上に於て、何の役にも立たないのは知れているのに。(『両親と私』13回)

 引用太字の部分はちょっと不親切な書き方であろう。私がそのとき「手紙はまだ着いていないだろうから、この電報は手紙を見る前に打ったのだろう」と推断したこと自体は、(外れてはいたが)とくにヘンではない。問題はそれを説明(評価)した次の文章である。
私は母に向かって斯んな分り切った事を云った
 ふつう「分かり切ったこと」とは自明の真理という意味であるから、推測している事柄について述べることではない。投函したばかりならともかく、2日前に出したのであれば、その手紙が相手に届いているかいないかは、「相手に聞いてみないと分からない」というのが「分かり切ったこと」である。事実手紙は先生に届いていた。漱石はなぜこんな書き方をしたのであろうか。
 思うに漱石は、私が推断した内容ではなく、それを言うときの(理の当然たる、犬が西向きゃ尾は東的な、面白くも何ともない)ものの言い方について述べたのではないか。「話の論理として当り前で、言っても言わなくても同じこと、別にどうでもいいこと」という意味で、「分かり切ったこと」という表現を使ったのでないか。
 しかし誤解を生む表現であろう。ここは、
「私は母に向かって斯んな何の役にも立たない事を云った」
 とでも言うべきところであろう。ところが漱石は続きの文で、手紙と電報のどちらが先か分かったところで、「何の役にも立たない」と書いてしまっているので、そう直すわけにもいかない。ではどう書けばいいか。
「私は母に向かって斯んなわざわざ口に出して言うまでもないような事を云った」
 漱石はそのような意味で書こうと思って、くだくだしさを嫌って、「斯んな分り切った事」という現行本文を選択したのだろう。そう思って上記引用文を読むと、そんなに変ではないと思えてくるのが不思議である。「分かり切ったこと」というのは、私の話す内容の真偽ではなく、私の話す「話し方の論理建て」の真偽を指すのであった。であればこれもまた、実に漱石らしい一文ということになろう。

 しかしこれは実際の電報を見た方が話が早いかも知れない。肝心の電報の中身はどうなっているのだろうか。
 先生は私に会って話がしたいと思って第1の電報を打った。「ちょっと会いたい来られるか?」
 私の返電は「行かれない父の病状が重篤委細フミ
 そして手紙を出して、その父の病状をくどくど述べた。してみると手紙はあくまで電報の補完物であって、上京出来ない理由については私の返電に尽きているのである。
 つまり先生の第2の電報「来ないでもよろしい」は、先生が私の言い訳の手紙を読もうが読むまいが関係なく、「お父さんの状態が危ないのであれば当然来るに及ばない、了解した」ということである。
 では私が問題にすべきなのは、なぜ第2の電報を打つのに2日間というインターバルがあったのかということと、もう1つ、これが一番肝心なことだが、そもそも先生の私に会いたいというのは何の用だったかということである。

 それは先生が遺書の中で語っていることであるが、それを考察する前に、先生のイレギュラーな電報については、先生は実際には私の手紙を読んでいたのであるから、やはり「フミヨム」「フミヨンダ」の文言を付加するべきであった。そうして2日間のタイムラグというのは、待つ身にとっては大変な心的負担である。先生はこのとき色々迷っていたのであるから、それどころでないだろうが、会って話をする代わりに手紙を書くから待っていてくれという、文言を追加するなり、葉書で後報するなりすべきではなかったか。
 そしてくどいようだが、先生の第2の電報に対する私の述懐は、先生が私の手紙を読もうが読むまいが、何の影響もないことがはっきりしているのであるから、

兎に角私の手紙はまだ向こうへ着いていない筈だから、此電報は其前に出したものに違いないですね

 という私のセリフの後に続く文章としては、次のような言い回しの方が相応しいのではないか。

「私は母に向かって斯んな何の価値(ねうち)もない事を云った」

 ところで先回りするようだが、私が9月に再上京するのは当初からの予定であり、だからこそ先生はわざわざ電報を打ってみたのである。実際は父親の病状のせいで、私はまだ郷里にぐずぐずしていたわけだが、父親の件が片付けば私はすぐにでも上京すると見てよい。大部の遺書を書き上げて、投函した時に私がひょっこり顔を出したら目も当てられない。あるいは投函して先生が失踪する(「私は妻に血の色を見せないで死ぬ積です。妻の知らない間に、こっそり此世から居なくなるようにします」と遺書の最終回で書いている)のと入れ違いに私が上京していたら、郷里の母が先生の分厚い郵便物を、何かの書類か資料だと思って、そのままに打っちゃっておく可能性は大いにある。私は先生のこれからやろうとする一世一代のたくらみについては、何も知らないのであるから、そもそもそんなものの存在は夢想だに出来ない。私と奥さんは忽然と姿を消した先生に、途方に暮れて互いに顔を見合わせるだけである。

 とまあ余計な心配をしてもしようがないが、この先生の迷いと電報については、さらに先生自身の言い分を聞いておく必要がある。漱石は何か意図があって「こんな分かり切ったこと」と書いたかも知れないからである。