明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 27

240.『両親と私』1日1回(2)――復活したカレンダー(つづき)


第3章 死に近き父 (大正元年9月3日火曜~9月10日火曜)
    私・父・母・医者

9回 上京予定日の2日前に父はまた倒れた~足止め~「どうせ死ぬんだから、旨いものでも食って死ななくちゃ」
10回 父の重態は続く~町の病院から看護婦を呼ぶ~ついに兄と妹へ電報を打つ
11回 私は身動きが取れない~母は先生に催促の手紙を書けと言う~父の気が慥かなうちに就職口を決めて「喜こばして上げるように親孝行をおしな」

第4章 兄帰る (大正元年9月11日水曜~9月27日金曜)
    私・父・母・兄・妹婿・作さん

12回 兄が帰って来た~妹婿も駆け付ける~9月13日御大葬・乃木大将の殉死「大変だ大変だ」~先生から思いがけない電報~ちょっと会いたいが来られるか~先生に断りの電報を打つ
13回 先生に行かれない事情を書いた手紙を出す~手紙を出した2日目にまた電報が~来ないでもよろしい~作さん来る「作さんよく来て呉れた。己はもう駄目だ」~浣腸
14回 毎晩交代で家族が父の寝所に詰める~兄と私~「御前是から何うする」「一体家の財産は何うなっているんだろう」
15回 兄は実業の人「イゴイストは不可ないね」~「御前此所へ帰って来て、宅の事を監理する気はないか」「本を読む丈なら、田舎でも充分出来る」

大変だ大変だ」(『両親と私』12回)

 乃木大将の殉死を家内で一番先に知ったのは、病床の父であった。既に兄も妹婿も遠方から駆け付けて、予断を許さない筈の父が、一番始めに新聞で殉死を知ったのは、現代の人間からすると奇異に感ぜられるが、朝配達された新聞は、下女がまず家長の許へ届けるならわしである。家族の誰も父の前には新聞紙を、手に取ることさえしない。(これは古今東西を問わない。オノヨーコが先に新聞を読むと言って、ジョンは訝っている。)
 このとき東京では先生が号外を手にしながら、「殉死だ殉死だ」と驚いたことが小説の末尾で書かれる(『先生と遺書』56回)。似たような設定で『門』の宗助は御米に、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」と言ったが、2人の長州人の頓死(アクシデント)に対して、江戸の人漱石は何を思ったのであろうか。

第5章 先生の手紙 (大正元年9月28日土曜~9月29日日曜)
    私・父・母・兄・伯父・医者・看護婦

16回「乃木大将に済まない。実に面目次第がない。いえ私もすぐ御後から」「御光御前にも色々世話になったね」~「今のうち何か聞いて置く必要はないかな」~伯父にも相談~其時兄が廊下伝に這入って来て、一通の郵便を無言の儘私の手に渡した
17回 先生からの大部の手紙~終末に近い父~落ち着いて手紙を読めないもどかしさ~私を呼ぶ兄の大きな声
18回 先生の手紙の結末に近い一句「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでしょう。とくに死んでいるでしょう」~居ても立っても居られない私は置手紙をして東京行きの汽車に飛び乗る

 先生も気にしていた私の家の財産(相続)の問題であるが、それは例によって愚図愚図のまま終わった。最後に伯父が登場するが、これは母(御光)の兄にあたる人であろう。

「云いたい事があるのに、云わないで死ぬのも残念だろうし、と云って、此方から催促するのも悪いかも知れず」(『両親と私』16回)

 何となく私の父に対する物の言い方も控え目である。この私の親戚としては唯一セリフ付きで登場する人物が、叔父でなく伯父であったことにより、私の家の財産問題はこれ以上は進行しないことが分かる。もちろん横領事件は先生の主戦場であるから、私などの出る幕はないのであるが、私の家でもそれに類することが話頭に上るというのは、先生だけが世襲財産の問題でごたごたするのを、漱石が嫌ったのであろう。そこには親(義父・養父を含む)の財産を結果として1銭も貰わなかった漱石の、複雑な想いも詰まっているようだ。

 それから、余計なことを言うようだが、16回~18回の「先生の手紙」(別名「死に給う父」)の章の描写は、漱石の臨終を思わせて不気味である。大正3年の漱石がそれを予見出来るわけもなく、漱石は父を(母も)送っていないので、長兄・次兄を看取ったときの経験を基にしているのかも知れないが、おそらく自身の、修善寺の体験に拠っているのではないか。医者や看護婦が駆け付けていることからも、兄たちのときの経験だけではないような気がする。だからどうと言うわけではないが。

 そんなことより、死に近き父と並行して語られる先生の電報と手紙の話。この緊迫感は物凄いものである。それは小説の最後で再び巨大な姿を現わして、さらなる衝撃を読者に与える。この力は(小柄な)漱石のどの辺に潜んでいるのであろうか。

 それは普通の手紙に比べると余程目方の重いものであった。並の状袋にも入れてなかった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧に糊で貼り付けてあった。(同16回)

 私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂き破った。中から出たものは、縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿様のものであった。そうして封じる便宜のために、四つ折に畳まれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。(同17回)

 先生の遺書は(『坊っちゃん』と同じ)松屋製原稿紙(1枚あたり24字×24字)に書かれたものであろう。(『坊っちゃん』の149枚に対し)140枚くらいであると推測される。「四つ折」というのは少し無理があるようだ。蝿の頭のような細字で、1マスに4文字くらい詰めて書いて、全体の枚数を4分の1にしたのであれば、四つ折りにすることも可能だが、このときの先生は漱石みたいな神経衰弱ではなかったであろうから、まずふつうに書いたと思われる。140枚を四つ折りにするとほとんど小包(書籍)である。そしてクラフトペーパーでなく、「半紙」と書かれるから、和紙の腰の強いもので包んだのであろう。二つ折りにしてハトロン封筒に入れる方が遥かに楽だと思うが、自分の遺書に対する思い入れか、それとも「荷造り」にこだわったのか。『行人』の長野二郎は行李を括るような荒仕事が得意であるとも書かれる。きつく縛して封じ込める。必要とあらばぐるぐる巻きにする。これも癇性の人間の習い性であるか。
 私は糊付けされた封じ目を、引っ掻くように裂き破った。尊敬する先生から送られた書き物らしき荷物であれば、もっと丁寧に扱うのが筋であるが、この乱暴さもまた漱石の特長である。釣れたゴルキを竿のまま舟の床板に叩きつける坊っちゃん。弁当殻や桃の食べ滓を汽車の窓から放り投げる三四郎と広田先生。済んだ披露宴の招待状を、展覧会場の床へ破り捨てた野々宮さん。さらに敷衍すると、「おい天麩羅を持ってこい」と言って天麩羅蕎麦を4杯平らげるのも。
 精緻に積み上げられた修辞と、対照的に粗暴に振る舞う登場人物。時代のせいもあるが、要するにせっかちなのであろう。