明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 26

239.『両親と私』1日1回(1)――復活したカレンダー


 『両親と私』 (全18回)

第1章 持ち直した父 (明治45年7月6日土曜~7月25日木曜)
    私・父・母

1回「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」「中に心でも入れると好かったのに」
2回「自分で死ぬ死ぬって云う人に死んだ試はない」「夫よりか黙っている丈夫の人の方が剣呑さ」
3回 村人を呼んで大学卒業の内祝いをしなければいけない~明治天皇の御病気~ついこの前の卒業式に行幸
4回 友達に手紙を出す~先生にも作文風のものを送るが返事はなかった~先生は避暑に出掛けたのか~陛下の病気と父の病気

「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。一寸御待ち、今顔を洗って来るから」
 父は庭へ出て何か為ていた所であった。古い麦藁帽の後へ、日除のために括り付けた薄汚ないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻って行った。(『両親と私』1回)

 私は母を蔭へ呼んで父の病状を尋ねた。
御父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれで可いんですか」
「もう何ともないようだよ。大方好く御なりなんだろう」(同2回冒頭)

「でも医者はあの時到底六ずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の身体ほど不思議なものはないと思うんだよ。あれ程御医者が手重く云ったものが、今迄しゃんしゃんしているんだからね。・・・」(同2回)

 帰宅は日がまだ高いうちであった(ように読める)。私は(いつも通り)夜行列車で東京を発っているはずだから、前述したように、午前中の到着ではないと思いたいが、父母とも一晩夜汽車に揺られた息子を気遣うそぶりを見せない。

私のために赤い飯を炊いて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日から、或は斯んな事になるだろうと思って、心のうちで暗にそれを恐れていた。私はすぐ断わった。
「あんまり仰山な事は止してください」(同3回冒頭)

 父は其夜また気を更えて、客を呼ぶなら何日にするかと私の都合を聞いた。都合の好いも悪いもなしに只ぶらぶら古い家の中に寝起きしている私に、斯んな問いを掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であった。私は此穏やかな父の前に拘泥らない頭を下げた。私は父と相談の上招待の日取りを極めた
其日取のまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇の御病気の報知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡った此事件は、一軒の田舎家のうちに多少の曲折を経て漸く纏まろうとした私の卒業祝いを、塵の如くに吹き払った。
「まあ御遠慮申した方が可かろう」
 眼鏡を掛けて新聞を見ていた父は斯う云った。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私は③つい此間の卒業式に例年の通り大学へ行幸になった陛下を憶い出したりした。(同3回末尾)

 『両親と私』のカレンダーにとって決定的な事件が起きる。②の明治45年7月20日(土曜)、天子様御病気である。私は明治天皇の臨席された姿を見た最後の卒業生になった(③)。
 天皇の病気と前後して、私は今夏1番目の手紙を書く。返事は来なかった。避暑にでも行っているのか(第4回)。

第2章 衰え行く父 (明治45年7月25日木曜~大正元年9月1日日曜)
    私・父・母

5回 父は陛下の病状に同調するかのように衰えて行く~7月30日明治天皇崩御~「ああ、ああ、天子様もとうとう御かくれになる。己も……」~先生にまた手紙を書きかけたがやめる
6回 両親は私の就職を待ち望んでいる~先生に好い口があるか手紙で尋ねてみろと言う
7回「小供に学問をさせるのも好し悪しだね。折角修業をさせると、其小供は決して宅へ帰って来ない」~兄は遠国にいる~私は東京に住む覚悟~先生にまた就職依頼の手紙を書く
8回 9月になって東京へ出る日を決める~「そりゃ僅の間の事だろうから、何うにか都合してやろう。其代り永くは不可いよ。相当の地位を得次第独立しなくちゃ」

 私が帰ったのは④七月の五六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうと云いだしたのは、それから一週間後であった。そうして愈と極めた日はそれから又一週間の余も先になっていた。(『両親と私』5回)

 3回冒頭で、私のために客をするという話(①)は、帰省の日の1週間後であったという。
 私の帰省日は、④東京を発ったのが7月5日(金)、実家に着いたのが7月6日(土)である。1週間後の7月13日(土)に祝いをする話が正式に持ち出され、その宴の日は、それからさらに「1週間の余も先」の7月21日(日)と決まった。ところが7月20日天皇の病気が発表される(②)。21日からは平癒祈願の人々が皇居前に集まり始める。村人を呼んで卒業祝いをやる雰囲気ではなくなった。

 ところが③にある明治45年の帝国大学卒業式は、7月11日(木)であるという。したがって④の帰省日「七月の五六日」は漱石の勘違いである、と岩波の全集の注解にもそう書いてある。しかしこのあと天皇崩御(公式発表では7月30日未明)の書かれる第5回まで、小説は進んでしまっており、卒業式の行幸を活かそうとすると何箇所もの修正が必要になる。むろん漱石はそんなことはしない。御病気と崩御の日にちはさすがに(歴史的事実として)動かせないが、帝大の卒業式が如何ほどのものであろうか。たかが(漱石にとっては)私的な一行事に過ぎない。卒業式をやりたければ勝手にやるがいい、とまでは言わないにせよ、要は同じことである。小説の中に書かれた卒業式は、あくまでフィクションの世界のそれであり、何年何月に挙行されようがちっとも苦しくない。『三四郎』で大学の運動会や文芸協会の演芸会を、何日かずらした前科のある漱石にしてみれば、区々たる事実より創作世界の真実の方が大切であるということだろう。卒業証書を粗雑に取り扱うことも(現実の世界で博士号を辞退したことも)、意味合いは異なるが、その根っ子には共通したものが流れている。

 ・・・私の宅の古い門の屋根は藁で葺いてあった。雨や風に打たれたり又吹かれたりした其藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々の凸凹さえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺めた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつて先生から「⑤あなたの宅の構は何んな体裁ですか。私の郷里の方とは大分趣が違っていますかね」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れた此古い家を、先生に見せたくもあった。又先生に見せるのが恥ずかしくもあった。(同5回)

 私の家の藁葺きの屋根は、屋敷の門に限ったものであろうか。それとも邸全体が藁葺きだと言っているのか。先生の⑤の質問は、藁葺き屋根を念頭に置いてのものとも考えられるが、先生にそんな風流な趣味があるとも思えない。純粋に建築学上の興味であったろうか。先生の新潟の田舎もまた藁葺きであったことは容易に想像できるが。

「先生に手紙を書きましたよ。あなたの仰しゃった通り。一寸読んで御覧なさい」
 母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
「そうかい、夫じゃ早く御出し。そんな事は他が気を付けないでも、自分で早く遣るものだよ」
 母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
「然し手紙じゃ用は足りませんよ。何うせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
「そりゃ左右かも知れないけれども、又ひょっとして、何んな好い口がないとも限らないんだから、早く頼んで置くに越した事はないよ」
「ええ。兎に角返事は来るに極ってますから、そうしたら又御話ししましょう」(同7回)

 8月中旬になって、私は先生に2回目の手紙を書くが、1週間たっても返事は来ない。本当に避暑に出ているのか。
 9月始め、私は東京へ立つことにした。

 私の哀愁は此夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変る如くに、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻のうちに、そろそろ動いているように思われた。私は淋しそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶い浮べた。先生と父とは、丸で反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、一所に私の頭に上り易かった。
 私は殆ど父の凡ても知り尽していた。もし父を離れるとすれば、情合の上に親子の心残りがある丈であった。先生の多くはまだ私に解っていなかった。話すと約束された其人の過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私は是非とも其所を通り越して、明るい所迄行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であった。私は母に日を見て貰って、東京へ立つ日取りを極めた。(同8回)