明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 25

238.『先生と私』1日1回(11)――にやにや笑いの怪


第8章 卒業祝い・お別れ (明治45年7月2日火曜~7月5日金曜)(再掲)

32回 卒業式~その晩は先生の家で御馳走になる~「先生は癇性ですね」~「御目出とう」
33回 私は卒業後何をしたいかまだ決めていない~どのくらいの財産があれば先生みたいに遊んで暮らせるのか
34回 九月までごきげんよう~先生たちもこの夏は避暑に出かけるかも~「静、御前はおれより先へ死ぬだろうかね」
35回「静、おれが死んだら此家を御前に遣ろう」~「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍仰しゃるの」~「御病人を御大事に」「また九月に」
36回 鞄と土産物を買う~父はもう亡くなるものと覚悟して苦にならない~兄へ手紙を書く~「人間の何うする事も出来ない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた」

「又当分御目にかかれませんから」
「九月には出て入らっしゃるんでしょうね」
 私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。然し暑い盛りの八月を東京迄来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月頃になるでしょう」
「じゃ①随分御機嫌よう。私達も②此夏はことによると何処かへ行くかも知れないのよ。随分暑そうだから。行ったら③又絵端書でも送って上げましょう
「④何ちらの見当です。若し入らっしゃるとすれば
先生は此問答をにやにや笑って聞いていた
「何まだ行くとも行かないとも極めていやしないんです」
 席を立とうとした時に、先生は急に私をつらまえて、「時に御父さんの病気は何うなんです」と聞いた。私は父の健康に就いて殆ど知る所がなかった。何とも云って来ない以上、悪くはないのだろう位に考えていた。(『先生と私』34回/最後の一節以外再掲)

 『心』に戻って、前項で取り残した②~⑥についてであるが、②の先生夫妻の避暑地の情報は貴重である。私はもちろんその場所を知りたがる(④)。鎌倉の可能性があれば何か一言あってよさそうなものだが、先生は⑤の「にやにや笑い」以外に反応は示さない。いやそれは言い過ぎで、先生は⑥のようにちゃんと返事をしている。この律儀さが(目立たないが)真に漱石らしいところであろう。文章の流れからいくと、先生は微笑むだけで答える必要のない場面ではある。「まだ何も決めていない」と答えるのは、むしろ奥さんの方であろうか。しかし漱石は会話を相手の言いっ放しで終わらせない。これは前著(『明暗』に向かって)でも本ブログ「三四郎篇」でも述べた、野々宮と美禰子の空中飛行器事件で、会話の最後のセリフを美禰子でなく野々宮が喋ったはずであるという議論に通じる。(この⑥のセリフを奥さんのであると誤解することが、『三四郎』のおかしな現行本文に繋がることになるが、詳しくは本ブログ「三四郎篇」を参照いただきたい。
漱石「最後の挨拶」三四郎篇 9 - 明石吟平の漱石ブログ

また念の為手許にある『心』の英訳本に当って見ると、該当箇所⑥の文章は he said となっており、やはり先生の発言として読むのが普通であることが分かる。)

 それよりこの⑤の「にやにや笑い」こそ少し注釈が必要であるか。現代ではあまり良い意味に使われないことが多いが、漱石の書くにやにや笑いは、単純に機嫌が好いことを示す言葉のようである。無関心にむっつり押し黙るのではなく、スマイル、微笑みを以って会話の輪に加わろうとしているのであろう。漱石としては珍しく肯定的にこの言葉を使用しているようである。

三四郎 広田先生5、野々宮2、三四郎・与次郎・学生、各1。
『それから』 代助2、誠太郎2、直木1。
『門』 該当なし。
彼岸過迄 該当なし。
『行人』 Hさん2、一郎・お直・お兼さん、各1。
『心』 先生2、私1。

「にやにや(笑う)」と漱石に書かれた人物の一覧とその回数である。してみると、にやにや笑いは漱石の癖だったのか。江戸の粋に「にやにや笑い」があるのだろうか。
 しかしこれだけでは流石に分かりにくい。『心』での実例は以下の通りである。

 夫から中二日置いて丁度三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋で出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分長く此所に居る積ですか」と聞いた。考えのない私は斯ういう問に答える丈の用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「何うだか分りません」と答えた。然しにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極りが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。是が私の口を出た先生という言葉の始りである。(『先生と私』3回)

「じゃ随分御機嫌よう。私達も此夏はことによると何処かへ行くかも知れないのよ。随分暑そうだから。行ったら又絵端書でも送って上げましょう」
「何ちらの見当です。若し入らっしゃるとすれば」
 先生は此問答をにやにや笑って聞いていた。
「何まだ行くとも行かないとも極めていやしないんです」
 席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気は何うなんです」と聞いた。私は父の健康に就いて殆んど知る所がなかった。何とも云って来ない以上、悪くはないのだろう位に考えていた。
「そんなに容易く考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症が出ると、もう駄目なんだから」
 尿毒症という言葉も意味も私には解らなかった。此前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語を丸で聞かなかった。
「本当に大事にして御上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へ廻るようになると、もう夫っきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
 無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた
「何うせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」(『先生と私』34回/一部再々掲)

 念の為三部作の前後も調べてみると、

『道草』 該当なし。
『明暗』 小林5看護婦3、津田2、藤井・お延・酒場の若者・旅館の女中、各1。

 『明暗』における小林の位置付けが、自ずと分かってくるのではないか。(『明暗』のもう一つのテーマ、「病気」ということも。)

坊っちゃん 旅館の下女・赤シャツ・野だ・うらなり、各1。
草枕 旅の宿の女。
『野分』 白井道也・高柳君、各1。
二百十日 該当なし。
虞美人草 小野さん3、甲野欽吾1。
『坑夫』 自分3、長蔵さん・初さん、各1。

 自分は何と答えていいか分らないから、矢張りにやにや笑って立っていた。此の時分は手持無沙汰でさえあればにやにやして済ましたもんだ。そこへ行くと安さんは自分より遥か世馴れている。此の体を見て、
「さっきから来るだろうと思って待っていた。さあ上れ」
 と向こうから始末をつけて呉れた。・・・(『坑夫』90回)

 読者は『坑夫』のこんなところで、漱石の「にやにや笑い」の起源の1つを発見する。子供の照れ笑いの一種である。しかし漱石の中では、これは例外であろう。
 ここで読者は『猫』がどうなっているか、気にせずにはいられない。漱石はある意図のもとに「にやにや」を書いたのか、それともただ気分に任せて書き流しているだけなのか。

『猫』 寒月11苦沙弥7吾輩5御三(下女)3、細君・雪江さん、各2、医者・泥棒・巡査・烏、各1。

 もちろん『猫』が大部であることを考慮に入れても、寒月と苦沙弥の突出は目立つ。断然の歴代1位と2位である。3位タイが、広田先生・小林・吾輩(猫)ということになる。
 寒月は寺田寅彦でなく、(若い)漱石であると前に書いたことがあるが、寺田寅彦にこの癖があったのかも知れない。そして『明暗』の小林は単なる敵役ではなく、『それから』の平岡と比べても、作者の同情が注がれているキャラクタではないか。吾輩(猫)の場合は「にやにや」でなく、「ニャーニャー」であるから少し意味合いが違うかも知れないが、吾輩が特別な猫であるからには、ここでランクインしてもおかしくない。

 その他『文鳥』(鈴木三重吉)や『永日小品』『満韓ところどころ』『硝子戸の中』等の随筆にも、「にやにや」は少なからず出現するが、最後に『草枕』での使用例を掲げて余談の終わりとしたい。画工が旅宿に泊まって、那美さんが出現する前の、周囲の不思議な感覚を描いたくだりである。
 結句漱石の「にやにや」はバリエーションが多すぎて、結論の付けようがないが、ある種の感興の「起爆剤」にはなっているようだ。

 生れてから、こんな経験はただ一度しかない。昔し房州を館山から向こうへ突き抜けて、上総から銚子迄浜伝いに歩行た事がある。其時ある晩、ある所へ宿た。ある所と云うより外に言い様がない。今では土地の名も宿の名も、丸で忘れて仕舞った。第一宿屋へとまったのかが問題である。棟の高い大きな家に女がたった二人居た。余がとめるかと聞いたとき、年を取った方がはいと云って、若い方が此方へと案内をするから、ついて行くと、荒れ果てた、広い間をいくつも通り越して一番奥の、中二階へ案内をした。三段登って廊下から部屋へ這入ろうとすると、板庇の下に傾きかけて居た一叢の修竹が、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を撫でたので、既にひやりとした。椽板は既に朽ちかかって居る。来年は筍が椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと云ったら、若い女が何にも云わずににやにやと笑って、出て行った。(『草枕』全13章の内の第3章)

 この場合は、「にやにや笑って出て行った」ではなく、「にやにや笑って出て行った」と丁寧に書かれるところに、作者の意図的なものを感じる。決して軽い気持ちで書き流しているのでないということだ。
 そして(たいへん寄り道をしてしまったが)、③の絵葉書については、漱石は忘れていなかった。おそらく長篇化した『心』のために、以前書いた箇所を読み返して、避暑地から挨拶をしていたことを思い出したのではないか。そして今夏に行く避暑地が鎌倉であれば、先生が絵葉書に何事か回想風の文言を書き連ねることは想像に難くないのであるが、しかし避暑地からの葉書は着かなかった。
 避暑地が鎌倉でないとすれば、那須塩原伊香保あたりであろうか。これは前述したが私の郷里の(東北地方でないという)重要な決め手にはなる。
 しかしその特定できない私の郷里で、第2篇の物語は語られる。まるで先生の決心の時間を稼ぐかのように。