明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 6

219.『心』最大の謎――禁断の茶の間


 本ブログでは『心』は『先生と私』(全36回)・『両親と私』(全18回)・『先生と遺書』(全56回)の3篇からなるものとし、連載回の表示のみ旧来の菊判の昭和版岩波書店漱石全集』(第6巻)を使用する。本文の引用はいつもの通り平成版岩波書店漱石全集』『定本漱石全集』(第9巻)である。現代仮名遣いに直したのもいつも通り。引用文の省略部分は・・・で示した。
 ルビは漱石の場合植字工・編集者向けであるから必要最低限とした。漱石は原則として読者のための振り仮名は振らない。読者がどう読むか、漢字が読めるか読めないかに漱石は関心がない。漱石は読者に自分の見方を押し付けない。なぜなら読者は千差万別そのバリエーションは無限だからである。漱石は読者に冷淡なのではなく、読者を個人として尊重しているのである。だから読者(や新聞雑誌)からの作品に対する質問には必ず返事を出して応えている。

 『心』の最大の謎とは何か。それはまず先生の入った下宿の間取りが関係している。

 室の広さは八畳でした。床の横に違い棚があって、縁と反対の側には一間の押入が付いていました。窓は一つもなかったのですが、其代り南向きの縁に明るい日がよく差しました。(『先生と遺書』11回)

 私を呼びに来るのは、大抵御嬢さんでした。御嬢さんは縁側を直角に曲って、私の室の前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室の襖の影から姿を見せる事もありました。・・・
 御嬢さんの部屋は茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、又御嬢さんの部屋にいる事もありました。つまり此二つの部屋は仕切があっても、ないと同じ事で、親子二人が往ったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。・・・(同13回)

 私の座敷には控えの間というような四畳が付属していました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには、是非此四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見ると、至極不便な室でした。私は此所へKを入れたのです。・・・(同23回)

 ここまでの記述で先生・Kの部屋(八畳と四畳)と茶の間・お嬢さんの部屋(たぶん六畳と六畳)は、互いに直角に向き合った廊下(中庭)に面している、その角の付け根部分(分岐点)は玄関の間であるということが分かる。
 先生の部屋はこの家で一番好い部屋で、窓はないが南側が廊下と中庭に解放されている。東側に広い床の間と違い棚が付き、北側には一間の押入れもある。四畳間には何もないが北側に押入れだけはある。(『先生と遺書』38回、Kが床を延べる記述から。)
 そして中庭に面した縁側には雨戸が付いている。(同50回、Kの事故があったとき先生は奥さんに雨戸を開けるよう命じられている。)ちなみにこの雨戸を閉めると、少なくとも先生の部屋もKの部屋も、真っ暗になる。もしかしたら茶の間も御嬢さんの部屋もそうなるのではないか。細くした洋燈が必要なわけである。

 ある日私は神田に用があって、帰りが何時もよりずっと後れました。私は急ぎ足に門前迄来て、格子をがらりと開けました。それと同時に、私は御嬢さんの声を聞いたのです。声は慥かにKの室から出たと思いました。玄関から真直に行けば、茶の間、御嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という間取りなのですから、何処で誰の声がした位は、久しく厄介になっている私には能く分るのです。私はすぐ格子を締めました。すると御嬢さんの声もすぐ已みました。私が靴を脱いでいるうち、・・・Kの部屋では誰の声もしませんでした。(同26回)

 この文章の「それを左へ折れると」というのは、茶の間・お嬢さんの部屋という2間続きの部屋の、その先あるいはその辺りを左に折れるという意味ではなくて、ここでは漱石は玄関に立って、家の4つある部屋のどこから声がしたか容易に判別できると宣言しているのであるから、「それを左へ折れると」の「それを」とは、今漱石が立っている玄関を指すことになる。
 これまで何度も言ってきたように、漱石の指示語は直前の語を指さないことが多い。漱石の文章は構えが大きいのである。

 玄関は家の真ん中、扇の要の部分にある。北を背にして南に向かって、玄関の間のすぐ正面の先が茶の間、それに続くのがお嬢さんの部屋。玄関の間のすぐ左(東)がKの部屋、続いて先生の座敷。この家主側と下宿人側が玄関の反対側にある縁側の廊下で直角に向き合っているわけである。ただし玄関から廊下へは直接行けない。玄関の間からは茶の間を通るかあるいは(Kのいる)四畳間を通るかしないと、中庭に面した縁側(廊下)には行けない

 そうしてついに第一の悲劇が起きる。

 我々は七時前に起きる習慣でした。学校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合わないのです。下女は其関係で六時頃に起きる訳になっていました。然し其日私が下女を起しに行ったのはまだ六時前でした。すると奥さんが今日は日曜だと云って注意して呉れました。奥さんは私の足音で眼を覚したのです。私は奥さんに眼が覚めているなら、一寸私の室迄来て呉れと頼みました。奥さんは寝巻の上へ不断着の羽織を引掛けて、私の後に跟いて来ました。私は室へ這入るや否や、今迄開いていた仕切の襖をすぐ立て切りました。そうして奥さんに飛んだ事が出来たと小声で告げました。奥さんは何だと聞きました。私は顋で隣の室を指すようにして、「驚いちゃ不可ません」といいました。奥さんは蒼い顔をしました。「奥さん、Kは自殺しました」と私がまた云いました。(同49回)

 玄関を左(東)へ折れるとKの部屋・先生の部屋であるが、右(西)へ折れると台所・下女部屋・勝手口・便所なのであった。思うに奧さんは茶の間に寝ているのであろう。先生はおそらく下女部屋の前から引き返して玄関の間のあたりにいて、起きて来た奥さんを自分の部屋へ導くのだが、当然いきなりKの四畳に入るわけにいかない。いったん茶の間へ入ってから、縁側伝いにKの部屋の前を通って自分の部屋へ一緒に行ったわけだが、このとき茶の間では奥さんの(たった今まで寝ていた)寝床がそのままになっていたはずであり、奥さんがそれに頓着する様子がないのは不思議である。先生は動顛していて、日曜日であることも忘れてしまっているくらいだから、それどころでないだろうが、寝巻を着たままの奥さんは、何が起こったかまだ知らないのであるから、先生を(通り道としてのみ使うとしても)部屋に入れるというのは、ありえないことのように思われる。
 そして南の縁側に面したKの部屋の障子は、腰の部分が硝子だとしても、それは摺りガラスであったのだろうか。『門』では茶の間で縫物をする御米から、硝子障子越しに縁側で寝そべる宗助の姿が見える。『心』の場合でも、明るい中庭を挟んで直角に向き合ったすべての居室は、硝子障子になっていたと考えるのがふつうであるが(部屋の反対側は隣家との関係で塞がっているらしいから)、そうすると部屋ごとのプライバシーが心配なので、下宿人を置くときに紙を貼ったりしたのか。あるいは始めから板と障子紙だけの戸であったとでもいうのか。裕福でないといっても山の手の中流家屋の造作としては考えにくいことである。いずれにせよランプを手にした先生と奥さんが歩いた廊下から、Kの部屋の一部が隙見できてしまうのではないかと、読者としては心配したくなる。いくら雨戸が閉ててあったとしても。

 奥さんの寝ていた茶の間に、屏風や衝立があったとも思えない。正月に奥さんと御嬢さんが市ヶ谷の親戚だかに出かけたことがあったが、夕餉の支度のため急ぎ帰宅したとき、晴着は御嬢さんの部屋に脱ぎ棄てられたままになっていた(38回)。「女の年始は大抵十五日過だのに、何故そんなに早く出掛けたのだろう」(35回)とKも先生も太平楽を並べるくせに、衣桁だの衝立だのの存在には目が行かないようである。
 たとえ目隠し等があったにせよ、今の今まで奥さんが寝ていた座敷へ、家族以外の人間を入れるという発想は、ふつうはないのではないか。先生にしても、下女もまだ起き出さない日曜の早朝に、奥さんの寝ていた部屋に片足でも踏み込もうとするだろうか。御嬢さんが廊下側の障子を少しでも開けたら、先生と奥さんがつながって茶の間を出て行くところが丸見えである。

 なぜこんなことになったのか。漱石は倫理的に問題になるような書き誤りや勘違いはしない筈である。漱石は間違ったのだろうか。