明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 18

231.『先生と私』1日1回(4)――「仲の好い夫婦」


第3章 先生と奥さん (再掲)

8回 先生の奥さんは美しい人~ある日の食卓にお酒が~「子供でもあると好いんですがね」「一人貰って遣ろうか」「貰っ子じゃ、ねえあなた」
9回 先生と奥さんは仲の好い一対~奥さんの名は静といった~でも諍いの声を聞いて玄関から引き返したことも~「妻が考えているような人間なら、私だって斯んなに苦しんでいやしない」
10回「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない」「妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思って呉れています」「私達は最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈です」~ある日私はたまたま奥さんと二人切りで過ごすことがあった

 もう一度9回の冒頭部分を引用してみよう。

 私の知る限り先生と奥さんとは、仲の好い夫婦の一対であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解らなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かの序に、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静といった)。先生は「おい静」と何時でも襖の方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚だ素直であった。ときたま御馳走になって、奥さんが席へ現われる場合抔には、此関係が一層明らかに二人の間に描き出される様であった。
 先生は時々奥さんを伴れて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二三度以上あった。私は箱根から貰った絵端書をまだ持っている。日光へ行った時は紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。(『先生と私』9回冒頭、一部再掲)

 先に(自分たちの)子供が欲しいと言う奥さんに、先生は「一人貰って遣ろうか」と見当違いの返事をしていた。また少しは酒を飲んで陽気になれという奥さんの提案に、「そうはいかない」と先生は拒否していた。これは「仲の好い夫婦の一対」という私の見解の当否を疑わせるに充分である。
 先生もまた女の言うことは聞かない人である。漱石が鏡子を愛していたように、先生も奥さんを愛していたかも知れないが、それと「夫婦仲が好い」と書くこととは別である。『道草』で漱石は、健三と御住が「夫婦仲が好い」とは決して書かない。
 私は嘘を書いてしまったのか。小説ではこの宣告に引き続き、

Ⅰ 奥さんの名は「静」である。
Ⅱ 旅先から2度、便りを貰ったことがある。

 イレギュラーなことが2つ書かれる。奥さんの名が明かされたことは、『心』では例外に属する現象であるというのが通説であろう。慥かに『心』の主要人物で、先生の奥さんだけ「静」という名前が付けられている。

『先生と私』名前なし=私・先生・私の父・私の母。名前あり=静(奥さん)
『両親と私』名前なし=私・私の父・私の兄。名前あり=関(妹婿)・作さん(父の幼馴染)・御光(私の母)。
『先生と遺書』名前なし=先生・K・奥さん・御嬢さん。名前あり=該当者ナシ。

 『心』の3つの世界で、2つの世界を生きる人物は、私・先生・先生の奥さん(御嬢さん)・私の父・私の母の5人である。(3つの世界を生きる人物はいない。)そのうち男3人に名前が無く、女2人に名前がある。
 女だから名前を付けたのか。では関と作さんはどう説明するのか。その反対に、『先生と遺書』の奥さん(未亡人・御嬢さんの母親)に名前が無いのは、奥さんを男と見ているのか。
 どうでもいい人物に名前を付けているのだろうか。私・先生・先生の奥さんの3人で構成される『先生と私』の中で、先生の奥さんはどうでもいい人物ではありえない。

 これはやはり、このときはまだ、『心』を短篇のつもりで書いていたことによるものであろう。先生が遺書を書くという短篇小説にあって、先生の奥さんは処女として(年代を遡って)描き直されることが確実であるから、名前はいずれ必要になる。(1つの短篇で奥さん・御嬢さんと呼び分けるわけにはいかない。)
 漱石はそう思って奥さんにだけは名前を付けた。しかし長篇として「遺書」を独立させることになって、名前は必要ないことが分かった。(『先生と私』の末尾部分で、「静、お前は」「静、おれが」と呼び掛けるシーンをわざわざ作ったのは、名前を付けてしまったことの辻褄を合わせるためもあったろう。)

 Ⅱは後段(22回)でいったん棄却されている。先生から旅費を借りて帰省したとき、取り敢えず礼状を出したが、意外にも返事が来た。そのとき私はこの手紙と、最後に遺書として受け取った手紙と、生涯に2度しか手紙を貰っていないと言い切っている。しかしやはり『先生と私』の終盤(34回)で絵葉書のことは思い出されているから、全く忘れたわけでもないようだ。
 どうしてもちぐはぐな感じは否めないが、それもこれも、「仲の好い夫婦の一対」と書いてしまったことが原因したのではないか。漱石はとんでもないことを書いてしまったのだろうか。『門』の宗助御米がこのために迷惑を蒙るとは思えないが、漱石の動揺はこれで終らないようである。

Ⅲ 訪問時玄関で先生と奥さんの諍いの声が聞えて、驚いて踵を返したことがあった。
Ⅳ そのあと先生は私の下宿の窓の下に来て私の名を呼んだ。
Ⅴ その晩一緒に麦酒を飲んだが先生は酔えなかった。

「約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚ろいて窓を開けた。先生は散歩しようと云って、下から私を誘った。」(同9回)

 先生と私は11歳違い。ちょうど漱石寺田寅彦の年齢差に一致している。
「下宿の窓の下に来て名前を呼ぶ」
 というのは明治大正の文学ファンにとっては懐かしい景色である。(昭和でも懐かしいが。)
 先生は漱石に似てなかなかの交際家ではないか。小説では変人扱いされているが、このくだりではフレンドリィな人柄を思わせる。
 それは先生にとっては良いことであろうが、小説の建付けとしては少々変である。奥さんの悩みの理由がなくなるからである。
 先生は人が変わった。若い頃はあんなじゃなかった。――では奥さんは先生の今の、何を悩むのだろうか。
 先生は小説を書かない漱石である。学校へ出講しない夏目金之助である。高等遊民として仕上がった人である。始終家にばかりいて可愛がってくれる(『それから』で嫂の梅子の言ったように)。それで生計が立つなら何の不足があろう。

 思うに漱石が宗助御米夫婦や先生と奥さんを「仲が好い」と書くのは、子供がいないから仲が好いと言いたかったのではないだろうか。
 私は正直にも「子供を持った事のない其時の私は、子供をただ蒼蝿いものの様に考えていた」(8回)と言っているが、漱石が独身の頃そう思っていたであろうことは容易に想像できる。では(鏡子と)結婚して子供が生まれたら、その考えを改めたであろうか。漱石に限ってその心配はない。子供の顔を見て従来の考え方を変えるくらいの男なら、小説など書きはしない。

 子供が夫婦仲をスポイルする(かも知れない)というのは、なかなか議論になりにくい題材である。小説のテーマとしても難しい。
 漱石の場合はもっと直截であろう。子供が出来たために妻の関心が夫から離れる。それに対して夫が何も感じなければ、夫は始めから妻を愛していなかったのである。漱石の考える夫は、自分から子供へ愛の対象を移す妻に抵抗を感じる。漱石の理屈では、自分は何も悪いことをしていないのに、突然自分を愛することをやめた妻が悪い、ということになる。第6回で先生のことを、「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人」と書いた、その先生の愛とは、こういうものであったか。
 妻と一緒になって子供を慈しむことにより、妻と幸福感を分かち合えばよいのではないか、と現代の人は考える。
 そういう男もいる。しかしそう思わない男もいるのである。明治の男漱石はその傾向が強いが、これは必ずしも時代によるものでもない。漱石のような人は、子供はさておいて、自分を第一に取扱って欲しいのである。

 その意味で、『明暗』のまだ子供のいない津田とお延の夫婦は、傍からは仲の好い夫婦に見える、と漱石は言っている。事実彼らの周囲はそのように見て、彼等への反感の原因になっている。(明治生れの人にとって、夫婦仲が好いというのは決して名誉なことではなかった。)
 夫婦の在り方というのは漱石が生涯追い求めたテーマである。いつも同じような三角関係ばかり書くというのは、漱石の一種の目くらましで、夫婦の様々なバリエーションを順に書いて来て、『明暗』ではさらに複雑な設定を試みたといえる。そしてそれは幻の最終作品で、始めて女の死という究極の選択肢により、完結を見る筈であった。

 それはまあ余談であるとしても、ここでは先生と奥さんが、「仲の好い夫婦」では決してないことだけは、繰り返し言っておきたい。そしてその飽くなき戦いは、謎と予言という形で続けられる。

子供は何時迄経っても出来っこないよ」「天罰だからさ」(8回)

妻が考えているような人間なら、私だって斯んなに苦しんでいやしない」(9回)

私達は最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈です」(10回)