明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 8

382.『道草』初恋考(1)――漱石の初恋とは何ぞ(十代篇)


 未練がましいようだが、もう1度『硝子戸の中』の芸者咲松のくだりと、『道草』御縫さんを追想する箇所を引用したい。

芸者咲松
 其頃従兄(高田庄吉――漱石の父直克の弟作次郎の子)の家には、私の二番目の兄(直則)がごろごろしていた。此兄は大の放蕩もので、よく宅の懸物や刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪い癖があった。彼が何で従兄の家に転がり込んでいたのか、其時の私には解らなかったけれども、今考えると、或はそうした乱暴を働らいた結果、しばらく家を追い出されていたかも知れないと思う。其兄の外に、まだ庄さん(福田庄兵衛――漱石の母千枝の次姉久の子)という、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。
 斯ういう連中がいつでも一つ所に落ち合っては、寝そべったり、縁側へ腰を掛けたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子の窓から、「今日は」などと声を掛けられたりする。それを又待ち受けてでもいる如くに、連中は「おい一寸御出で、好いものあるから」とか何とか云って、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌に遊びに来る。といった風の調子であった。
 私は其頃まだ十七八だったろう、其上大変な羞恥屋で通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙って隅の方に引込んでばかりいた。それでも私は何かの拍子で、此等の人々と一所に、其芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何か奢らなければならないので、私は人の買った寿司や菓子を大分食った。
 一週間ほど経ってから、私は又此のらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話が大分はずんだ。其時咲松という若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云った。私は小倉の袴を穿いて四角張っていたが、懐中には一銭の小遣さえ無かった。
僕は銭がないから厭だ
好いわ、私が持ってるから
 此女は其時眼を病んででもいたのだろう、斯う云い云い、綺麗な襦袢の袖でしきりに薄赤くなった二重瞼を擦っていた。(『硝子戸の中』17回)(一部再掲)

 この芸者咲松(御作)こそ、漱石の好みのタイプの女性第1号であろうか。晩生の漱石の思春期は「十五六」ではなく「十七八」であった。御縫さんの方が早いのではないかと思われるかも知れないが、漱石が御縫さんの容子の好いのに気付くのは、『道草』の記述によるともう少し後である。何より御作には漱石の同情が注がれている(これを漱石は『文鳥』に託し、『三四郎』では Pity’s akin to love を引いた)。お作が漱石と同じく目を患っていたらしく書かれているのでも、それは拝察される。上記引用文の最後の文章から眼病云々を除外して読んでみると、

「好いわ、私が持ってるから」
 此女は斯う云い云い、綺麗な襦袢の袖で二重瞼を覆うような仕草をした。

 まあこれは意味のない試行だが、ずいぶん雰囲気が変わるのが分かる(だろう)。
 御作はその後さる旦那に引かされて品の好い奥様になったが、気の毒にも23歳のとき外地で亡くなった。御作は漱石の1つか2つ下ではないだろうか。

硝子戸の中』ではもう1人、漱石の一番上の姉御沢(佐和)が「二重瞼」と書かれる。

 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確した輪廓を具えている鼻、人並より大きい二重瞼の眼、それから御沢という優しい名、――私はただ是等を綜合して、其場合に於る姉の姿を想像する丈である。
 少時立った儘考えていた彼女の頭に、此時もしかすると火事じゃないかという懸念が起った。それで彼女は思い切って又切戸を開けて外を覗こうとする途端に、一本の光る抜身が、闇の中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚ろいて身を後へ退いた。・・・(『硝子戸の中』14回)

 漱石のまだ生まれる前、御用盗だかに遭遇したのであるが、『道草』に(比田に嫁いだ御夏として)書かれたもう1人の異母姉高田房とは、えらい違いである。長姉佐和――漱石の生れたとき22歳であり、漱石12歳のとき亡くなってしまった――母を知らずに育った漱石には、幻の母ともいうべき儚い女人であったろうか。

 漱石の小説で二重瞼とはっきり書かれたのは、『虞美人草』の糸子を以て嚆矢とする。『三四郎』美禰子、『それから』三千代と続いて、漱石のヒロインのお約束になるかに見えた。ところが『それから』で平岡まで二重瞼と書いてしまったのが祟ったのか、以後漱石の小説から二重瞼の語は姿を消した。御米も千代子もお直も(『心』の)御嬢さんも、皆二重らしくもあるが明言はされない。『明暗』お延に至っては露骨に「愛嬌のない」一重瞼であると書かれてしまった。(独り『彼岸過迄』森本だけが平岡の裏を返すように、「口髭をだらしなく垂らした二重瞼の瘠ぎすの森本の顔」と書かれたに過ぎない。)
 それを懐かしむかのように、晩年の『道草』の先行作品たる『硝子戸の中』になって、二重瞼は長姉佐和、芸者御作の2人に甦った。
 そして二重瞼という言葉こそ使われないが、『道草』では別な表現でそれは忍ばれる。

御縫さん
 健三は心のうちで昔見た柴野と御縫さんの姿を並べて考えた。柴野は肩の張った色の黒い人であったが、眼鼻立からいうと寧ろ立派な部類に属すべき男に違なかった。御縫さんは又すらりとした恰好の好い女で、顔は面長の色白という出来であった。ことに美くしいのは睫毛の多い切長の其眼のように思われた。彼らの結婚したのは柴野がまだ少尉か中尉の頃であった。健三は一度その新宅の門を潜った記憶を有っていた。其時柴野は隊から帰って来た身体を大きくして、長火鉢の猫板の上にある洋盃から冷酒をぐいぐい飲んだ。御縫さんは白い肌をあらわに、鏡台の前で鬢を撫でつけていた。彼はまた自分の分として取り配けられた握り鮨をしきりに皿の中から撮んで食べた。……
「御縫さんて人はよっぽど容色が好いんですか」
「何故」
「だって貴夫の御嫁にするって話があったんだそうじゃありませんか」
 成程そんな話もない事はなかった。健三がまだ十五六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人一寸島田の家へ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、一寸微笑しながら出合頭の健三に会釈した。それを目撃した彼の友達は独乙語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に倚って待つ」といって彼をひやかした。しかし御縫さんは年歯からいうと彼より一つ上であった。其上その頃の健三は、女に対する美醜の鑑別もなければ好悪も有たなかった。夫から羞恥に似たような一種妙な情緒があって、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、護謨球のように、却って女から弾き飛ばした。彼と御縫さんとの結婚は、他に面倒のあるなしを差措いて、到底物にならないものとして放棄されてしまった。(『道草』22回)(一部再掲)

 御縫さんもまた咲松と同時期のチャンピオンであろう。性格は別として、漱石の理想の女性像が辞書を見るように(あるいは写真を見るように)パーフェクトに描かれている。
 年代的にはこの御縫さんと咲松の話が最も早い。十代ではこれだけだろうか。
 疑わしいものに、ファンがこぞって取り上げる『文鳥』4連発がある。

文鳥の女
 昔し美しい女を知って居た。此の女が机に凭れて何か考えている所を、後から、そっと行って、紫の帯上げの房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で廻したら、女はものう気に後を向いた。其の時女の眉は心持八の字に寄って居た。夫で眼尻と口元には笑が萌して居た。同時に恰好の好い頸を肩迄すくめて居た。文鳥が自分を見た時、自分は不図此の女の事を思い出した。此の女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談の極った二三日後である。(『文鳥』5回)

 夜は箱へ入れた。明る朝目が覚めると、外は白い霜だ。文鳥も眼が覚めているだろうが、中々起きる気にならない。枕元にある新聞を手に取るさえ難儀だ。それでも煙草は一本ふかした。此の一本をふかして仕舞ったら、起きて籠から出して遣ろうと思いながら、口から出る煙の行方を見詰めて居た。すると此の煙の中に、首をすくめた、眼を細くした、しかも心持眉を寄せた昔の女の顔が一寸見えた。自分は床の上に起き直った。寝巻の上へ羽織を引掛けて、すぐ縁側へ出た。そうして箱の葢をはずして、文鳥を出した。文鳥は箱から出ながら千代々々と二声鳴いた。(『文鳥』5回)

 次の朝は又怠けた。昔の女の顔もつい思い出さなかった。顔を洗って、食事を済まして、始めて、気が附いた様に縁側へ出て見ると、いつの間にか籠が箱の上に乗っている。文鳥はもう留り木の上を面白そうにあちら、こちらと飛び移っている。そうして時々は首を伸して籠の外を下の方から覗いている。其様子が中々無邪気である。昔紫の帯上でいたずらをした女は襟の長い、背のすらりとした、一寸首を曲げて人を見る癖があった。(『文鳥』6回)

 自分は急に易籠を取って来た。そうして文鳥を此の方へ移した。それから如露を持って風呂場へ行って、水道の水を汲んで、籠の上からさあさあとかけてやった。如露の水が尽きる頃には白い羽根から落ちる水が珠になって転がった。文鳥は絶えず眼をぱちぱちさせていた。
 昔紫の帯上でいたずらをした女が、座敷で仕事をしていた時、裏二階から懐中鏡で女の顔へ春の光線を反射させて楽しんだ事がある。女は薄紅くなった頬を上げて、繊い手を額の前に翳しながら、不思議そうに瞬をした。此の女と此の文鳥とは恐らく同じ心持だろう。(『文鳥』7回)

文鳥』を読んだ限りでは、自宅かそれに近い家で、親戚かそれに近い女という感じである。
 若い漱石は2階にいる。これを十代の頃のこととすれば、『文鳥』の女は、「御縫さん」か「芸者咲松」か。塩原の家が2階建てであったことは確証はないものの想像に難くない。塩原は他にも(利回りを求めて)貸家を建てたりしている。一方東屋(神楽坂の芸者置屋)の向かいの従兄高田庄吉の家には2階建てではないようだ。2階があったのは寺内に引っ越す前の家であると、はっきり書かれる。

「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚した調子で「へッ」と声を揚げた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。何時頃御亡くなりになりました」
「なに、つい此間さ。今日で二週間になるか、ならない位のものだろう」
 彼はそれから此死んだ従兄に就いて、色々覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。
「あのそら求友亭の横町にいらしってね、……」と亭主は又言葉を継ぎ足した。
「うん、あの二階のある家(うち)だろう
ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、方々様から御祝い物なんかあって、大変御盛でしたがね。それから後でしたっけか、行願寺の寺内へ御引越なすったのは」(『硝子戸の中』16回)(一部再掲)

 漱石はこの2階を印象深く記憶しているように読める。東屋の咲松の話は漱石17、8歳の頃であるから、その引っ越す前の「求友亭の横町」時代は、もしかしたら16、7歳の頃かも知れない。
文鳥』の女が「空白の1年間」の時代の話であれば、これはまったく読者としてはお手上げである。取り付く島もない話である。しかし読者は「2階」というキーワードから探索を続ける。

 橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りて一所に自炊をしていた事がある。其時は間代を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚いて、夫で月々二円で済んだ。尤も牛肉は大きな鍋へ汁を一杯拵えて、其中に浮かして食った。十銭の牛を七人で食うのだから、斯うしなければ食い様がなかったのである。飯は釜から杓って食った。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難義であった。余は此処で橋本と一所に予備門へ這入る準備をした。橋本は余よりも英語や数字に於て先輩であった。入学試験のとき代数が六ずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、其御蔭でやっと入学した。所が教えた方の橋本は見事に落第した。入学をした余もすぐ盲腸炎に罹った。是は毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉を、規則の如く毎晩食ったからである。汁粉屋は門前迄来た合図に、屹度団扇をばたばたと鳴らした。其ばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。従って、余は此汁粉屋の爺の為に盲腸炎にされたと同然である。(『満韓ところどころ』13回)

 二人は二畳敷の二階に机を並べていた。其の畳の色の赤黒く光った様子が有々と、二十余年後の今日迄も、眼の底に残って居る。部屋は北向で、高さ二尺に足らぬ小窓を前に、二人が肩と肩を喰っ付ける程窮屈な姿勢で下調をした。部屋の内が薄暗くなると、寒いのを思い切って、窓障子を明け放ったものである。其の時窓の真下の家の、竹格子の奥に若い娘がぼんやり立っている事があった。静かな夕暮抔は其の娘の顔も姿も際立って美しく見えた。折々はああ美しいなと思って、しばらく見下していた事もあった。けれども中村には何にも言わなかった。中村も何にも言わなかった
 女の顔は今は全く忘れて仕舞った。ただ大工か何かの娘らしかったという感じ丈が残っている。無論長屋住居の貧しい暮しをしていたものの子である。我等二人の寝起する所も、屋根に一枚の瓦さえ見る事の出来ない古長屋の一部であった。下には学僕と幹事を混ぜて十人許り寄宿していた。そうして吹き曝しの食堂で、下駄を穿いた儘、飯を食った。食料は一箇月に二円であったが、其代り甚だ不味いものであった。それでも、隔日に牛肉の汁を一度宛食わした。勿論肉の膏が少し浮いて、肉の香が箸に絡まって来る位な所であった。・・・(『永日小品/変化』冒頭)

 極楽水の自炊仲間はたくさんいて、『猫』の鈴木藤十郎もその1人だが、苦沙弥に女っ気がないように、明治17年の極楽水には女っ気はないようだ。
 日根野れんの結婚の前後、意を決したように自活を始めた明治19年の中村是公との江東義塾も、大工の娘なら「人違い」であろうか。ただ漱石も是公も「何も言わなかった」というのは、(子規ではないが)互いに何らかの「無線電信」が通い合っていたことにはなろう。
 それより小石川の極楽水も両国の私塾も、飯に隔日に牛肉の薄い汁というのは単なる偶然だろうか。漱石早稲田南町の頃にはいつも牛鍋の夕食だったというが、まさか下宿時代の仇を討っているわけではあるまい。毎日汁粉を食ったから盲腸炎になったという話も俄かに信じ難い。食べ物がからむと漱石は非科学的なただの江戸庶民になってしまう。偏食に対する自戒でもないようだ。

 いずれにせよこれらの中に初恋がなければ、漱石の初恋など始めからないことになる。漱石の「十代」はもう終わっているのである。