明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 18

392.『道草』先行作品(7)――『思い出す事など』


 漱石旅行記に向かない作家である、と前の項(本ブログ道草篇16)で述べたが、(12月1月問題という)季節の連想でいえば、これは漱石の文学的出発点が俳句にあることと関係していよう。俳句は説明を嫌う。俳句は(本ブログ道草篇6でも引用した寺田寅彦へのレクチュアによると)扇の要(集注点)を書くものである。百何十度だかに開いた扇の扇たる部分は、読者に想像させる。想像させないまでも、その広がった部分はわざと書かない(詠まない)。
 それが漱石(に限らないが)の小説のリズムを生む。吾輩に名前が付かない理由を書かない。坊っちゃんの無鉄砲が父親譲りなのか母親譲りなのかを書かない。志賀直哉は俳句をやらないが、そのリズムは多とした。太宰治は弱年時俳句に凝っていたように、その文章の勢いは漱石を思わせるものがある。太宰治が嫌ったのは漱石の江戸庶民らしいプチブル(俗物)性であろう。猫に名前があろうがなかろうが、自分が両親のどちらに似ていようが、一文の得にもならない。得にならないからいい加減に書く。太宰治はいい加減に書いてはいけないと生真面目に思うクチである。志賀直哉はまたその反撥心を(太宰の稚さゆえの)甘えと受け取った。三者三様。だが目指す処は一致している。3人(に限らないが)とも「正確な文章」のために生涯を賭している。

 ところで志賀直哉の手紙は(小説と比べて)読んで面白いものではないが、漱石太宰治の手紙は(小説同様)大変面白い。
 思うに漱石は『満韓ところどころ』を、『心』の先生の手紙(遺書)とまでは言わないにせよ、『彼岸過迄/松本の話』の市蔵の手紙や『行人/塵労』のHさんの手紙のように書けばよかったのではないか。
 太宰治の「手記」は『人間失格』にせよ『津軽』にせよ、独自の光彩を放っているが、漱石も手紙を書くつもりで書いた『先生の遺書』が、事実として頂点を究めているのである。
 とは言うものの、『満韓ところどころ』は小説ではないので、いくらボヤいても始まらないのであるが、結局これは、漱石には「神」がいなかったという話に収斂するのであろう。訴える相手がいない以上、架空の手紙を(太宰治みたいに)書き続けるわけには行かない。

 漱石もまた自分の神は自分自身とする1人である。すべての作家が自分自身を神としていると言ってしまえばミもフタもないが、漱石が後年則天去私などと言い出したのも、それが大前提になっているのであろう。
 自身が神であるような人とは如何なる人物であるか。それは譬えて謂えば、危機に瀕して何物にも縋らないということである。神がいないのだから神様にお願いしない。死に臨んでも割と平気である(ように見える)。
 現実に修善寺で仮死状態に陥ったときのことを書いた次回作『思い出す事など』にも、頼るものは畢竟痩せさらばえた自分しかないという気分が充満しているようである。

・第3集『思い出す事など』 明治43年10月~明治44年2月

 全32回もしくは33回。『思い出す事など』本体の32回は約4ヶ月かかって書かれた。4日に1回というペースであるが、ベッド(畳に簀の子)に寝たままの状態で書いていたのだから、むしろこの困難に立ち向かった文豪の律儀さに驚かざるを得ない。
 第33回(「病院の春」)のみ独立して明治44年4月に書かれており、漱石の中では別物だったのかも知れないが、『思い出す事など』の最終章として扱われることが多いようである。この場合本作の執筆期間は延べて6ヶ月ということになり、これは『明暗』(大正5年5月~11月の6ヶ月間)と同じ長さになる。『思い出す事など』は死の淵から生還した話であるが、『明暗』の方は行って戻らぬ旅となった。

 余談になるが、『思い出す事など』第1回は、東京朝日・大阪朝日とも明治43年10月29日付朝刊に掲載された。ところが同じ日の日記に、

〇中根栄という名古屋の人「思い出す事など」を読んで長い手紙をくれる。

 という不思議な記述がある。(『漱石全集第20巻日記断片下』明治43年日記7D――10月29日より引用)
 漱石は明治43年8月から11月まで、前半は修善寺日記、後半は胃腸病院日記とでもいうべき、漱石にしては割と細かい日録を残しているが、上に引用した記述は後から書き足したふうにも見えず、謎としか言いようがない。

①10月29日読者は朝刊を読んですぐ手紙を書いた。10月30日手紙を受け取った漱石はそのとき29日の日録を書いていたので、それをそのまま書き加えた。
②手紙の主は朝日の関係者で、東京か大阪に出張した際にあらかじめ漱石の原稿かゲラを読み、色々思うことを手紙に書いて新聞掲載に合うように投函した。(初回の原稿は1週間前に森田草平宛郵送されている。)
③(読者の手紙の)対象となった作品名を、漱石が書き間違えた。例えば前作の「満韓ところどころ」であったのを、今取り掛かっている「思い出す事など」と書いてしまった。

 普通に考えると①が無難に見えるが、とくに衝撃的なことが書かれているわけでもない連作エセイの第1回目を読んだだけで、瞬時に「長い手紙」が書けるものだろうか。漱石の体調を心配して、あらかじめ書き溜めてあったファンレターのようなものだったのかも知れないが、それなら漱石が日記に単なるファンの名前をわざわざ書き込むのも合点がいかない。漱石は「思い出す事など」を読んで、とはっきり書いている。胃腸病院宛に出されているらしいことも変則的であるし、漱石が返事を出した形跡がないことも併せて、よく分からない話ではある。まさか中根家(鏡子)の係累ではあるまい。
 ②を想像することも難しいが、いっそ③であれば、おかしなところは何もないことになる。最近出た単行本『四篇』(前年までの『文鳥』『夢十夜』『永日小品』『満韓ところどころ』を収録)を読んで、最後の『満韓ところどころ』には続きがあると思っていたが、そうでもないらしい、いったいどうしたわけか云々というような読者の手紙が、たまたまその日自宅から届けられた。それを一読した漱石は気にはなるものの、どうしようもない。何より臥せったままで起き上がることも出来ないのだから、弁明するどころか1年前の満洲旅行を思い出すことすら退儀である。俳句と漢詩で脳漿を鎮めながら、修善寺臨死体験をなぞる予定の『思い出す事など』で精一杯である。その思いからつい「思い出す事など」と書いてしまったのではないか。

 それは何とも結論のつく話ではないが、『永日小品』からの2年間で、早くも3冊目の随想集である。
 漱石は所謂修善寺の大患をはさんだ明治42年と43年、『永日小品』『満韓ところどころ』『思い出す事など』の3冊の随筆を集中的に書いた。あとは漱石の残りのキャリア6年間の中で、『道草』の前に『硝子戸の中』が書かれたのみである。
 この随筆years には何か理由があるのか。
 明治42年~43年といえば、『それから』と『門』が書かれた頃である。小説家としての漱石の地位は揺るぎないものとなり、朝日の文芸欄も創設された。家庭的には次男伸六が生れたあと、塩原との絶縁を経て五女雛子の誕生まで、このとき鏡子も既に明けて36歳、夏目家9人の家族構成はいったん完成を見たと言ってよい。世の中も伊藤博文暗殺、大逆事件から日韓併合に至る、漱石にとっては面白くも何ともない「明治日本の集大成」の時代であった。

 それにしてもこの時期、青春3部作に前後して3つの随想集。これに比して『彼岸過迄』以降の中期3部作では随筆のようなものは1つも書かれない。どちらが漱石の常態か。どちらかがイレギュラーなのだろうか。それともまた、これも天才らしい気紛れ、「則天去私」なのであろうか。
 前記のように『道草』には『硝子戸の中』、(未完の)『明暗』には(未完の)『点頭録』が付着していることを思えば、やはり中期3部作の「随筆なし」の方が変則なのであろう。体調の問題(『行人』の中断事件・『心』のあとのダウン)もあるが、「短篇形式」という中期3部作共通の制作方法が影響しているのかも知れない。あるいは漱石に似合わないことだが、(『心』の)『先生の遺書』に全精力を注ぎ込もうとしていたのか。

 いずれにせよ青春3部作最後の『門』と、次の3部作緒篇の『彼岸過迄』をつなぐもの、そして漱石の作家人生を二分(分断)する修善寺の大患を回想して書かれたものが、外形的には『思い出す事など』という作品であることは動かしようがない。そして前述したように唯一年末年始を跨いで執筆された随筆であるからには、単に死に損なった話にとどまらない何かが、きっと見つかると思いたい。

1回「釣台での帰京」 舟形の寝台のまま3ヶ月ぶりに胃腸病院に帰って来た~新しい畳~是公とステト2通の電報
2回「長与院長」 長与院長は亡くなっていた~森成医師に修善寺行を命じて逝ってしまった
3回「多元的宇宙」 ウィリアムジェイムズも亡くなっていた~病床で読み終えた「多元的宇宙」
4回「忘れるために書く」 原稿を書くのは忘れるため~池辺三山の叱声~退屈しのぎの執筆~退屈すると胃に酸が湧く
5回「病中佳句有」  病気をして世間を退くと心は俳句や漢詩に向かう~漢詩の心は久しい前から大和化して不足がない
6回「明代の列仙伝」 渋川玄耳の送ってくれた「酔古堂剣掃」を読む~若いころ図書館に通って徂徠の「蔀園十筆」を書写したことがある
7回上「ウォードの大冊」 ウォード「力学的社会学」を読む~頁数がダイナミックなのであった
7回下「宇宙はガス星雲」 渦巻の塵から成るこの宇宙に比べれば人の生はほんの偶然にすぎない~大塚楠緒子さんの死
8回「8月24日へ向かって」 毎日いろんなものを吐く~医者は黒いものは血であると言う
9回「咽喉が痛い」 京都への行き方を尋かれた英国人に対し答えたくても声が出ない~修善寺には北白川宮が滞在していた
10回「出水」 大水が出て新聞も郵便も来なくなった~ほとんど雑音しか聞こえない長距離電話
11回「都の洪水被害」 外出中大水に流された鏡子の妹の話~潰れた森田草平の家の話
12回「隣座敷の裸連」 汽車が開通して隣座敷のうるさい連中が引き揚げた~東京から鏡子や森成医師たちが来て2階は貸切り状態に
13回「大吐血」 杉本医師が到着して運命の8月24日~2度目の吐血で仮死状態になる
14回「彼岸」 3度目の吐血~大量の食塩注射~「私は子供になど会いたくはありません」
15回「生還」 死は我が経験の外にあった~生と死の狭間はアキレスと亀の譬えに似ている
16回「安らぎ」 夜が明けると苦しみは去った~杉本医師は東京へ戻り看護婦を2名派遣した
17回「死後の生」 意識は死後も生き残るだろうか~仮死の経験は我が意識に何の影響も与えなかった~私は幽霊にもなれず至福の境地にも達しなかった
18回「脈を打つ氷嚢袋」 手を顔のところへ持ってくることさえ出来ない~骨と関節が硬く軋む
19回「感謝の心とは」 日常生活の裏面に潜む心臓の鼓動と汗の玉~安寧をめざすべき自分の敵とは――社会も朋友も妻子も、あるときは自分自身さえ――
20回「癲癇」 ドストエフスキィと神聖なる疾~恍惚に似た精神状態は単に貧血が引き起こしたものか
21回「生の歓び」 ドストエフスキィの処刑事件~病床で寝ながらドストエフスキィのことを考える
22回「犬の眠り」 黒い覆いのかかった電球~身体を少し動かすと看護婦が反応する~いつまでも続く浅い眠りと動かない身体
23回「ありがたい」 社会に対峙する自分は常にぎこちない~その中に生じる感謝の念だけが安定している~その気持ちを大事にしたい
24回「自然を愛す」 子供の頃に見た蔵の南画~自然の中に棲むのはいいが暮らすには不便である~小宮豊隆を罵った話
25回「子供を見てやれ」 12歳10歳8歳子供が3人見舞いに来た~3人は畏まって座っている~1週間後見舞状を書いて寄越した
26回「あれも食いたい」 50グラムの葛湯で生きる~渇きが止むと飢えが来た~重湯の不味いのに驚く~ソーダビスケットに礼を言う~白粥こんな旨いものが世にあるか
27回「公平とは何か」 公平即ち恣意を避ける即ち既に自由ではない~文芸もそれを職業としたからには自由ではいられない~オイケンの説く自由な精神生活とは机上の空論であろう
28回「法蔵院の占い師」 豊田立本の顔相占い~親の死目には逢えません~西へ西へ行く~顎髯を生やして居宅を建てよ(そうすると腰が落ち着く)
29回「修善寺の太鼓」 鐘の代りに太鼓が鳴る~夏が終わってだんだん寒くなり夜が長くなる~独り夜明けを待ち望む
30回「野の百合」 聖書の謂う野の百合とはグラジオラスのこと~病床で眺める秋の草花~コスモスは干菓子に似ている
31回「鏡を見る」 若い時兄を二人失った~亡くなるまで漆黒の髪と髭~鏡を見ると兄がいたが鬢には白いものが~墓と浮世の間に立つ
32回「出修善寺 あと2週間~白布を巻いた舟のような寝棺に担がれ宿を出る~雨の中を見送る人々~2度目の葬式とは
付録『病院の春』 胃腸病院で迎えた始めての正月~看護婦の「石井町子」さん~死の淵から生還した~しかし何の感動もない

 本篇は東京へ帰着したところから始まり、いったん修善寺の大患に遡ったあと、その修善寺を出発するところで終わるという、倒叙というほどでもないが、(本作に先行して書かれた)『それから』『門』に、やや通じる書き方になっている。胃腸病院の簡易ベッドの上での屈託した述懐が、いつのまにか修善寺の病床に遷移し、おもむろに8月24日の「主題」が登場する。小説的というより、いっそ音楽的な展開と言えよう。「病院の春」は再び長与胃腸病院の冒頭に戻る、エピローグ的な配置とも考えられる。
 ここで書かれた漱石中期最大の難関については、本作に加えて鏡子の回想も残されている以上、他がとやかく言うことはないのかも知れない。しかし一通り読んだだけでも、いくつかの問題点は挙げられるようである。次にそれを述べてみよう。

漱石「最後の挨拶」道草篇 17

391.『道草』先行作品(6)――魔の12月1月


 前項の続き。『満韓ところどころ』はなぜ(漱石作品なのに)面白くないか。
 だいたい漱石は作品上でも実生活でも、年末年始とか厳寒の時期に近づくと碌なことにならないようである。露骨な譬えで申し訳ないが、命日が12月9日であることがその典型であろうか。その他思いつくままに挙げると――、

・『猫』 苦沙弥と寒月の正月の散歩になぜか芸者の話が割り込んで来る。すれ違ったときに声を掛けられたり、羽根突きをするのを覗いたりする。意味不明で不思議な文章である。
 翌る年、珍野家はまた猫のいない正月を迎えることになるだろう。現実に漱石の家で4年間生きた主人公の猫の寿命は、小説では気の毒にも1年間に短縮された。

・『趣味の遺伝』 12月に書かれた小説である。『趣味の遺伝』は結末を失敗した作品でもある。小野田の令嬢が浩さんの墓参りをするのは、俗な言い方だが令嬢もまた浩さんに「一目惚れ」したのであろうが、当然ながら何も知らない浩さんはそのまま戦地へ行ってしまう。残された浩さんの日記を読む限りではそういう話である。幸運にも令嬢の素性を突き止めた語り手は、浩さんの霊魂のためにも令嬢を浩さんの母親に引き合わせる。おっ母さんと令嬢はいよいよ仲良くなる。そこまではいい。ところが浩さんの日記を見せられたときの令嬢の反応が、筆の足りない書かれ方になっている。

 ・・・とうとう御母さんが浩さんの日記を出して見せた。其時に御嬢さんが何と云ったかと思ったらそれだから私は御寺参をして居りましたと答えたそうだ。何故白菊を御墓へ手向けたのかと問い返したら、白菊が一番好きだからと云う挨拶であった。(『趣味の遺伝』末尾近く)

 少なくともここでの令嬢の心情は「ああやはりそうであったか」「自分の勘は当たっていた」というようなものであったはずである。浩さんの気持ちを始めから知っていたのであれば、そもそもの令嬢の行動・振舞いは、誰に対しても残酷と言わねばならないし(これが本当の「無意識の偽善」か)、浩さんの気持ちがこのとき(思いもよらず)始めて分かったというなら、令嬢はショックのあまり気絶するだろう(つまり三文小説になってしまうだろう)。
 漱石の中では、「やはり浩さんも自分のことを想ってくれていた。だから自分の行為も無駄ではなかった」という気持ちで「それだから(墓参りをしていた)」と書いたのであろうが、それだけではおっ母さんも読者も何のことか分からない。
 白菊云々も明らかに書き足りていない。「白菊は私が一番好きな花」あるいは「白菊が墓前に一番好まれる花」という意味で書かれないと、ただのホラーになってしまう。令嬢は生前の浩さんとは「交渉」が無かったのであるから、浩さんの身上や趣味を決めつける立場にないし、スピリチュアリズムを研究しているのは語り手であって令嬢ではない。漱石は時間がなかったと言い訳するが、年末年始を控えているので時間がないと言いたかったのであろうか。
「12月執筆」と目される小説は他に『野分』を数えるのみである。『野分』も結末の書き方は不親切であるが、2作とも作家自身の分類では、(贅沢にも)カタログ外に位置付けられるのだろう。

・『坊っちゃん この名作の中に厳冬の時期があるとすれば、それは大切な清が死を迎える場面であろう。漱石の母千枝も(明治14年)1月に亡くなっている。

・『野分』 『趣味の遺伝』とともに12月に書かれた小説。百円返済事件は12月16日のことである。初期の肺炎で転地療養するはずの高柳周作は、その原資たる百円を白井道也に遣ってしまう。大丈夫だろうか。金は債権者(道也の兄)の手にそのまま渡るので、結局主人公たちの窮状は何も変わらない。『野分』は漱石の文芸的主張が剝き出しになった珍品であるが、前述したように明らかに習作であろう。それでも志賀直哉がことさら賞翫したのは、何か感じるところがあったに違いない。

・『坑夫』 漱石の小説で年末年始を跨いで書かれたものは、『坑夫』と『行人』の2作だけである。『坑夫』は漱石らしくない凡作、おまけに(漱石にとっては稀有の事象であるが、)著作権が疑われる部分さえ存在する。
『行人』は(長谷川町子みたいに)作者胃潰瘍で半年間中断した縁起の悪い作品。人気も第10位に入るかどうかを、たぶん『彼岸過迄』『虞美人草』と共に争うはずである。
(ちなみに論者のベストテンは、『猫』『坊っちゃん』『明暗』が不動の3傑。9位までの6作品が『草枕』『三四郎』『それから』『門』『心』『道草』という一般的なもの。あと1つは何か。否そんなまとめ方をせずとも、大方の漱石ファンはこれに『虞美人草』『彼岸過迄』『行人』を加えた1ダースの作品を均等に愛しているのだろう。これはビートルズの残した不朽のアルバム12点を思わせる。―― "please please me" "with the beatles" "hard day’s night" "for sale" "help" "rubber soul" "revolver" "sgt. pepper’s" "magical mystery tour" "white album" "let it be" "abbey road" ―― LPレコードとしてはオフィシャルには "magical mystery tour" でなく "yellow submarine" であろうが、"yellow submarine" は半分ビートルズ(の演奏)でない。つまりこれは『坑夫』の位置付けであろうか。)

・『文鳥 漱石文鳥は12月にやってきてすぐ死んだ。いっぽう本ブログの先の項で一緒に論じた『夢十夜』は10話すべてが季節と無縁のコントであるが、これは漱石の中では例外に属する。『琴の空音』は春まだきの冬(インフルエンザ)、『二百十日』『一夜』は夏の話である。漱石の中で『夢十夜』だけが季節の書かれない(季節が不詳の)小説となった。夢は時間を超えていると漱石は言いたかったのか。

・『三四郎 大学最初の冬休み。帰省中に美禰子の挙式と披露宴が済んでいる。漱石作品の中で最悪の越年をした主人公が小川三四郎であろう。
 ところで三四郎の九州帰省は2泊3日を要しているはずである。往復で6日かかる。いくら金に困っていないとはいえ、母1人子1人だとはいえ、1週間かせいぜい2週間の冬季休暇に、6日潰して帰省するものだろうか。坊っちゃんでさえ「来年の夏休みにはきっと帰る」と言っている。正月休みに帰省したのは(漱石本人も含め)、三四郎以外にいないのではないか。――漱石が(松山時代に)一度だけ正月を東京で過ごしたのは、帰省でなく婚約のためであった。

・『それから』 去る者は日々に疎し。代助は引っ越したことを平岡への年始状でついでに知らせる。春が過ぎてその平岡が代助の新しい居宅を急襲する。「此所(ここ)だ此所だ」――代助の家を知らないはずの平岡だが、そういう気配は微塵も感じられない。ここから悲喜劇が始まった。

・『門』 インフルエンザに罹った安井は冬季休暇を転地療養に充てる。転地先で年を越した安井と御米の許へ宗助が遊びに行く。やがて大風が宗助と御米を吹き倒す。悲劇の起源はやはり冬休みにあったのである。

・『彼岸過迄 前年12月の雛子の埋葬のあと、気を取り直して年明けの1月から、『彼岸過迄』の執筆・連載が始まった。3月中には終わるだろうという意味でこの題名が付けられた。それはいいが「風呂の後」「停留所」「報告」に続く4篇目として唐突に「雨の降る日」が挿入された。小説として成功しているだろうか。マーラーの第2交響曲は第4楽章になって、いきなりコントラルトだかメゾソプラノが天国のような「Urlicht」の旋律を歌い出す。しかし文学は音楽とは違うのである。

・『行人』 前述した通り。執筆の越年が漱石にとっていかに鬼門だったか、他の作家や編集者は思いもよるまい。ちなみに『行人』のオリジナルの物語は、お彼岸に二郎の高等下宿を訪れたお直の逸話で終わっており、前作で小説の内容に直接関係のない『彼岸過迄』というタイトルを付けてしまった漱石が、律儀にも実際にそういう暦を有する小説を書いて、辻褄を合わせようとしたのが『行人』であったと言えなくもない。その意味でも「塵労」という付け足しは、余計であるとは言わないまでも、まったく別物と考えて鑑賞した方が、『行人』にとってフェアであろう。「塵労」は「塵労」で、独自の(志賀直哉がリッチな筆つきと評した)堅牢な美を放ってはいる。

・『心』 先生とK、ともに煩悶を抱えたまま越年し、Kが突然告白したのは正月休み、2学期の始まる直前である。成り行きだったにせよ先生の策謀が実を結び御嬢さんと婚約、そしてKの自裁漱石文学最大の悲劇は続く2月に発生した。(本ブログ心篇参照)

・『道草』 年の瀬せまる頃島田に百円遣って書付を取り戻す。明治42年11月の出来事が元になっているが、漱石は小説では時期を1ヶ月後ろにずらしている。この碌でもない手切れ金事件は、明らかに正月を意識してリライトされているのである。

・『明暗』 物語は秋に始まり冬に入ったところで無事(津田の肛門の再破裂程度で)決着を見るはずであった。それはいいとしても、思いのほか小説が長くなって、漱石自身も連載は年を越すだろうと(米国留学の成瀬正一に葉書で)表明している。ところが作者が倒れて執筆は中絶、前述のように12月には当の漱石の命の方が断たれてしまった。越年するはずの『明暗』は、作者の意に反して越年しなかった。運命に敵(かたき)を取られたと、『それから』の代助なら言うであろうか。それとも『坑夫』『行人』と同じ轍を踏まなくてよかったと、『明暗』の熱烈なファンは胸をなでおろすであろうか。

 結局漱石の小説で(『二百十日』等の短編を除いて)12月~1月と無縁なのは、『草枕』と『虞美人草』だけということになりそうであるが、見方によってはこの2作といえども例外ではない。強引に結び付けるのをご容赦いただければ、

・『草枕 漱石が始めて小天温泉を(山川信次郎と)訪れたのは、五高赴任の翌年の年末年始休暇(明治30年~31年)においてであった。蜜柑畑には一面に蜜柑が生っていたと思われる。画工は(蜜柑の影も形もない春なのに)那美さんの兄の家の辺りをミカン山と紹介しているが、那古井を訪れたのは2度目と言っているので、やはり以前冬に来たことがあったのである。漱石は5月にも小天温泉を再訪しており、いつも置いておかれた鏡子夫人はその年入水事件を起こす。

・『虞美人草 漱石の西片時代に唯一書かれた小説が失敗作『虞美人草』である。家主(斎藤阿具)の事情で、福猫とともに『猫』『坊っちゃん』『草枕』の名作を書いた千駄木を立ち退いたのが明治39年12月の月末である。方角が悪かったと同時に時期も良くなかった。漱石は西へ西へと移動しなければならないところ、西片だけは千駄木の西方になかった。したがって程なく(正しく西の方角にあたる)早稲田に移って、『三四郎』から『明暗』に至るさらなる名作群が誕生したのは、人類にとってこの上ない幸運であった。ちなみに漱石早稲田南町への引っ越しは、時候のよい9月(明治40年)である。

 エセイ集も負けていない。

・『永日小品』 明治42年1月~3月
・『満韓ところどころ』 明治42年10月~12月
・『思い出す事など』 明治43年10月~明治44年2月
・『硝子戸の中』 大正4年1月~2月

 4作ともほとんど冬場に書かれている偶然はともかく、

・『永日小品』 第1話は「元日」というのである。ちょうど1年前の元旦の逸話を持って来ているが、第2話以降は季節感とは無関係に、「普通の随筆(最近の出来事)」「『夢十夜』ふうのコント」「倫敦時代の追憶」が交互に出現する。全体として不気味なエセイであるが、最後まで読んでも、冒頭に「元日」を配置した意味がまったく分からない。第1話だけ掲載日が離れているので、「元日」を別物として鑑賞すべしということか。

・『満韓ところどころ』 12月に書かれたいわくつきのものの1つ。そのせいかどうか、不自然な中断のままになっていることは前項で述べてきた通り。しかし中断ということで言えば、同じ頃書かれた青春3部作はいずれも突然幕が閉じられたような小説ばかりである。『三四郎』『それから』『門』をまとまった1塊りのものと見ても、3作を読み了えて作者が何事かを書き切ったという感じはしない。野中宗助が三四郎や野々宮宗八・長井代助の末裔であるのはいいとしても、宗助という人物像が彼らの到達点(帰結・結論)と思う読者はいないだろう。物語や登場人物にはっきりした決着がつかない。ぐずぐずのままである。それがゆえにいつまでも読み継がれるというのは流石に暴論であろうが、それにもかかわらずいつまでも読まれるのが漱石作品であるとは言えるだろう。

・『思い出す事など』 これも禁忌たる12月執筆に属する。修善寺の大患を思い出しているので、漱石にとっては碌でもない回想記であるには違いない。もう1つ、このエセイ集のみ(『坑夫』『行人』と同じく)不吉にも年末年始を跨いで執筆されている。そのツケは如実に廻ってきており、次項以降で述べることではあるが、『思い出す事など』はまた、人間の死について多く語られる、人生の書であるとともに絶望と希望の入り混ざった、不思議なエセイ集になっている。

・『硝子戸の中 漱石の中では一番評判の好い随想集であろう。しかし『道草』の露払いとして書かれているからには、『道草』と同じ気分が漂っており、これも次項以降で考察されるべきことではあるが、ある種の鬱陶しさからは逃れようもない。なぜもう少し気候のよいときに書かなかったのだろうか。
 思うに漱石新聞小説を最優先させるので、随筆小品の類いはつい「オフシーズン」の谿間に追いやられるのであろう。漱石ふうの誠実というべきか。徹底した自己管理と言わざるを得ない。

 * * *

 漱石にとって「12月~1月問題」は作品だけにとどまらない。母千枝の死(1月)と自身の死(12月)は前述したが、漱石の誕生日が慶応3年1月(5日)、2度目の誕生日たる夏目家復籍が明治21年1月(28日)であることは奇妙な因縁であると言えよう。
 ところで漱石の7人の子の誕生日は以下の通りである。

・筆子 明治32年5月31日
恒子 明治34年1月26日
・栄子 明治36年11月3日
愛子 明治38年12月14日
・純一 明治40年6月5日
伸六 明治41年12月17日
・雛子 明治43年3月2日

 彼らの人生は(当然ながら)漱石の人生ではないからここでは取り上げないが、唯一1月生れの恒子は(生れたとき漱石は倫敦にいた)、気の毒にも30代半ばで病没した。12月生れの四女愛子は、『道草』の中で「3人目の」赤ん坊として、千切った脱脂綿とともに出産シーンが描かれるという、ユニークな扱いを受けた。また『永日小品』で例外的に「愛子」という名前が晒されてしまったのは前述したところ。公平を旨とする漱石は、『思い出す事など』で(愛子以外の)上の3人の女の子の名前も、病床の父に宛てた見舞状の筆者という形で露出させた。本文では筆子・恒子・えい子と書かれたが、三女だけが仮名表記されている。漱石のつもりでは三女と四女は始めから、エイ、アイと付けたのだろう、戸籍簿ではそうなっているらしい。2人の男の子と夭折した五女の実の名は、ついに漱石作品に載ることはなかった。もちろんこれらのことは、漱石が子供たちのことを小説にしばしば書き込んだこととはまた別の話である。

 もう1人の12月生れである夏目伸六については、本人が数多くの著作を残しているので、(鏡子の回想録同様)考察の対象として差し支えないと思うが、1つだけあの有名なステッキ殴打事件について触れてみたい。
 明治40年6月待望の男子(純一)が誕生した。翌明治41年12月17日、始めて年子として2人目の男の子(伸六)が生まれた。「スペア」という気持ちはなかったであろうが、漱石にとってはめでたくもあり、心強い2人目の男子だったろう。
 しかしそれは半年前に日根野れんを脊髄病で亡くした塩原昌之助にとっても良い話であったらしい。年が明けて早速、この元養父は漱石に伸六の養子縁組を申入れに来たのではないか。塩原家と夏目家の関係からは大いに考えられることである。絶縁したといっても一方の当事者父直克はすでに亡く、漱石自身、日根野れんを蝶番として塩原家と交際してきた過去を有つ以上、元養父の申し出は当時の世情からも、それほど突飛なものとは言えない。
 もちろん漱石は断った。これが『道草』に書かれた、その年(明治42年)の百円強請事件につながるのだろう。家を継がない男の子が出来たせいで却って金を取られる。自身の場合と同じである。しかも相手は同じ塩原昌之助。
 明治43年3月2日に7人目の子供雛子が生まれるが、翌44年11月29日に突然亡くなった(埋葬は12月2日)。このときすでに鏡子夫人は明けて36歳。伸六の「末っ子の男の子」はほぼ確定したと思われる。漱石が屋台の店先で激怒したのは、直接には兄の真似ばかりする伸六の性格の弱さ・俗っぽさに我慢ならなかったからであろうが、漱石はこの末子の運命に自分自身を見たのではないか。塩原から養子にくれとせがまれ、なおかつあっさり養子に出されてしまった漱石自身を重ねたのである。気の毒なことにその背後には忌々しい養父の幻影までちらついていた。常軌を逸したステッキでの殴打(下駄履きの足で踏みつけ蹴られさえした)の理由は、これ以外に考えにくい。

漱石「最後の挨拶」道草篇 16

390.『道草』先行作品(5)――『満韓ところどころ』


・第2集『満韓ところどころ』 明治42年10月~12月

『永日小品』以外に明治42年にはもう1つ、『満韓ところどころ』(全51回)という未完の紀行文集がある。『永日小品』は新春に書かれたが、『満韓ところどころ』は漱石の好きな秋の話である。
 漱石は明治42年9月~10月の1ヶ月半、(英国留学を除けば)最も長くて遠い満洲朝鮮の旅に出かけた。帰国早々同じハルピン停車場で伊藤博文が撃たれたが、二つながらに中村是公が立ち会っていた偶然にもめげず、(疑り深い漱石であれば、背恰好の似た自分が何かの練習台に使われたのではないかと不安に感じてしかるべきところ、伊藤公の話題は『門』の冒頭でさらりと触れるにとどまった、)早稲田の自宅に帰り着くや否やすぐ旅行記の筆を執り始めた。(元総理大臣にして前韓国統監の暗殺事件は、結局現行の『満韓ところどころ』に1字も書かれなかった。)

『永日小品』は創作と称して何の違和感もないとは前述した。『思い出す事など』『硝子戸の中』も、私小説作家が書いたものなら掌篇集と見ることも可能だろう。しかし『満韓ところどころ』は創作でないのはいいとしても、紀行文というには少々雑駁に過ぎるようである。やはり必要最小限の手控えなり資料を準備した方が良かったのではないかと、つい余計なことを考えてしまう。

 南満鉄道会社って一体何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁も少し呆れた顔をして、御前も余っ程馬鹿だなあと云った。(『満韓ところどころ』冒頭)

 書出しは太宰治津軽』、夫人との会話を思わせ、(現代の)読者の期待は昂まるが、それは当然すぐに裏切られることになる。最後まで読んでも、書出しの1行を超えるものは、(是公や橋本左五郎等書生時代の仲間たちの逸話を除いては)現れない。
『満韓ところどころ』失敗の原因については、一般に次のような議論があると思われる。

①記憶がフレッシュなうちに書かれたにもかかわらず、人や場景の印象が薄い。やはり体調不良が影響したのではないか。
②反対にもっと記憶が薄れてから、そのときなお漱石の心象に残っているもののみ書いた方が、essay として味が出るのではないか。
③そもそも漱石は資料を参考にして書くタイプの作家ではない。小説でない満洲紀行を書くなら、『永日小品』ふうにアレンジするしかないのでは。

 畢竟漱石旅行記には向かない作家である。いっぽうで漱石の小説は、基本的にすべて旅行記のように書かれている(『明暗』のあの長い会話シーンを除いて)、と言って言えなくもない。
 まあ傍(はた)からとやかく言っても始まらないので、とりあえずは他の3集と少し毛色が異なる『満韓ところどころ』を順に読んでみるしかないだろう。当時から半島や満洲に、いかに大勢の日本人が進出していたことか。明治の人にとっては元々北海道や琉球などより、はるかに身近な土地であった。漱石の文章を読んでも、そのことだけは伝わってくると思うが。

1回「是公との約束」 満洲旅行の用意をする~直前に胃病で延期になった
2回「出航」 穏やかな鉄嶺丸の旅~英国大使館の青年と犬が同船~後に大和ホテルでこの犬に再会した
3回「営口丸と接触 事務長の佐治さん~営口丸を追い抜くとき船体がぶつかる~かわすという漢字が分からない~替わすではいけませんか
4回「大連到着」 秘書の沼田さん~クーリーの蠢く中綺麗な馬車で総裁の家へ向かう
5回「総裁の家」 舞踏会場を改装した総裁公邸~本尊のいない阿弥陀堂のよう~溥儀の額~総裁は帰って来ない
6回「大和ホテル」 風呂に入っていると総裁が来たがすぐ引き返したもよう~食堂で相席になった英国の老人
7回「俱楽部にて」 舞踏会を断る~倶楽部のバーで総裁副総裁と過ごす~西洋人は少ない
8回「市内巡行」 空気が透き通って日が鮮やかに市街を照らす~日本橋から満鉄本社を臨む~電気公園のオベリスク
9回「中央試験場」 大豆油・石鹸・柞蚕(山繭)の糸・高粱酒(これは是公も試飲しない)
10回「満鉄本社」 立花政樹は大連の税関長~満鉄本社で理事たちと挨拶~ランチは大和ホテルの仕出し~胃が痛む
11回「営業報告」 河村調査課長の説明~股野義郎現わる~多々三平の産地が筑後久留米から肥前唐津に変わった理由
12回「ゼントルメン」 総裁夫妻連名の舞踏会招待を断わる~「 gentlemen! ··· 大いに飲みましょう!」
13回「胃痛でダウン」 胃痛で会食を断わる~蒙古を調査した東北大教授橋本左五郎来る~明治17年極楽水の旧事
14回「橋本左五郎」 猿楽町末富屋の10人~予備門席次下算の便
15回「大連見物」 股野の案内で北公園・社員倶楽部・川崎造船所~東洋一の煙突大連火力発電所
16回「化物屋敷」 満鉄社員アパートは日露戦争当時の病院だった~開拓と国土建設は日露の「戦後の戦争」
17回「大豆油」 3階建の工場で大豆を蒸し油を搾る~黙々と働く裸のクーリー
18回「股野の社宅」 総裁公邸に行く~是公も胃病持ち~股野の社宅は見晴らしのよい高台
19回「麻雀牌」 満洲商人は仕入先を自宅に泊める習慣~荷主たちは商売が片付くまで商人の家で寝たり遊んだりしている
20回「相生さん」 大連港の沖仲仕をまとめたものは相生さんである~港湾労働者のコミュニティ~図書館に漱石の本もあった
21回「佐藤友熊」 友熊は旅順の警視総長~成立学舎で共に学ぶ~白虎隊の1人が腹を切り損なって入学試験を受けに東京へ出たとしか思われない
22回「旅順は普請中」 橋本左五郎と旅順へ向かう~新市街には人がいない~やはり大和ホテルに入る
23回「女の靴の片方」 白玉山の戦勝記念碑~佐藤友熊の案内で橋本と旅順戦利品陳列所に行く
24回「山と砲台」 A中尉の案内で日露戦跡をたどる~すべての山に悉く砲台が~旅順を見下ろす高台に出る
25回「砲台巡り」 両軍とも砲台を取るため坑道を掘り合う~たまには土嚢越しに両軍で会話することもある~酒があるならくれ
26回「講演」 断りきれず大連で2回営口で1回講演するはめに~演説を勧める橋本左五郎~演説を褒める是公
27回「二百三高地 敵と味方両方の砲弾をかいくぐって始めて陣地を取る~戦争のときは身体の組織が暫時犬猫と同じになる
28回「旅順港 静かで美しい旅順港~始めて兵隊に敬礼をされる~無数に沈んだ艦船の引き揚げ方
29回「膝枕」 胃が痛むが田中君の招待で橋本と料理屋へ~すき焼きを食う~女の膝枕で寝る
30回「鶉」 旅順を発つので全員で鶉を食す朝食会~鶉は旅順の名物
31回「胃痛」 橋本と北へ向かうことにするが旅程は何も決まっていない~哈爾浜行急行は週2回
32回「トロ」 橋本と熊岳城へ~胃痛に耐えながら支那人の押すトロに乗る
33回「砂湯」 熊岳城Ⅱ~一面の砂浜がすべて温泉~高麗城子という険しい連山が見える
34回「支那の女」 熊岳城Ⅲ~胃が痛むが梨畑へ行くことにする~宿の客と一緒に馬車に乗る~昨日橋で行き合った女と尻合わせになる~女は宿の人らしい
35回「梨畑」 橋本たちに再会~梨は赤く大きさは日本の梨の半分~胃の中に何か入れると痛みが一瞬治まる
36回「満洲の馬」 梨畑の土の壁~壁に開けられた馬賊避けの四角い穴と赤い旗~三国志に出てくるような騾馬と隠されている女
37回「短冊」 熊岳城を発つ~頼まれた短冊に字を書く~旅をして悪筆を懇望されるほどつらいことはない
38回「満洲の豚」 満洲の草原を跋扈する怪物~豚と海藻~雲と電信柱
39回「怪しい部屋」 営口の恐ろしく穢い売春窟~胡弓と歌声
40回「遼河」 胃に加えて胸も痛い~粉薬を呑みたいが水がない
41回「農学博士」 橋本左五郎は博士号を取っていない~漱石の革鞄に橋本博士の札が
42回「ダウン」 営口から湯崗子へ~体調悪くて飯も食えず
43回「千山」 橋本等3人は馬で千山へ行く~漱石はそれを見送る~鉢巻する馬
44回「風呂に行く」 風呂場の裏は魚の泳ぐ湯の池~宿の紫の袴を穿いた若い女がいる
45回「奉天 馬車で奉天の街を行く~馬車に轢かれた老人の下肢
46回「人力車」 人力車の引き方が余りにも乱暴で驚く~奉天では4泊した
47回「満洲公所」 奉天には下水というものがない~湯も水も濁っている
48回「満洲公所Ⅱ」 満洲公所には俳人の肋骨君がいる~支那人の辮髪
49回「曠野」 宿の番頭の馬車で道なき凹凸の平原を疾る~泥濘に轍を取られて立往生
50回「北陵」 平原が急に叢に変化する~大きな亀の上に建つ頌徳碑
51回「撫順」 汽車に乗り合わせた西洋人は英国領事~英国人のプラウド気質~坑道見学

『満韓ところどころ』はここで中断している。石炭を焚いて走る汽船と汽車を乗り継ぎ、全山石炭の塊りたる(露天掘りの)撫順に到達した。オチは付いているのかも知れないが、漱石が産業資源に関心があったとも思えない。
 加えてこの紀行文では、漱石韓半島に1歩たりとも足を踏み入れていない。読者は続篇があるのだろうと思う。なければタイトルはいつか『満洲ところどころ』あるいは『南満洲ところどころ』に改められるべきであった。
 それをしなかったのはいかにも漱石らしいが、読者側・朝日側の要請もとくになかったようである。回を追うにつれて(おもに漱石の体調のせいで)話が面白くなくなっているからである。漱石旅行記は面白くないのか。『門』の参禅シーンを記憶する読者はさもありなんと思う。しかし『行人/塵労』の一郎とHさんの旅日記はそれなりに興趣が沸き、『明暗』津田の湯河原道行きも、俗物津田にしては(漱石の地が出ているせいで)味わい深いものがある。『坊っちゃん』『草枕』は(旅日記として読んでも)勝れて面白い。『満韓ところどころ』の不作は紀行文のせいだけではないはずである。冒頭にも少し触れたが、何か他に理由があるのだろうか。

漱石「最後の挨拶」道草篇 15

389.『道草』先行作品(4)――『永日小品』(つづき)


・第1集『永日小品』 明治42年1月~3月(つづき)

15回『モナリサ』 井深がモナリサの額画を買って欄間に掛けた~落下してガラスが砕けた~すぐ屑屋に売った~井深はモナリサもダヴィンチも知らない
 井深は日曜ごとに古道具屋を覘く。読者は漱石と思う。学校でなく役所へ通っているが、それはかまわない。最後にダヴィンチを知らないというくだりで、読者はやっと井深が漱石でないことを知らされる。友人のことを書いたのでもないようだ。essay でないとすれば、とりあえず創作物と言うしかない。

16回『火事』 近所の火事~ホースとポンプが来る~大勢人が集まっている~しかし誰もどうすることも出来ない~翌日行って見たが何も痕跡がない~夢の中で起きた火事かも知れない
 火事が夢の中の話とすれば、これまた不気味な、『夢十夜』そのものみたいな話であろう。

17回『霧』 霧の倫敦~汽車は(安全のため)大きな音を鳴らしながら停車場へ入って来る~自分は道に迷ったのだろうか
 倫敦の追憶。しかしそうでない読み方もできる。倫敦の地名を藉りて後段の(第25話の)「心」みたいに何かを訴えているようにも見える。漱石は思わせぶりを書く人ではないが、たまに真意不明の文章にぶち当たることがある。

18回『懸物』 掛軸を売って亡妻の墓石を買う~孫に鉄砲玉(飴玉)を買う
 エセイではないが小説とは言い難い。コント寓話でもない。まさに創作としか言いようがない。これが小品の定義であろうか。

19回『紀元節』 「誰か記を紀と直したようだが、記と書いても好いんですよ」
 漢字の深さでもあり親しみやすさ(いい加減さ)でもある。象形文字もそうだが、漢字の成り立ちがそもそもアートである。漢字を創った民族は宗教の民であるとともに芸術家である。これが漱石をして漢学へ向かわせなかった最大の理由であろう(※)。どちらでもいいんですよ。どちらも正しい。それは漱石の腑に落ちるものではなかった。漱石がいくら芸術家であっても。
 漢字の誤字というのは、もちろん錯誤・無知を示す場合もあるが、試験(筆記試験)のために無理に作られた概念でもあろう。便宜のために人が作ったものである以上、それが正しいとか間違っているとかは、人類の幕を閉じない限り確定しない。数学の公理とは違うのである。人類が滅んでも物理の法則は生き続ける(はずである)。
 その時「正しい漢字」などというものは瞬時に消滅する。ただ同じ意味で、「正しい言葉遣い(当然にも正しい漢字を含む)」を会得することが、「物理の法則」を理解することより肝要でかつ困難であることもまた真実であろう。

※注)漱石漢文学だけでなく宗教と芸術へ向かわなかった理由
 深遠だが親しみやすい、分かりやすいがいい加減なところもあるというのは、宗教と芸術に共通する特質であろう。何々をすれば幸福になれると、大勢の人が納得するものなら、どうのような教義であれ、シンプルにして大雑把に違いない。人に芸術的な感興を起こさせるためには、ゆるぎというか、何かしら撓(たわ)んでいるところ、ある種ルーズなところが必要であるのと同断である。これは漱石のような人とは相容れない性質である。曖昧さを嫌う漱石は、正しいか間違っているか、答えがはっきりしないと気が済まない。漱石もまた英文学において「プリンキピア」(ニュートンの)のようなものが書けると信じていた1人であった。

20回『儲口』 支那人相手に大損した話~栗1800俵・薩摩芋2000俵
 金が儲かる話は漱石は嫌いでない。金があれば金の為に働かなくてすむからである。漱石にとって金は労働の対価でしかない。しかるに漱石は労働を神聖なもの・機械や他の動物に置き換えることの出来ないものと見做していた。労働と金銭を等価とする実業界に興味がなかったのも頷ける。漱石のような(心のきれいな)人は、金に対する認識が一般の人と少し違う。だから自分の小説に金のことばかり書いても(『坊っちゃん』には金の話が100ヶ所出て来る)、漱石自身は何も違和感を感じないのである。

21回『行列』 宅の子供は毎日母の羽織や風呂敷を出して、こんな遊戯をしている
 子供5人の仮装行列。生まれたばかりの(6人目の)伸六は当然仲間に入っていない。それはいいが漱石は後年子供の数を間違えたことがある。(大正元年の日記。避暑に訪れた鎌倉で蚊帳の中に一緒くたになって寝た子供の数――本ブログ行人篇38に既述。)

22回『昔』 ピトロクリの谷~キリクランキーの古戦場
 英国の追憶4回目。漱石は帰国の船便を遅らせてスコットランドに宿を取った。(イングランドではない)スコットランド漱石にとって英国(イギリス)留学唯一の救いとなったようである。古戦場の景色は(そこが墓地になった例外を除いて)なぜかどこも平穏で懐かしい。合戦に適した場所というのがあるのだろうか。昔血に染まったという記憶のせいだろうか。これは洋の東西を問わない。

23回『声』 国から出て来た豊三郎~豊、豊という母の声~母は5年前に死んでしまった~路地の婆さんと目が合う
 まさに『三四郎』の外伝である。三四郎の場合は母は生きているが、こういう場面や『夢十夜』に出て来るようなシーンは、同じ頃書かれた『三四郎』では使われなかった。ただし外形的に現れなかっただけで、その不安・惧れといった内向きの精神状態は、『三四郎』という作品にある風合いを与えている。

24回『金』 空谷子(くうこくし)との会話~金は魔物~金の力はそれを得た原因に関係しない~金を五色に分ける効用
 金はまた不思議な力を持っている。漱石の理想は世襲財産であろう。そこには勤労・労働という要素がまったくない。職業は晴れて道楽になり、労働は始めて神聖になる。

25回『心』 二階の手摺にいると鶯に似た鳥が来て手に止まった~散歩に出ると知らない人が沢山いた~1人の女が立っている~百年前から自分を待っていた顔である~自分はその女のあとを小鳥のようにどこまでも跟いて行った
 結婚後の漱石は(倫敦は別として)2階に住まわったことはない。前年の『文鳥』と併せ読まれて、漱石の女性体験と結び付けらることが多いが、本当だろうか。自分が2階で女が下。これはそのまま『虞美人草』にも使われた(甲野宗近の関西旅行で、宗近が旅館の2階から琴を弾く小夜子を目撃するシーン)。女が自分を認めるには見上げる必要がある。続く『三四郎』では三四郎が下で池の女は丘の上、男と女が逆であるが、それでも女はやはり何かを見上げている。運動会で三四郎が丘の上にいるときには美禰子とよし子はめでたく三四郎を見上げていた。小説の冒頭で三四郎が始めて汽車の女に話かけられたときは、斜め前に腰掛けていた女が及び腰になって、三四郎を下から窺う感じで喋っているように読める。男女の立場(文字通りの立っている場所)に高低差のあるうちは安全である。同じ平面に立つと波風が立つ。
 ここで女に蹤いて入って行った家は、どう見ても待合としか思えないが、待合に百年の恋の相手がいるとも思われない。癇性で神経質、内気で我儘な漱石が、女の前でくつろぐためには、その女が(漱石のすべてをゆるしてくれる)百年の恋人(聖母のような女)である必要がある。そうでない場合は、「反っ繰り返ってるじゃありませんか」とお直(『行人』の)に笑われるのである。
 漱石と女については、本ブログ第11項(『文鳥』と『永日小品』をつなぐもの)で、この回(25回『心』)全文を引用して論じているので、そちらもご参照いただけると幸いである。

26回『変化』 中村と自分の今昔~江東義塾時代の話~倫敦の街角でばったり出合った~先月会いそこねた話~中村は満鉄総裁になり自分は小説家になった~2人は変化したのだろうか
 この回の人物は「中村」と書かれる。誰もが中村是公と知るが、漱石はなぜか是公とは書かない。「元日」では虚子を括弧書きで高浜と書いた箇所があった。読者に特定されるような登場人物の名をそのまま書いているのは、第1話「元日」の「虚子(高浜)」と、この第26話「変化」の「中村」だけであろう。その使い分けは何に拠るか。それは漱石に聞くしかないが、虚子と是公は名前を隠すと却って不自然になると思ったのであろう。「泥棒」の御房さん(親戚の山田房子)は新聞読者の知らない人物であるし、「猫の墓」で供えた水に口をつけてしまう四女の「愛子」は、また違う理由で名を晒されたようである。
 漱石は家族をほぼ平等に描いているが、自分のことは「自分」、鏡子は「妻(さい)」であるし、子供たちも名前を出すことはない。なぜ「愛子」だけが露出したのかというと、それは漱石が作品に家族親類を書くことに対し、愛子が子供ながらクレームを付けたからであるという。漱石はそのお返しに『永日小品』に愛子の名のみ刻んだ。どちらが子供らしいかは微妙なところである。
 いずれにせよ虚子と是公だけが『永日小品』で別扱いの日本人である。(「山鳥」の長塚は前述したように仮名の別人であろう。)

27回『クレイグ先生上』 クレイグ先生はアイヤランド人のシェイクスピヤ学者~いつかベーカーストリートで出合った時には、鞭を忘れた御者かと思った
28回『クレイグ先生中』 英吉利人は詩を解さない~愛蘭土人は偉い、日本人も~「お、おれのウォーズウォースは何処へ遣った」
29回『クレイグ先生下』 「シュミッド」と同程度のものを拵える位ならこんな骨を折りはしない~僕も若ければ日本に行くがな

 最終話「クレイグ先生」はエセイでありロマンであり英国の追憶でもある。卓越したユーモア、写実、抒情、あらゆる要素を含み、登場人物はユニークで夢幻的な感じさえ抱かせる。まさに『永日小品』の大いなる統合といえよう。
 ところでウィリアム・クレイグは1843年11月生れで、漱石が個人教授を受けたのは1900年11月~1901年10月の1年間だから、クレイグは満57から満58になろうとする年である。漱石はレッスン晩期の頃の話として56と書くが、正しくは58であろう。それはクレイグがサバを読んだだけかも知れないが、クレイグが亡くなったのは1906年12月、漱石が帰国して丸4年が経つ頃である。それを漱石は「日本へ帰って2年程したら」と書いている。漱石は何か勘違いをしたのだろうか。クレイグの年齢だけでなく没年も2年ずれている。漱石が倫敦留学の丸2年間をなかったことにしたかったのは慥かであろうが、それがこんな「書き間違い」を生んだのだろうか。
 『永日小品』の英国譚は、アグニスの「7下宿」「8過去の臭い」、非現実感の漂う「10暖かい夢」「11印象」「17霧」、スコットランドの「22昔」、そして「27~29クレイグ先生」の全9回。まとめて読むとまさに(『夢十夜』ならぬ)『夢九夜』のような奇怪な物語ではないか。

 これらを鬱陶しく感じる読者は、つい空想の世界に遊びたくなる(山田風太郎のように)。ベイカー街から高速馬車で事件現場へ向かうシャーロックホームズと馭者のクレイグ先生。疾駆しながら平生の自分の哲学的主張を大声で怒鳴り合う2人。――これは論者1人がふざけているわけではない。冗談を先に発したのは漱石先生である。論者はその尻馬に乗ったに過ぎない。

漱石「最後の挨拶」道草篇 14

388.『道草』先行作品(3)――『永日小品』


・第1集『永日小品』 明治42年1月~3月

 小品とはよく言ったものである。まるで漱石全集のためにある言葉といってもよい。漱石全集(岩波の)に随筆という分類はない。(『猫』という名作の存在にかかわらず、)漱石は筆にまかせて、筆のおもむくままに書くということをしない(出来ない)人であった。(それをするためには、「則天去私」というような標語を必要とする人であった。)必ず自分の意思が自分の主人である。
 漱石は日記も手紙もごく短い感想文も、すべて小説と同じ呼吸で書く。写生文も随筆も、メモ書きさえも、すべては同じ「漱石の文章」である。その中で小説( novel )と呼び得ないものを小品と呼ぶのだろう。そしてそのネーミングの由来( originality )は『永日小品』というタイトルに発するのだろう。もちろん「小品」という言葉はありふれた言葉である。肝要なのはその使い方である。これが真の意味での「独創」であろうか。

 小説を書き始めて丸4年、『永日小品』は漱石始めての随筆集といってよいが、創作集と称しても違和感はない。『永日小品』の先行作品たる『文鳥』も『夢十夜』も、漱石としては創作のつもりではないかも知れないが、essay というにはあまりにも内容が fantastic に過ぎた。それはこれ以上言わないとして、まず『永日小品』を連載順に見てみよう。
 珍しく漱石は連載回ごとに小題を附しているので、それを(他の随筆集と区別するために)二重括弧で表記する。以後漱石はこんな親切を読者に示さなくなった。

1回『元日』 元旦の客~謡の会となり虚子が習い始めの鼓を打つ~吹き出して失敗
 初回の新聞掲載が1月1日なので、「元日」という小題を択んだのだろうか。それともこれだけ別物のつもりだったのだろうか。(2回目は1月14日の掲載で、以下1日1回という流れになる。)
 新聞連載随筆というには少し型破りで、ここでは1年前の元日の出来事を書いている。(漱石にしてみれば記憶にある元日を書いただけで、それがいつのことであるかは大きなお世話だというのであろう。)
 正月の謡い始めは(漱石読者なら全員納得するように)失敗におわった。読者は『猫』東風の朗読会を思い出す。鼓は『行人』お重であろうか。漱石は鼓よりは鼓手の掛け声に調子を狂わされて謡えなくなったのだろう。邦楽や古典芸能には渋い約束事も多いが、突拍子もない習慣もあるのである。

2回『蛇』 叔父さんと田圃の中で~「獲れる」~鰻が跳ねる~蛇の鎌首~「覚えていろ」
「覚えていろ」は鰻を逃がした叔父さんの呟きであろうか。叔父さんの掴んだのが蛇で、その蛇の捨て台詞とすれば、『夢十夜』の続篇になるが。

3回『泥棒上』 夜中に下女の泣き声~台所の雨戸を外して泥棒が入った~帯10本盗られる
4回『泥棒下』 巡査が来る~戸締りを厳重にするしかない~次の夜も台所で音がする~鼠が鰹節を齧っていた

 漱石は「何だ!」と怒鳴って部屋を飛び出したが、泥棒には逃げられた。次の日まさかと思ったがまた音がした。漱石は慎重に探査したが音の主は鼠で、鰹節を齧られたのだった。せっかくなら鼠を追ってくれればよかったのに、と鏡子は言う。1ヶ月くらい前の出来事。

5回『柿』 喜いちゃんはあまり外で遊ばない女の子~家は銀行家~長屋の与吉に渋柿を投げる
 喜いちゃんは女の子である。お琴の稽古をする中流家庭の子である。『硝子戸の中』の(南畝の写本を持ち出した)男の子の喜いちゃんとは、明らかに別人である。

6回『火鉢』 1ヶ月前に生れた子供が泣く~𠮟りつけたいがそうも行かぬ~雑事が重なって仕事が出来ない~寒い~蕎麦湯と火鉢に救われる
 子供(伸六)は生後満1ヶ月である。それが寒くて泣くというので腹を立てる。小憎らしくなって大声で叱りつけたいが、相手が小さすぎるので我慢する。
 こんな正直な感想を述べる著述家があるだろうか。1ヶ月の赤ん坊は泣くことしか出来ない。だいいち寒くて泣くのか腹が減って泣くのか抱いてほしくて泣くのか、そんなことが子育てしたことのない明治の男に分かるわけがない。要するに漱石はなぜこんなことを書くかといえば、それは自分の書いたものを読み手が読んでどのように感じるかに関心がないのである。つまり日記を書いていると思えば分かりやすいだろうか。漱石は自分の書きたいことを書く。もちろん正しいことしか書かない。倫理を外したことはなおさら書かない。世間一般の常識にかかるか否かよりも、自分の(著述家としての)良心を優先する。本ブログで何遍も繰り返す言い方であるが、これを人は誠実といい、また身勝手という。それで百年の命脈を保つのであるから、少なくともこの漱石の行き方自体は否定されるものでない。
 といって漱石といえどもまるで読み手を無視して書いているわけでもない。日記の読み手は「自分」であろうし、『永日小品』のそれは言うまでもなく新聞の読者である。ただ読み手のために文章を枉げないということである。
 金を借りに「長澤」が来る。長澤は仮名である。読者に特定されるような登場人物の名をそのまま書いているのは、第1話「元日」の「虚子(高浜)」と、最終話に近い第26話「変化」の「中村(是公)」だけであろう。その使い分けは何に拠るか。それは漱石に聞くしかないが、漱石の中に「正しい」基準が存在することだけは慥かである。

7回『下宿』 倫敦の最初の下宿~骨ばった主婦の口から出るきれいなアクセント~主婦の身の上話~「アグニス、焼麺麭を食べるかい」
8回『過去の臭い』 K君が蘇格蘭から帰って来た~主婦が互いを紹介した~K君は公務らしく金に余裕がある~K君に金を借りる~下宿を出た後再訪したことがある~アグニスに過去の臭いを感じた
 これも奇怪な話である。『夢十夜』外伝(西洋篇)といったところか。

9回『猫の墓』 早稲田に移ってから元気をなくした猫が死んだ
 この猫は明治37年夏に迷い込んだ福猫である。『文鳥』の項(本ブログ第12項)でも述べたが、千駄木に2年、西片に1年、早稲田に1年、わずか4年の生涯であった。作家になった漱石が(論者の謂う、漱石が始めて自分のタブローにサインを書き込んだ作品)『三四郎』を書いているのを見届けるように死んだ。身寄りもなく名前もつけられず家族の誰からも邪険に扱われたが、文豪の処女作によって文学史に永遠の名を刻んだ。そして『三四郎』によってある安心立命を得たかのように漱石の許を去った。まるで漱石の一番古くからの愛読者(例えば子規)に似て、またある意味ではこの捨てられた猫は、漱石と同じような生を歩んだとも言える。

10回『暖かい夢』 倫敦での寒く孤独な生活~人は皆速く歩む~明るい大きな劇場
11回『印象』 広場と大通り~人の海に溺れる~石刻の獅子
 アグニスに続く追憶の倫敦、2回目である。英国の話は『永日小品』では5回挿入される。まとめて書くと読者にある(間違った)印象を与えかねない。(漱石は「倫敦ところどころ」を書くつもりはない。)といって書かないわけにもいかない。
「小さい」「たった1人」広場の銅像を自分と重ね合わせる。漱石は倫敦で計り知れない孤独を味わったのであろう。

12回『人間』 御作さんが旦那と有楽座へ行く~髪結いが遅れてやきもき~表に酔っ払いがいた~「おれは人間だ」
 御作さん、旦那、巡査と酔っ払い、美いちゃん。essay というよりは創作に近い。主人公はもちろん御作さんである。

13回『山鳥上』 南部の青年が山鳥を持って訪れた~青年は文学志望~作品はあまりよくない
14回『山鳥下』 青年が借金を申し込む~青年の詫び状~郷里へ帰った青年から山鳥が届く
 話は小説的(自然主義の)であるが、事実に基づく典型的な essay であろう。青年(市川文丸)のエピソードは明治41年の漱石の書簡集にある通り。明治42年1月、お礼とお詫びの山鳥の小包も実際に届いている。
 ところでこの青年の宿を(間接にだが)債権者の代理として訪れた、漱石に金を借りたがる長塚なる人物を、長塚節とする解釈があるようだが、これはある種の「都市伝説」であろうか。長塚節がこの時期漱石山房に出入りした形跡はない。たとえ出入りしたとしても、茨城で大きな農家を営んでいた摯実な長塚節が、漱石の懐をあてにする理由がない。
 漱石長塚節の『土』を推したのは2年後の明治43年のことである。それは言うまでもなく自分の弟子として推薦したのではない。早くその才能を認めたゆえでの推薦である(明治40年『佐渡が島』)。長塚節は(子規には傾倒していたが)漱石の弟子ではない。彼は富農といえなくもない家の出であり、貧乏な感じがするのは(後の大病はさておいて)、当時から単に驕奢と無縁だったからに過ぎない。
「長塚」は(第6話の)「火鉢」の「長澤」の書き誤りではなかろうか。「火鉢」での長澤は、いつも漱石に金を貸してくれと訴える弟子の1人である。

 本ブログでは漢字は新字体を採用してほとんど不都合がないと信じるが、人名で考察すべき事案が発生した場合等はその限りでない。美禰子を美弥子と書けばそれは別の女になってしまうかも知れない。ただし廣田先生を(本ブログで)「広田」と書くのは、廣嶋を広島と書くようなもので、つまり使用する活字の(メーカーの)問題で、この場合は論旨にも作品鑑賞にも何の影響もないと思うからである。與次郎を与次郎と書くのも同様である。――とはいえ論者も鷗外を鴎外とは書かないし、芥川竜之介と書く「勇気」もまた持ち合わせない。では机竜之助・与謝野晶子国木田独歩ではいけないかと言うと、それは恥ずかしながら何とも言えない(机龍之助・與謝野晶子・國木田獨歩)。
 蕪村は徳川期の人にとって與謝であったか与謝であったか。中世近世の人が実際に(墨と筆で)どう書いたかということと、近代の印刷術における(鉛の)活字がどのようにデザインされたかということとは、別の問題ではなかろうか。いわんや現代の電子的に管理されるフォントをや。所詮その時その時に誰かが作ったものに過ぎまい。
 ともかく『永日小品』の「長澤」も本来なら「長沢」とすべきところであろうが、長塚との類推のため、(このくだりだけわざと)旧字体を使用した。

漱石「最後の挨拶」道草篇 13

387.『道草』先行作品(2)――『文鳥』と『夢十夜』(つづき)


 最後にもう1つだけ。先の項で漱石の初恋にかこつけて『文鳥』の記述をあれこれ探ったが、この小品に綴られた1羽の文鳥そのものの印象は、『行人』三沢の初恋(おそらく)の女に似ている。例の出帰りの娘さんである。

 宅のものが其娘さんの精神に異状があるという事を明かに認め出してからはまだ可かったが、知らないうちは今云った通り僕も其娘さんの露骨なのに随分弱らせられた。父や母は苦い顔をする。台所のものは内所でくすくす笑う。僕は仕方がないから、其娘さんが僕を送って玄関迄来た時、烈しく怒(おこ)り付けて遣ろうかと思って、二三度後を振り返って見たが、顔を合せるや否や、怒る所か、邪見な言葉などは可哀そうで到底(とても)口から出せなくなって仕舞った。其娘さんは蒼い色の美人だった。そうして黒い眉毛と黒い大きな眸を有っていた。其黒い眸は始終遠くの方の夢を眺ているように恍惚(うっと)と潤って、其処に何だか便のなさそうな憐を漂よわせていた。僕が怒ろうと思って振り向くと、其娘さんは玄関に膝を突いたなり恰も自分の孤独を訴えるように、其黒い眸を僕に向けた。僕は其度に娘さんから、斯うして活きていてもたった一人で淋しくって堪らないから、何うぞ助けて下さいと袖に縋られるように感じた。――其眼がだよ。其黒い大きな眸が僕にそう訴えるのだよ」(『行人/友達』33回)


 漱石の初恋もまた、助けを求める漱石自らの魂の叫びであったとすれば、その相手を(漱石の作品を離れて)興味本位に探ろうとする試みは、(この文鳥もしくは娘さんに免じて)厳に慎まなければなるまい。

・プレ第1集B『夢十夜』明治41年7月

第1夜「白百合」 「百年待っていて下さい。屹度逢いに来ますから」~百年後に咲いて自分に絡みつく白百合の花~「百年はもう来ていたんだな」
第2夜「結跏」 禅坊主との対決~無とは何ぞ~朱鞘の短刀
第3夜「人殺し」 百年前に人を殺したことがある~目の潰れた6歳の子供を背負っている~その子供に導かれて百年前の現場へ
第4夜「蛇」 蛇を探して川の中へ入って出て来ない爺さん~飴屋の笛を吹くと手拭が蛇に変わる~手拭を箱の中に入れて川へ入って行く
第5夜「天邪鬼」 神代の敗将が自分の女を天邪鬼に殺された話~白馬を駆って自分に逢いに来る女~夜明けを告げる鶏の擬声
第6夜「運慶」 運慶がまだ仁王を彫っている~木の中に仁王が埋まっているのだという~自分も彫ってみたが明治の木には仁王は埋まってなかった
第7夜「異人船」 どこへ向かうのか分からない大きな異人の船に乗っている~サロンのピアノの前に1組の男女がいる~心細くて悲しいので身を投げることにする
第8夜「床屋」 床屋の鏡に色んなものが映る~白い着物の職人に自分の将来を尋く~札を数えるおかみと店の外の金魚売り
第9夜「幕末」 母から聞いた古い話~父がいなくなったので母は3つの子を背負って御百度踏む~父はとっくの昔に浪士に殺されていた
第10夜「庄太郎」 パナマ帽子の庄太郎が女に7日間攫われた話~毎日無量の豚を谷へ叩き落とす~7日目に精根尽きて豚に舐められてしまう

 どの夢も死と直結している。どの夢の話も怖い。死と直結しているから怖いのか。そうではあるまい。生き物である以上(本能として)死を厭うのは当然としても、死は苦しいことのみ多い人生に永遠の平穏をもたらす、唯一の秘薬であると漱石もまた信じていた。
 生は謎であるが(自分が今ここに、なぜ自分として生を受けているかは、本人にとっては永遠の謎である)、死は生の帰結であるから謎ではない。生あって始めて死ねるのであるから、漱石も死はいっそめでたいものであると言っている。これを大庭葉蔵(『人間失格』の)は、「死はコメ(喜劇)、生はトラ(悲劇)」と言った。では生が怖いのか。
 生が怖いとすれば、それは生に死が貼り付いているからであろう。とすれば話は元に戻ってしまう。生と死が鶏と卵のような、終りのない議論に落ち込まないためには、時間という概念を払拭する必要がある。だがそれは並の人間に出来る技でもなければ、考えて分かるものでもないようだ。
 3段論法ではないが、結局怖いのは時間ということになる。いっぽう夢には時間がない。百年の恋も一瞬で見るのが夢である。その一瞬を非時間と解して、ヴィトゲンシュタインは、「今を生きる者は永遠に生きる」と言った。(本ブログ野分篇23を参照のこと。)
 生と死同様、夢もまた怖くない。怖いのは時間である。漱石の『夢十夜』が怖いのは、その中に漱石の感じる不気味な「時間」が、読者にも(巧みな話術のせいで)伝わって来るからである。
 時間とは何か。これを凡人が答えることは出来ないが、夢がそのヒントになると想像することは許されるだろう。心理学を離れても、夢を脳細胞の単なる気まぐれと見るか何かの顕現と見るかは自由であろうが、夢は時間という「物質」の正体(本質)を、我々にそっと教えてくれるかのようである。

 そんな理屈を差し置いて、漱石の『夢十夜』が怖いのは慥かであるが、一番怖いのが第2夜「結跏」(座禅)であろうか。

 自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと云う程擲った。そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。両腋から汗が出る。背中が棒の様になった。膝の接目が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。無は中々出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に口惜しくなる。涙がほろほろ出る。一と思に身を巨巌の上に打けて、骨も肉も滅茶滅茶に摧いて仕舞いたくなる。
 それでも我慢して凝っと坐っていた。堪えがたい程切ないものを胸に盛れて忍んでいた。其切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、何処も一面に塞って、丸で出口がない様な残刻極まる状態であった
 其の内に頭が変になった。行灯も蕪村の画も、畳も、違棚も有って無い様な、無くって有る様に見えた。と云って無はちっとも現前しない。ただ好加減に坐っていた様である。所へ忽然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
 はっと思った。右の手をすぐ短刀に掛けた。時計が二つ目をチーンと打った。(『夢十夜』第2夜末尾)

 座禅をして無とは何かを考えようとしているのであるが、漱石の文脈でいえば無とは「父母未生以前本来の面目」ということであろう。しかしこの夢はそんな「文芸的な」苦しみを訴えたものではなくて、漱石を隔年くらいに襲う精神的パニックについて、その剝き出しの恐怖心を書いたものではないか。
 漱石は(『虞美人草』甲野さんで少し披瀝したあと、)『行人』一郎に託してその恐怖心を半分くらい描いた。残りの半分を『道草』健三が分担したわけであるが、発狂の恐怖はおそらく死ぬまで持ち続けたことであろう。短刀(九寸五分)は自死への願望であり、時計はそれを現実に引き戻す魔法のランプである。漱石の小説に時計(時刻)がよく出てくるのは、それが救いにつながると漱石が信じていたからではないか。それでも発狂の恐怖そのものについて、『夢十夜』のような直截的な書き方は、他の小説の中には見られない。
 ところが1ヶ所だけ、『猫』の大喜利たる寒月のヴァイオリン事件にかこつけて、その片鱗が覗える記述がある。

「それから、我に帰って、あたりを見廻わすと、庚申山一面はしんとして、雨垂れ程の音もしない。はてな今の音は何だろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし。鳥の声にしては大き過ぎるし。猿の声にしては――此辺によもや猿は居るまい。何だろう? 何だろうと云う問題が頭のなかに起ると、之を解釈し様と云うので今迄静まり返って居たやからが、紛然雑然糅然として恰もコンノート殿下歓迎の当時に於ける都人士狂乱の態度を以て脳裏をかけ廻る。其うちに総身の毛穴が急にあいて、焼酎を吹きかけた毛脛の様に、勇気、胆力、分別、沈着抔と号する御客様がすうすうと蒸発して行く。心臓が肋骨の下でステテコを踊り出す。両足が紙鳶のうなりの様に震動をはじめる。これは堪らん。いきなり、毛布を頭からかぶって、ヴァイオリンを小脇に掻い込んでひょろひょろと一枚岩を飛び下りて、一目散に山道八丁を麓の方へかけ下りて、宿へ帰って布団へくるまって寝て仕舞った。今考えてもあんな気味のわるかった事はないよ、東風君」
「それから」
「それで御仕舞さ」
「ヴァイオリンは弾かないのかい」
「弾きたくっても、弾かれないじゃないか。ギャーだもの。君だって屹度弾かれないよ」
「何だか君の話は物足りない様な気がする」(『猫』第11篇)

 東風との会話はふざけているように書かれてはいるが、寒月の恐怖心は『夢十夜』に書かれたものと同じであろう。

 次に怖いのが第7夜「異人船」である。
 大きな船とは社会とか地球、人生そのものであろう。異人ばかり乗っているというのは仲間がいなくて孤独ということ。心細いので身を投げようかと早くも思っている。女が1人デッキで泣いている。悲しいのは自分だけではないらしい。サロンのピアノの前の1組の男女はまるで別世界の人のよう。意を決して海中へ飛び込む。その瞬間急に命が惜しくなった。しかし既に目の前に昏い海が迫る。

 そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎて仕舞った。自分は何処へ行くんだか判らない船でも、矢っ張り乗って居る方がよかったと始めて悟りながら、しかも其の悟りを利用する事が出来ずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。(『夢十夜』第7夜末尾)

 いくら死はめでたいと言っても、生き物はそれを自らは行なわないことになっている。ヴィトゲンシュタインは「死は人生の1イベントではない。人は死を経験しない。死は人の経験するものの範囲を超えた、何物かである」と言ったが、自らそれを実行するとなると、最期の一瞬には「無限の後悔と恐怖」に見舞われることがありうる。ありきたりの文言がかえって不気味さを増す。

 第3夜「人殺し」(急に石のように重たくなる背中の子供)も普通に恐い。生家の近くの原っぱを歩く男も負ぶさった子も同じ漱石であるところが怖い。明治41年の百年前が文化5年である。今は明治41年である。今年「六つになる子供」は3女栄子が該当するが、栄子が6歳なら愛子4歳純一2歳、そして伸六が鏡子の腹の中にいる。やはりこの話の6歳の子は漱石自身であろう。漱石6歳の明治5年は、塩原昌之助が金之助を自身の嫡男として入籍した年であるが、まさかそれを言っているのではないだろう。

 第8夜「床屋」には死は登場しないではないかと言われそうである。そうかも知れない。床屋の中か、床屋の鏡に映る世界か、鏡に映らない者もいるが、表の金魚売りか、帳場で立膝のまま札を際限なく勘定する女か、どれもが彼岸の世界のようである。何より鏡の前の椅子に座った自分が、「(将来)物になるだろうか」と鋏と櫛を持った職人に問い掛けるところが、たまらなく不気味である。
 万華鏡に映る往来の先頭人物に、第10夜の主人公パナマ帽の庄太郎が登場する。『夢十夜』で唯一、夢をまたがった連携である。庄太郎はもちろん最後にパナマ帽と共に死んでしまう。

 その第10夜「庄太郎」と第1夜「白百合」が、平たく言えば女に取り憑かれる男の話である。『夢十夜』の最初と最後に女の話を配した。結局女が一番怖いという漱石一流の洒落とも取れる。
 第1夜の白百合は『それから』で三千代のテーマとして奏でられ、第10夜の庄太郎を舐めた豚は『三四郎』の冒頭で髭の男によって「気をつけなければいけない」というオチのために登場する。この『三四郎』のエピソードが森田芳光監督(筒井ともみ脚本)の名作映画『それから』に転用されたのは、『夢十夜』を重く見たゆえであろうか。広田先生の豚の戒飭は直接女を指すものではないが、三四郎にとっては前夜の汽車の女の振舞いを思い起こさずにはいられない話であり、映画『それから』でも代助の遊蕩シーン(芸者に囲まれたシーン)に使われている。豚が(『夢十夜』の作家の主張通り)女に対する戒めのシンボルになっているのである。

 第8夜での床屋という舞台もまた、小説では『草枕』(第5章)に登場して印象深いが、(おそらく)最後に『硝子戸の中』で、名残を惜しむかのように漱石の円熟した筆で描かれた。髪結床(浮世床)は落語の定番で、漱石には馴染みの深いものであったろうが、それでもこの『夢十夜』を除いては、生涯で小説と随筆にわずか1回ずつしか書かれることがなかった。読者は漱石作品がいかに贅沢に作られていることか、と感嘆せずにはいられないが、ただありきたりの舞台にそうそう載りたくないという気持ちが働いたせいともいえる。
 第9夜「幕末」のような御一新当時のエピソードも、漱石の小説では『それから』で1回、そしてやはり『硝子戸の中』で1回、印象的に語られるのみである。漱石は自分や自分の家が(かつて)仕えた政府に関心がなかった。その両者がかつて闘ったことがあるなどということは、さらにどうでもよいことであった。本当はそうではないのかも知れないが、少なくとも漱石の言動からは維新の活動家や戊辰戦争に対する興味は(日露戦争ほどにも)伺われない。

 第4夜「蛇」は『永日小品』に直結する。怪しげな親爺は大道芸人的な香具師の世界にもつながるが、その起源は養父塩原昌之助であろうか。自分の「父」ではあるものの、限りなく胡散臭く、また懐かしいのである。

 第6夜「運慶」も漱石としては珍しい歴史物に属するが、中世と現代との対比を行なっている。一番の違いは宗教観であり、信じる力の違いが偉大な芸術作品に現前するということであろう。その力とは、ただ中世の人が輪廻転生を信じていたからに過ぎないという言い方もあるが。

 第5夜「天邪鬼」は神代の話である。西洋も東洋もない混沌の時代であろうが、男女の愛はすでに存在した。それを妬む邪神さえ知られていたのである。天邪鬼のルーツは西教にあるから、第5夜は第7夜「異人船」と並ぶ西洋物とも言えよう。

 漱石は初期の習作で図らずも倫敦や英国を題材にしたものをいくつか書いたが、『猫』と『野分』にも西洋人をちょっとだけ登場させた。
 その趣味は『夢十夜』にも引き継がれたわけだが、続く『三四郎』『永日小品』『それから』『満韓ところどころ』『思い出す事など』に、(景色の一部としてであれ)西洋人は少しずつ出て来る。
『門』だけが例外であるが、これは宗助御米夫婦の生活に余裕がないことの象徴か、それとも小説冒頭大連駅頭において、露西亜政府要人と会う伊藤博文が撃たれたことで、もうそれ以上のことは書けなくなったのか。あるいは安井と坂井の弟の蒙古における馬賊まがいの冒険譚に、外国のことはまかせたのか。
 それはともかく小説に西洋人を書き込む癖は、『彼岸過迄』『行人』『心』の3部作まで律儀に継続された。登場シーンはほんの一瞬であるものの、読者は明石の砂浜での戯れ、紅が谷の別荘地でのピアノの音、真夏の鎌倉の海水浴場を忘れることができない。
 ところで最後の3部作『道草』『明暗』で、漱石の小説から西洋人のエキストラは一掃されてしまった。『硝子戸の中』も純国産である。何か理由があるのだろうか。
 西洋人の出て来ない『坊っちゃん』『草枕』『虞美人草』にしても、その必要がないくらいハイカラな小説である。西洋かぶれの赤シャツ。英語入り都々逸の芸者。シェリーの詩を暗唱し、メレディスを原書で繙読する画工。日本人離れした登場人物揃いの(最も日本人らしい藤尾の母は「謎の女」と書かれる)『虞美人草』。あとの小説は(前述の『門』以外)、『心』まですべて西洋人の出番がある。
 それが洋行帰りの健三を描いた『道草』から、嘘のように西洋人が閉め出された。まさか急に国粋主義者になったわけではあるまい。こんなところにイザヤベンダサンが漱石日本教の教祖呼ばわりした要因があるのかも知れない(正確には『草枕』を日本教の創世記に喩えただけであるが)。

漱石「最後の挨拶」道草篇 12

386.『道草』先行作品(1)――『文鳥』と『夢十夜


 漱石の「明治39年怒りの3部作」には(『猫』は別格として)、それぞれ先行作品というものがある。
・『坊っちゃん』――『趣味の遺伝』(小説の結び方の秘訣)
・『草枕』――『一夜』(温泉宿の怪事件)
・『野分』――『二百十日』(友情物語)

 新聞小説になってからは、さすがにそんなものは存在すべくもなくなった。慥かにそうであろう。1作1作が漱石の生の証しであり、唯一無二の完成品である。(『虞美人草』と『坑夫』だけは、それに続く遠大な3部作群のための試作品であると言えなくもないが。)
 だが何事にも例外はある。『道草』にはメインテーマたる「夫婦物語」の先行作品として、『野分』の存在が挙げられよう。さらには『道草』ならではの特色として、漱石に自己の生い立ちについて語った随筆のようなものがあれば、それらは立派に『道草』の先行作品とならざるを得ない。

・第1集『永日小品』 明治42年1月~3月
・第2集『満韓ところどころ』 明治42年10月~12月
・第3集『思い出す事など』 明治43年10月~明治44年2月
・第4集『硝子戸の中』 大正4年1月~2月

 漱石の随筆集はこの4冊だけであるが、これらを漱石の3部作作品等との関連で示すと(日付はいずれも執筆ベース)、

〇青春3部作
・『文鳥』と『夢十夜』 明治41年5月~7月
・『三四郎』 明治41年8月~10月
・第1集『永日小品』 明治42年1月~3月
・『それから』 明治42年6月~8月
・第2集『満韓ところどころ』 明治42年10月~12月
・『門』 明治43年2月~6月
・(修善寺の大患 明治43年8月~10月)
・第3集『思い出す事など』 明治43年10月~明治44年2月

〇中期3部作
・『彼岸過迄』 明治45年1月~4月
・『行人』 大正1年12月~大正2年3月・大正2年7月~9月
・『心』 大正3年4月~7月

〇晩期3部作
・第4集『硝子戸の中』 大正4年1月~2月

『道草』 大正4年5月~9月
・第5集『点頭録』(未完) 大正5年1月
・『明暗』(未完) 大正5年5月~11月
・『(幻の最終作品)』(仮定) 大正6年~大正7年
・第6集『(幻の旅行記)』(仮定) 大正7年~大正8年

 論者の想像では、『明暗』の完成とともに『点頭録』の続きも書かれ、朝日退社を考える漱石は「幻の最終作品」を書き了えたあと、新聞小説の断筆を宣言する。朝日は退職金代わりに鏡子との旅行をプレゼントし、その旅行記が最後の連載となる――。
 推測の話はともかく、別名の多かった中期3部作(※)に、また1つ「随筆の付着しない純粋培養の小説3部作」という特長が加わることと、『硝子戸の中』が『道草』と不可分の関係にあることが、上表からも伺われよう。

※注)中期3部作の異称
「短編形式3部作」「善行3部作」「不思議3部作」「括弧書3部作」「自画自讃3部作」「謀略3部作」「一人称3部作」「鎌倉3部作」「ヒロイン途中退場3部作」そして今回の「エセイなし3部作」

 * * *

 上記随筆の一部は、前項まで「漱石と初恋」という観点から先行して取り上げもしたが、本項以降はいったん初恋問題を離れて、『道草』につなぐべき漱石の随筆集4冊の概要を順に追って見てみよう。まずは第1集『永日小品』からであるが、その前に『永日小品』の先行作品たる『文鳥』と『夢十夜』をみることにする。

・プレ第1集A『文鳥』 明治41年5月

文鳥』は、漱石が明治40年10月に早稲田南町に移って、12月に鈴木三重吉が鳥籠と共に5円で買って来た1羽の文鳥(おそらく雌)にまつわるエセイである。その中に数箇所含まれる「美しい女」の記述のおかげで、漱石ファンの間で妙に有名になっているが、女の話は既述したのでこれ以上取り上げない。
 1週間か10日くらいですぐに死んだ文鳥の話自体はひどいものである。猫・犬含め夏目家は生き物を飼うのに適さない家である(助かりそうにない金魚の話は『行人』冒頭にちょっと出て来る)。すでに漱石という難しい生き物(天才)がいる以上、それは已むを得ないことかも知れない。それでも『坑夫』を書いている文豪の気持ちを束の間でも慰められたとしたら、(『坑夫』とともに)『文鳥』の存在意義もなしとしない。
 ちなみに文鳥は「千代千代」と鳴くというのが鈴木三重吉の主張であるが、漱石もそれは是認したのか、このあと「三千代」(『それから』)、「千代子」(『彼岸過迄』)と、ヒロインに2人の千代を続けざまに登場させた。

1回 鈴木三重吉が来て文鳥を飼えと云う。
2回 三重吉と豊隆が文鳥の入った竹籠を持って来た。
3回 文鳥に餌をやる。逃げないように入口を塞ぐのは気の毒。
4回 小説(『坑夫』)を書きながら文鳥を観察する。
5回 文鳥は千代千代と鳴く。夜は箱に入れた。
6回 文鳥は1本脚で立っている。家の者も水や餌を与えているようだ。
7回 馴れると人の指から餌を食べるというが、三重吉は嘘を吐いたに違いない。
8回 世話のし忘れ。猫の攻撃。三重吉の私的な件で家を空ける。
9回 文鳥が死んでいた。下女を𠮟りつける。

 しかし『文鳥』を読んで一番びっくりするのは、前述のような「昔の美しい女性にまつわる追憶」の連続した記述ではなく、ラストの次のような漱石のカミナリである。

 十六になる小女が、はいと云って敷居際に手をつかえる。自分はいきなり布団の上にある文鳥を握って、小女の前へ抛り出した。小女は俯向いて畳を眺めた儘黙っている。自分は、餌を遣らないから、とうとう死んで仕舞ったと云いながら、下女の顔を睥めつけた。下女は夫れでも黙っている。
 自分は机の方へ向き直った。そうして三重吉へ端書をかいた。「家人が餌を遣らないものだから、文鳥はとうとう死んで仕舞った。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌を遣る義務さえ尽さないのは残酷の至りだ」と云う文句であった。
 自分は、之れを投函して来い、そうして其の鳥をそっちへ持って行けと下女に云った。下女は、どこへ持って参りますかと聞き返した。どこへでも勝手に持って行けと怒鳴りつけたら、驚いて台所の方へ持って行った。(『文鳥』9回)

 文鳥の飼い方について、漱石の家で三重吉からレクチャを受けた者は漱石以外にいないのであるから、文鳥の死はどう考えても漱石に責任がある。漱石がそれを認めないのは仕方ない。しかし三重吉(豊隆でも)は鏡子夫人か女中の誰かにも小鳥の世話を教えるべきであった。長男純一はまだ赤ん坊だが、4人の女の子はそれぞれ明けて10歳・8歳・6歳・4歳、家に文鳥が来ればむしろ夢中になる年頃だろう。ふつうの家庭なら、するなと言っても手伝いをしたがるはずである。漱石との対照(反響)であろうか、漱石の弟子たちはなぜか基本的に暢気な人(暢気に見える人)が多い。だから同じ意味で鏡子夫人とウマが合うのである。
 小説でも漱石の登場人物は神経質でよく癇癪を起すが、上記引用の最後の文節は、『坊っちゃん』の萩野の婆さんに対するカミナリを彷彿させる。

 おれは新聞を丸めて庭へ抛げつけたが、夫でもまだ気に入らなかったから、わざわざ後架へ持って行って棄てて来た。新聞なんて無暗な嘘を吐くもんだ。世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞程の法螺吹きはあるまい。・・・顔を洗ったら、頬ぺたが急に痛くなった。婆さんに鏡をかせと云ったら、けさの新聞を御見たかなもしと聞く。読んで後架へ棄てて来た。欲しけりゃ拾って来いと云ったら、驚いて引き下がった。・・・(『坊っちゃん』第11章初めの辺)

 ここで言うことではないかも知れないが、『坊っちゃん』という小説の構図は、エセイたる『文鳥』の構図に驚くほど似ている。懐かしい昔話の上に、忌々しい現実の事件が乗っかって、本人の意に反して主人公は引っ掻き回され、最後に癇癪玉が破裂する。突然発生のように『坊っちゃん』ではマドンナが、『文鳥』では昔帯上げの房でいたずらした女の話が登場するが、この両人のセリフは一切ない。彼女たちは生きて自分の言葉を発しない。そしてここが肝要だが、どちらも作者自身と思われる人物が(何のメイクも施されず)そのまま描かれている。素の自分をそのまま描いて不朽の作品になるのだから、亜流の出る幕はないのである。

 ところで猫が代名詞になっている感もある漱石だが、ペットらしきものが登場する小説は意外と少ない。漱石の家には猫も犬もいたが、とくに猫に関しては『吾輩は猫である』の後の小説には一切登場させなかった。あの(吾輩の)猫に義理立てしたのか、あまりにも処女作の印象が強いので、出てくるだけで冗談になると思ったのか。
『行人』の金魚は先に少し触れたが、ペットの出てくる漱石の小説は(『猫』を別物とすれば)次の3例だけである。

・青春3部作『それから』 兄誠吾の家で飼っているヘクター。
・中期3部作『行人』 天下茶屋岡田の家の助からない金魚。
・晩期3部作『明暗』 津田の会社の玄関に棲みつく茶色の犬。

『それから』のヘクターは、『硝子戸の中』のヘクトーとは別物である。先の項の年表に、

大正3年10月 ヘクトー死す(牡4歳)

 と記したが、宝生新が漱石の家に仔犬を持って来たのは、(『硝子戸の中』で「三四年前」とあるから)明治44年~45年のころのことと思われる。『それから』の書かれた明治42年夏とは年代が合わない。『それから』青山(赤坂)の長井家のヘクターは、耳の垂れた毛の長い英国産の大きなハウンドドッグであり、口を革紐で縛られているという。早稲田の漱石の家で実際に飼われていた「ヘクトー」は、猟犬ではないようだ。通行人を噛んだこともあり、行方不明になったこともある。まあ駄犬であろう(漱石は役所に「混血」と届けている)。

『門』坂井家でも犬がいたことにはなっているが、例の泥棒事件で坂井家が紹介されたときにはこの猟犬は入院中で不在であり、物語の最後までついに登場することはなかった。読者は漱石が(その後のストーリー展開に関係ないので)忘れたのだろうと思うが、ペットというアイテム(飼い犬)は『それから』ですでに書かれているがゆえに、漱石は同じ3部作に2度使わなかっただけかも知れない。

 千駄木・西片・早稲田南町と文豪になる漱石を見届けるかのように生きたあの黒猫。漱石山房では猫は3代目を数え、ヘクトーも飼っていたが、自伝ふうの『道草』にそれらは登場しない。生き物が「生きて」描かれることはなかった。――あたかもこの世には人間だけで沢山だと謂わんばかりに。
 晩期3部作でその任に当たったのが『明暗』であろう。津田の勤める会社の玄関先で、給仕の少年とともに描かれる茶色の犬は妙な存在感を放つが、この犬には仲間がいる。

・赤い(茶色の)革靴を剝犬の皮と同級生に揶揄される藤井家の「従弟」の真事。
・上から垂らされた餅菓子に、縁の下から犬のように食いつく岡本家の長男にして末っ子の一(はじめ)は真事の同級生。
・物語の最後に津田が行く温泉宿の軒下に寝そべる、飼い犬か野良犬か分からない犬。
・その津田の、清子の部屋の場所が分かるという天眼通ならぬ天鼻通は、猟犬より確かとベテラン女中のお墨付きを得る。

 ヘクトーは明らかに名前負けしてわずか3、4年しか生きなかったが、『明暗』の名前のない犬たち、犬に擬される登場人物たちは、何か碌でもないことの象徴として、(未完の)『明暗』の物語をいつまでも生き続けようとしているかのようである。――漱石のつもりでは単に3部作の中でのペット問題を消化しているだけかも知れないが。
 それでは同じく実生活でも名前の付けられなかった黒猫の方はというと、

明治36年3月 千駄木
明治37年7月 黒猫迷い込み
明治37年11月 『猫』(第1篇)
明治39年3月~12月 『坊っちゃん』『草枕』『野分』
明治39年12月 西片町
明治41年9月 早稲田南町
明治41年5月 『文鳥
明治41年7月 『夢十夜
明治41年8月~10月 『三四郎
明治41年9月 猫の死亡通知(牡5歳)

 漱石の処女作の成立に深くかかわったこの福猫は、『坊っちゃん』『草枕』等の名作とともに生き、『文鳥』『夢十夜』のあと(前項で述べた、漱石が始めて自分のタブローにサインしたというべき)『三四郎』が出来上がるのを横目で見ながら、満4年なにがしかの生涯を了えた。現代とは時代が違うにせよ、歴史に名を残すべき猫としては、(哀れなヘクトー共々)余りに短命であったと言わざるを得ない。