明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 10

384.『道草』初恋考(3)――漱石の初恋とは何ぞ(二十代後半篇)


 ここで本ブログ第5項(漱石のウィルヘルムマイスター)から、「漱石の徒弟時代」の後半~「遍歴時代」の前半を再掲したい。

漱石の徒弟時代》(牛込喜久井町
明治23年7月 第1高等中学校本科(文科)卒業
明治23年8月 眼病
明治23年9月 帝国大学文科大学英文学科入学
明治24年7月 眼医者にて(子規への手紙「銀杏返しに丈長」)
明治24年7月 富士登山2度目(中村是公等と)
明治24年7月 嫂登世死去(25歳)
明治24年9月 帝大英文科(2年次)
明治25年4月 北海道岩内に送籍
明治25年4月 東京専門学校講師
明治25年5月 三兄直矩再々婚
明治25年7月 岡山旅行・片岡家滞在・大洪水
明治25年8月 松山訪問
明治25年9月 帝大英文科(3年次)(子規は落第)
明治26年1月 塩原昌之助かつ入籍
明治26年3月 子規退学
明治26年7月 帝大英文科卒業~大学院進学
明治26年7月 鎌倉参禅・日光旅行
明治26年7月 帝大寄宿舎へ移る

漱石の遍歴時代》(寄宿舎・法蔵院・松山)
明治26年10月 高等師範講師(この頃より父への返済始まる)
明治27年2月 初期の肺結核
明治27年7月 伊香保温泉行
明治27年8月 日清戦争
明治27年8月 松島旅行・湘南旅行
明治27年9月 帝大寄宿舎を出て菅虎雄の家へ移る
明治27年10月 法蔵院尼僧事件
明治27年12月 鎌倉参禅(父母未生以前の面目)
明治28年3月 大塚楠緒子21歳・保治28歳結婚式
明治28年3月 東京専門学校・高等師範辞任
明治28年4月 松山中学着任

 前項で述べた、眼科(明治24年7月)法蔵院(明治27年10月)の3年間は一目瞭然であろう。鏡子の話は明治27年の方である。「背のすらりとした」「年寄りに親切」といった話は、明治24年の書簡には一切書かれていない。似たようなシチュエーションが明治27年にあったというなら、それは否定しようがないが、明治26年7月の卒業~大学院進学(事実上学者という地位を得る)~寄宿舎移住を以て、漱石の遍歴時代はもう始まっている。
 その始まりの精神的危機(法蔵寺尼僧事件)については、上記年表①~⑤のそれぞれに、話の基となる手紙(④については狩野享吉の回想)が残されている。

①明治27年2月肺結核の初期
 下谷区根岸正岡子規宛書簡
固より死に出た浮世なれば命別段惜しくもなけれど、先ず懸替のなき者なれば使える丈使うが徳用と存じ」「小生も始め医者より肺病と承り候節は少しは閉口仕候えども、其後以前よりは一層丈夫の様な心持が致し、医者も心配する事はなし抔申すものから俗欲再燃、正に下界人の本性をあらわし候、是丈が不都合に御座候えども、どうせ人間は欲のテンションで生て居る者と悟れば夫も左程苦にも相成ず申し、先ず斯様に欲がある上は当分命に別状は有之間敷かと存じ候」(明治27年3月12日寄宿舎より)(同年3月9日菊池謙二郎宛書簡も同内容)

②明治27年7月伊香保温泉行
 群馬県勢多郡木瀬村小屋保治宛書簡
「拝啓仕候、小生義今七時二十五分の汽車にて出立、午後六時頃当地着、表面の処に止宿仕候。木暮武太夫方へ参り候処、浴客充満にて空き間なく、因て同家番頭の案内にて両三家の空き間相尋ね候処、思わしき処無之あり、とても一人にては先方にて困ると申す様な事にて不得已当家に参り候。勿論上等の処にては無之候えども室は北向の六畳にて兼て御話の山光嵐色は戸外に出で坐して掬すべき有様にて少しは満足致候。然し浴室抔の汚なき事は余程古風過ぎて余り感心仕りがたく候。然し汚なき事は伊香保の特色ならんかとあきらめ居候。(未だ市街は散歩せざれども)家屋は総体こけらぶきにて眼界の三分一は此不都合な茶褐色の為めに俗了被致候。かかる処に長居は随分迷惑に御座候えども、大兄御出被下候わば聊か不平を慰すべきかと存じ、夫れのみ待上候。願わくは至急御出立、当地へ向け御出発被下度願上候也。余は後便に譲る」
「7月25日夜」伊香保町萩原重作方より)(全文)

③明治27年8月松島旅行・湘南旅行
 下谷区根岸正岡子規宛書簡
「元来小生の漂泊は此三四年来沸騰せる脳漿を冷却して寸尺の勉強心を振興せん為のみに御座候。さすれば風流韻事抔は愚か只落付かぬ尻に帆を挙げて歩ける丈歩く外、他の能事無之願くば到る処に不平の塊まりを分配して、成し崩しに心の穏かならざるを慰め度と存候えども、何分其甲斐なく理性と感情の戦争益劇しく、恰も虚空につるし上げられたる人間の如くにて、天上に登るか奈落に沈むか運命の定まるまでは安心立命到底無覚束候」
「去月松島に遊んで瑞巌寺に詣でし時、南天棒の一棒を喫して年来の累を一掃せんと存候えども、生来の凡骨到底見性の器にあらずと其丈は断念致し候故、踵を回らして故郷に帰るや否や再び半肩の行李を理して南相の海角に到り、日夜鹹水に浸り妄りに手足を動かして落付かぬ心を制せんと企て居候、折柄八朔二百十日の荒日と相成、一面の青海原凄まじき光景を呈出候。是屈究と心の平かならぬ時は随分乱暴を致す者にて直ちに狂瀾の中に没して瞬時快哉を呼ぶ折、宿屋の主人岸上より危ない危ないと叫び候故、不入驚人浪難得称意魚と吟出したれど、主人禅機なき奴と相見え問答も其丈にて方がつき申候。右の有様故別段面白き事もなく只銭を使った処が大兄よりは幅が利く丈にて其他のコンジションは大兄の方遥かによろしくと断定仕候間御自身も左様御承知可被下候」
「小生近日中下宿致すやも計りがたく候。其折は又御報知可申上候」(明治27年9月4日寄宿舎より)

④明治27年9月 帝大寄宿舎を出て菅虎雄の家へ移る
 狩野享吉「漱石と自分」(談話)
「夏目君は大学卒業後、伝通院の傍の法蔵院というのに菅君が前にいた関係から下宿したが、そこは尼さん出入りすると言って、それを恐れてどうも気に入らぬ。それでは俺のところへ来いと、菅君がその頃住っていた指ヶ谷町の家へ引ぱって行った。そこで最初に菅君を驚かすようなことがあったのだが、それは菅君が一番詳しく知っている事で、自分が語るべきでない
 又これらのことは夏目夫人が或は『思い出』の中に書いているかも知れない。一体自分の知っていることは多分『思い出』の中やその他にすでに発表されていて、世人に耳新しいことはないだろう。又あるとしてもそれは下らないことであるからここに話すのも無駄のように思うのだ」(昭和10年12月8日付朝日新聞)(引用は岩波版漱石全集別巻「漱石言行録」による)

⑤明治27年10月法蔵院尼僧事件 下谷区根岸正岡子規宛書簡
「塵界茫々毀誉の耳朶を撲つに堪えず此に環堵の室を賃して蠕袋を葬り了んぬ。猶尼僧の隣房に語るあり、少々興醒申候。御閑の節是非御来遊を乞う」(明治27年10月16日小石川区表町73番地法蔵院より)(全文)
「小生の住所は先ず伝通院の山門につき当り左に折れて又つき当り、今度は右に折れて半町程先の左側の長屋門のある御寺に御座候。浄土宗の寺にて住持は易断人相見抔に有名な豊田立本という。図にて示せば大略右の如し。午後は大抵閑居す。必用なければ何処へも出ず、隣房に尼数人あり。少しも殊勝ならず。女は何時までもうるさき動物なり
「尼寺に有髪の僧を尋ね来よ」(明治27年10月31日小石川区表町73番地法蔵院より)(全文ただし図は略す)

 明治24年頃から漱石の心の中にわだかまったものが何か生き続けていたらしいことは推測できるものの、具体的なことは何も分からない。④についても肝心の菅虎雄が何も書き残していない以上、読者は想像するしかないのであるが、狩野享吉の仰せに従って鏡子の『思い出』に立ち返ってみると、前項で取り上げた引用部分の続きに、とんでもないことが書かれてある。

追跡症
 丁度その事件(井上眼科事件)の最中で頭の変になっていた時でありましょう。突然或る日喜久井町の実家へかえって来て、兄さんに、
「私のところへ縁談の申込みがあったでしょう」と尋ねます。そんなものの申込みに心当りがなし、第一目の色がただならぬので、
「そんなものはなかったようだよ」と簡単にかたづけますと、
「私にだまって断わるなんて、親でもない、兄でもない」ってえらい剣幕です。兄さんも辟易して、
「一体どこから申込んで来たのだい」となだめながら訊ねましても、それには一言も答えないで、ただ無暗と血相を変えて怒ったまま、ぷいと出てしまった。兄さんも心配でなりません。なんでああぷりぷり怒っているのか、なんでああいうただならぬ様子をしているのか。ともかく法蔵院へ行ってゆっくり尋ねて見たら仔細もわかることだろう。こう思ってお寺へ行かれた。が、てんで寄りつけもしない剣幕で、そんな不人情者は親でもない兄でもないを繰りかえして、親爺は没義道のことをしても、それは親だから子として何ともいうことは出来ないが、兄は怪しからんと食ってかかる始末に、その申込みの当の相手のことをたずねても、それは相変らず一言も洩らさないので、手がつけられないのでそれなりに帰られたそうです。法蔵院の尼さんに変わった様子でもないかとそれとなく帰りぎわにたずねて見ると、夏目さんの部屋の方でも見ているのがみつかろうものなら、近頃はひどくこわい目付でにらまれたりしますという話だったとか申します。(角川文庫版夏目鏡子漱石の思い出』1松山行――引用の2段落目)

 この幻の縁談騒動はおおむね漱石の神経異常(呉秀三の下した追跡症)のせいにされているようであるが、その片鱗は『行人』三沢と出帰りの娘さんの逸話にも伺われる。追跡症(追跡狂)を能動的に捉えると、どこまでも真実に向かって邁進するということで、たまたま(森田草平の手前)造型したに過ぎない美禰子を、三四郎と野々宮の立場からしぶとく追いかけて行ったのが、『それから』と『門』であろう。
 大西巨人は晩年の病床で妻に「漱石の作品で(今現在では)何が好きですか。『それから』ですか『門』ですか」と聞かれ、「今はまあそこらへんにしておこうか」と答えているが(大西美智子『巨人と六十五年』2017年光文社刊による)、この両作品に内在する「追跡している(されている)」という緊張感・高揚感が、人によっては、またたまらなく味わい深いものに映るのだろう。それは例の3部作理論にも繋がる話であり、漱石の作品は1作ずつ独立しているにもかかわらず、何か不明な物の力で(外から強制的に)結びつけられているような感じがするのである。

 ところでこの(読者にはありがたい)漱石の「病気」には、信じがたいような後日談さえ、鏡子(と松岡譲)によって、しかも2つも書かれている。

 尼さんについては面白い話があります。これが後で当人の口からきいたのですが、そこには尼さんがいくたりも居たものとみえまして、その中の一人に眼科で会うその婦人にまことによく似た尼さんがありました。背丈具合いといい、顔かたちと言い、瓜二つとはゆかないまでも、なんとなく俤を彷彿とさせる尼さんでした。尼さんの名を祐本(こう書くのだろうと思いまして字をあてました)さんと申しました。
 或る日祐本さんが風邪をひいて熱を出しました。尼さん同士のことで手当てもゆきとどかなかったのでしょう。それを見て気の毒に思ったとみえて、一服解熱剤を盛ってやったそうです。するとほかの尼さんたちがよりよりに夏目の方を指して、
まだあの人のことを思ってるんだよ」と口さがなく、祐本さんがその婦人ににているから深切にするのだとばかりにほのめかしました。それを小耳に挟んで、一層尼さんたちが女の母親に頼まれて、探偵の役をしているのだと思い込んだものだとかいうことです。そうして家はいや、法蔵院もいや、結局東京全体がいやになったのではないかと思われるのです。(同『漱石の思い出』1松山行――引用の3段落目)

 鏡子は漱石から聞かされた井上眼科の女が「婦人」(成人)であると思っている。これは子規に書いた(銀杏返しに丈長の)「可愛らしい女の子」とは明らかに別人であろう。
「此三四年来沸騰せる」と子規宛に書いたように、偶像としての女性(それは晩い初恋かも知れない)を考えた場合、漱石の中では明治24年から明治27年まで、ある種のわだかまりで繋がっていたのかも知れないが、そして漱石がそのように喋っていたことは事実であろうが、上記鏡子の回想は(漱石による)フィクションないし神経症の作用による夢幻であると思わざるを得ない。
 漱石が井上眼科で貰ってもいいと思うくらいの女と出会ったとして、その経緯を法蔵寺に間借りしている尼僧が知るよしもないし、女の母親が彼女たちを利用しようとする動機も機会も見当たらない。だいいち読者は漱石が(病気の女に対して薬を調達して来るといった)そのようなマメな性格で「ない」ことを識っている。

 たしか亡くなる四五年前のこと、高浜虚子さん誘われて九段にお能を観にまいりますと、その昔の女が来ていたそうです。二十年振りに偶然顔を見たわけですが、帰ってまいりましてから、
今日会って来たよ」とその事を私に話ますので、
「どんなでした」とたずねますと、
「あまり変わっていなかった」と申しまして、それから、
こんなことを俺が言ってるのを亭主が聞いたら、いやな気がするだろうな」と穏かに笑っておりました。私にはこの話は、実在のようでもあり架空のようでもあって、まことにつかまえどころのない妙な話に響くのですが、兄さんはその女の方の名前を御存知の筈です。私も伺ったのですが忘れしまいました。とにかく得体の知れない変な話でございます。(同『漱石の思い出』1松山行――引用の4段落目)

 これも『行人』女景清の1シーンを連想させるので、読者はついそのようなことがあったのかと思ってしまう。しかし鏡子の書いているところをそのまま読むと、「今日会って来た」というのは「今日その女を偶然見かけた」と言っているのである。女の亭主に済まないというのも、勝手に面談して済まないというのではなく、勝手に噂して申し訳ないと言っているのである。
 そのあとのくだりの、女の名前は忘れたというのは、鏡子が(嫉妬から)とぼけているのかも知れないが、顔の似ているという祐本の名前さえ書いているくらいだから、肝心の女の名前を忘れるわけがない。差し障りがあるので隠したと読者は思うだろうが、他人に言うまでもない、実体のない話であると思った方が無難である。
 結局鏡子が何でこんな話を回想録の冒頭に持って来たかというと、漱石が1年だけとはいえ、松山中学の教師として過ごしたことが、鏡子にはたまらなくプライドを傷つけられる話になるのであろう。文豪としての夫の過去を振り返って見て、そのスタートラインに釈然としないものがある。松山行きにことさらな理由がほしい。何か理由がなければあんな処へは行かない筈である。――といっても、精神がおかしくなったから松山へ行ったというのでは松山の人は救われまい。不明な失恋のせいにした方がまだましである。論者の私的な結論は、漱石が変人であるのは慥かとしても、「普通に(求人のあった)松山へ行った」という、格別意味も何もないものである。

 * * *

紙屋と鰹節屋のおかみさん
 漱石は自分の好みの女は家族にも隠さずに公言するタイプの人間である。好みの芸者のタイプ、今でいえば女優や歌手で誰が一番好きかというようなことを、自分の子供にまで平気で言う人であった。乾物屋の主婦の話は有名だが、鏡子の『思い出』にもこんな記述さえある。

 すぐ近所の大通りに紙屋がありまして、そこのおかみさんがあの辺の町家には珍しいほっそりした色の白い人でしたが、それがたいへんなお気に入りで、と言ってそれをどうしたの、こうしたのというのでは勿論ありませんが、散歩の度にのぞいて見たりしてくるのでしょう、今日はどうしていたとかこうしていたとか帰ってきて言ってるのです。そうして子供たちに、冗談とも真面目ともつかず、あのおかみさんはお父さまの好きな女だから、みんなあの前を通る時には恭々しくお辞宜をしてお通りなさいとか申しておりました。別に下卑た口調でもないんですが、そんなことを子供達ばかりでなく、門下の方々へも敗けず吹聴しておりました。私たちが大した美人でもない、まるで幽霊のように影が薄いじゃありませんかなどと申しましても、ああいうのが好きなんだとか何とか申していたものですが、このひとも先年亡くなってしまいました。(同『漱石の思い出』50呑気な旅)

 評家がこの紙屋の主婦の来歴を探査した形跡はないが、それは一文にもならないからやらないだけの話である。では井上眼科の女は何か儲かることでもあるのだろうか、とつい嫌味の1つも言いたくなるが、鏡子の『思い出』の井上眼科のくだりが子規宛書簡と『趣味の遺伝』(本郷郵便局の女)をないまぜにしたような内容であることだけは確かである。
 引用ついでに有名な乾物屋の主婦の方も掲げておこう。(いずれも岩波の平成版漱石全集・定本漱石全集より。)

「きのう鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着ていた。派出に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をして居る方が感じが好い」(「日記」明治42年3月14日)
「散歩の時鰹節屋の御神さんの後ろ姿を久振に見る」(日記」明治42年4月2日)
鈴木禎次曰く。夏目は鰹節屋に惚れる位だから屹度長生をすると。長生をしなくっても惚れたものは惚れたのである」(日記」明治42年4月3日)

 妻の義弟にまで喋っているのだから、筆子11歳恒子9歳も知っている話だろう。おまけに鈴木三重吉にまで手紙で書き送っていた。

「今日散歩の帰りに鰹節屋を見たら亭主と覚しきもの妙な顔をして小生を眺め居候。果して然らば甚だ気の毒の感を起し候。其顔に何だか憐れ有之候。定めて女房に惚れている事と存じ是からは御神さんを余り見ぬ事に取極め申候」鈴木三重吉宛書簡明治42年4月11日)

 亭主が変な顔でこちらを見ている。まさか町内で噂になっているとも思えないが、まったくのおふざけで書いているわけでもなかろう。ここらあたりが先に掲げた鏡子の『思い出』の、
「こんなことを俺が言ってるのを亭主が聞いたら、いやな気がするだろうな」
 の元ネタになっているのであろうか。

 噓の吐けない漱石が書く値打ちのある初恋の経験を有つなら、それはとうの昔に書かれるべきである。漱石の初恋の女は実在して、影の薄い線の細い人であったかも知れない。実際に早逝していたのかも知れない。しかし肝心の本人が書いていない以上、それはなかったと解するのが理に叶っているのではないか。

大塚楠緒子
 大塚楠緒子(と小屋保治)についても、漱石が楠緒子と結婚した可能性は現実に存在したのであり、『それから』発表とその直後の楠緒子の「佳人薄命」ぶりを見ると、②の伊香保旅行に三角関係にまつわる事件性を想像することは、小説より面白いかも知れない。
 たしかに漱石が大塚楠緒子に失恋して松山へ行ったとする推論は成り立たぬものではない。しかし両人の(両家の)その後を見ても、楠緒子の結婚が後々まで尾を引いたような形跡は認められない。そもそも漱石にも小屋保治にもどちらにも靡く可能性のある女なら、いくら容姿が理想的であっても、漱石はそういう女には興味はないのである。という言い方が過ぎるのであれば、潔癖な漱石はこうした場合、己れの恋愛感情を封殺してしまうのである。