明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」坊っちゃん篇 7

263.『坊っちゃん』のカレンダー(2)――23歳の始まり


「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏しいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しい筈です。履歴書にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば誰が乗じたって怖くはないです」(『坊っちゃん』第5章)

 さて珍しく何の問題もないような『坊っちゃん』のカレンダーであるが、坊っちゃんの年齢(23歳)について、第7章で「奥さんがあるように見えますかね。可哀想にこれでもまだ二十四ですぜ」と萩野の婆さんに申告している。萩野の婆さんは士族であるが清同様坊っちゃんに対して協力的で、坊っちゃんの知りたいことは何でもべらべら喋ってくれる。おかげで坊っちゃんは(読者も)マドンナ・古賀先生・赤シャツ・堀田先生の因縁を知ることが出来た。(この士族のお喋り婆さんもしくは中年婦人というのは、漱石作品の至る所に現れて、主人公に物語の進行に欠かせない色んな情報を与える、まさにシェイクスピアに出て来る魔女的な役割を果たすキャラクタであるが、清もどちらかと言えばそれに近い。坊っちゃんも1ヶ所だけだが気味が悪いとも言っている。)
 上記引用文の、赤シャツに誘われたターナー島の舟釣りは9月のことで、萩野の婆さんに妻帯者であると極めつけられたときはたぶん10月であるから、坊っちゃんはこのとき「取って24歳」という意味で言ったのであろうが、結婚願望のある坊っちゃんが婆さんにおもねるように、あるいは見栄を張るように(大きい方の数字を択んで)「まだ24歳」と言った可能性もある。本音は「もう24歳になろうとしている、早く結婚したい」であろう。

 いずれにせよ赴任と前後して中学校へ出された履歴書には、「23年4ヶ月」と書いてあったことは慥かであると思われるが、これはちょっとおかしい。
 坊っちゃんの卒業は、卒業式を考慮に入れても6月下旬か7月上旬である。それが「8日経って」校長に呼ばれたので、「何の用だろう」と思って出掛けたのが松山中学への赴任の話である。種々準備して東京の下宿を引き払ったのは9月になってからか、どんなに早くても8月終わりであろう。それで履歴書を提出するのであれば、卒業基準なら「23年6ヶ月」か「23年7ヶ月」、せいぜい頑張って「23年8ヶ月」であろう。漱石は勘違いしたのではないか。
 漱石が松山中学に赴任したのは明治28年4月である。漱石は自分の履歴書に「29年4ヶ月」と書いたに違いない。坊っちゃんの年は23であるから、漱石はそこだけ直してあとはそのまま書いてしまったのだろう。誰か漱石に確認する者はいなかったのだろうか。

 23歳という主人公の年齢は、すぐ三四郎に引き継がれ、その後永く漱石の小説を支配した。その意味で坊っちゃんはその後の漱石のヒーローの魁となるものであるが、坊っちゃんだけが帝大生でも帝大卒でもない主人公となった(『坑夫』のことは本ブログでは考えない)。
 坊っちゃんに代わる学士は赤シャツであるが、マドンナを射止めようとするのであれば、赤シャツこそ隠れたヒーローと言えよう。
 そのせいか坊っちゃんは赤シャツには面と向かって歯向かわない。坊っちゃんの赤シャツに対する反抗は、すべて心の中だけか、あるいは本人のいない場所に限られる。坊っちゃんは破天荒に見えて、その実ちゃんと計算しているのである。最後の天誅事件も、坊っちゃんの暴力はもっぱら野だにのみ向けられ、赤シャツを殴るのは山嵐の専任である。漱石も自分で自分を殴るわけには行かなかったのだろう。
 文学士の教頭には弱い坊っちゃんだが、野だには遠慮しない。先のうらなり君の送別会では酒に酔った野だを、おそらく酔っているという理由だけで一発参っている。

 おや是はひどい。御撲になったのは情ない。この吉川を御打擲とは恐れ入った。愈以て日清談判だ。とわからぬ事をならべて居る所へ、うしろから山嵐が何か騒動が始まったと見て取って、剣舞をやめて、飛んで来たが、此ていたらくを見て、いきなり頸筋をうんと攫んで引き戻した。日清……いたい。いたい。どうも是は乱暴だと振りもがく所を横に捩ったら、すとんと倒れた。あとはどうなったか知らない。・・・(『坊っちゃん』第9章)

 漱石はファルスにしてしまっているが、確かに太宰治でも書きそうなくらいおかしいが、明らかに坊っちゃん山嵐の勇み足である。
 師範学校と中学校の乱闘事件の翌日でも、

 ・・・其うち、野だが出て来て、いや昨日は御手柄で、――名誉の御負傷でげすか、と送別会の時に撲った返報と心得たのか、いやに冷かしたから、余計な事を言わずに絵筆でも舐めて居ろと云ってやった。するとこりゃ恐入りやした。然し嘸御痛い事でげしょうと云うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれの面だ。貴様の世話になるもんかと怒鳴りつけてやったら、向こう側の自席へ着いて、矢っ張りおれの顔を見て、隣りの歴史の教師と何か内所話をしては笑っている。(『坊っちゃん』第11章)

 これもひどい。いくら野だいこでも先輩教員である。坊っちゃんターナー島では「毛筆でもしゃぶって引っ込んでるがいい」と心の中で啖呵を切っているが、まさか現実に口に出すとは信じられない。思うに漱石=赤シャツは、自分の腰巾着には何を言っても許されると思っていたので、それが坊っちゃんに伝染したのであろう。それとももうこのときは、坊っちゃんもこの地を去ることを確信していたのだろうか。
 角屋のときの8個の玉子も、すべて野だの顔にぶつけられた。『坊っちゃん』は何度も舞台化映像化されていると思うが、ラストの活劇シーンにぴったりの玉子投げが、8個全部野だに集中して赤シャツには向けられないとしたら、これを自然に見せるには工夫が必要であろう。(例えば赤シャツと野だを舞台の両端くらいの位置に離すとか。)漱石はなぜこんな「依怙贔屓」をするのか。

 本ブログでも先に触れた、年下の畏友大谷繞石宛4月4日付書簡の内容は次のようなものである。

 拙文御推賞にあずかり感謝の至に不堪候。山嵐の如きは中学のみならず高等学校にも大学にも居らぬ事と存候。然しノダの如きは累々然としてコロがり居候。小生も中学にて此類型を二三目撃致候。サスが高等学校には是程劇しき奴は無之(尤も同類は沢山有之)候。要するに高等学校は校長抔に無暗に取り入る必要なき故と存候。山嵐や坊ちゃんの如きものが居らぬのは、人間として存在せざるにあらず、居れば免職になるから居らぬ訳に候。貴意如何。
 僕は教育者として適任と見做さるる狸や赤シゃツよりも、不適任なる山嵐や坊ちゃんを愛し候。大兄も御同感と存候。・・・(明治39年4月4日大谷繞石宛書簡)

 漱石は赤シャツは当然愛せないとしても、野だのような茶坊主は松山中学にも「二三」いたと証言。世間にも沢山ころがっているはずだと、唾棄すべきもののように語っているから、野だだけはいくら殴っても罪にはなるまいと、勝手に決めていたのであろう。赤シャツの方は畏敬する山嵐に殴らせて、自分は難を逃れた。
 気の毒なのは野だであるが、うらなり君送別会のとき、棕梠箒を抱えて越中褌いちまいで、「日清談判破裂して」と練り歩く気違いじみたシーンは、明治28年に漱石が伊予中学にいたときに、何かの会で実際に見た光景の1つだったろう。日清戦捷時の余興を、10年後の日露戦捷時にやってはいけないという決まりはないが、漱石の意図ははっきりしている。自分の見た通りを書くということで、そこに異様な現実感が生まれるのである。もしかすると坊っちゃんと同時代の人は、日露の講和の時代に日清談判云々と馬鹿踊りを踊ることに違和感を覚えたかも知れない。あるいは反対に何ともいえない滑稽味を感じたかも知れない。そのいずれも現代の我々読者には窺い知ることの出来ないものであるが、今なおその現実感が色褪せていないことだけは慥かである。

 日清戦争講和の年の明治28年、漱石は周囲の反対を押し切って松山へ都落ちした。日露戦争講和の明治38年は最初の長篇小説『猫』を書き始めた年である。坊っちゃん漱石より10年遅れて松山に行った。あまり長くいるとボロが出るので、2ヶ月だけにした。さらに10年後といえば明治48年であるから、つまり大正4年、漱石は最後の長篇小説『道草』を書いた。(『明暗』は完結していないから、『道草』にその称号を与えても間違いではあるまい。)このとき戦争はなかったか。なかったどころか、第1次世界大戦のさなかであった。
 戦争を横目で見ながら、戦争と無縁の生活を送った漱石は、人生の節目を戦争と重ねながら生きて来たとも言える。何人も戦争と無縁ではいられないということを、漱石は発言する代わりに、黙って身を以って証明したとも言えるだろう。