明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 8

221.『心』小石川の台地――先生の下宿は上富坂町


 ではその先生(とK)が束の間棲み暮らした、奥さんの家というのはどこにあったのか。本ブログ第5項の年表で想定したように、
漱石「最後の挨拶」心篇 5 - 明石吟平の漱石ブログ

時は明治30年頃である。故郷と訣別した先生が高校を卒業して大学生活を始めようとする頃であるが、大学の制帽ネタがあるので、(夏休みというよりは)9月~10月とみて問題あるまい。なお遺書を書いている先生が言う「今」とは勿論大正元年である。

 ・・・ある日私はまあ宅でも探して見ようかというそぞろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院の方へ上がりました。今では電車の通路になって、あそこいらの様子が丸で違ってしまいましたが、其頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。私は其草の中に立って、何心なく向こうの崖を眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、其頃は又ずっとあの西側の趣が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っている丈でも、神経が休まります。私は不図ここいらに適当な宅はないだろうかと思いました。・・・(『先生と遺書』10回)(一部初版本で追加された文言-「あの西側の(趣)」-を使用した)

 大学か寄宿舎のある本郷台を出て小石川の谷へ下りる。ぶらぶらしながら古い方の(狭い)富坂を上がる。小石川の台地に立って西を眺めると、矢来の台地から市ヶ谷の台地にかけての崖が見える。崖にはまたその上に緑の樹々が拡がっている。美しい。
 その美しさは荷風も書いている。

 それ(安藤坂)と竝行する金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。而して此等の坂の最も絵画的なるは紺色なす秋の夕靄の中(うち)より人家の灯のちらつく頃、または高台の樹木の一斉に新緑に粧(よそ)わるる初夏晴天の日である。若し夫れ名月皎々たる夜、牛込神楽坂浄瑠璃左内坂また逢坂なぞのほとりに佇んで御濠の土手のつづく限り老松の婆娑たる影静なる水に映ずるさまを眺めなば、誰しも東京中に此(かく)の如き絶景あるかと驚かざるを得まい。(永井荷風『日和下駄』大正3年ころ――引用は昭和47年岩波書店版『荷風全集』第13巻による)

 秋の景色は(北斎や広重も実際に見たように)紺色であると荷風は言っているが、荷風の最絶賛する市ヶ谷の濠の高い土手の松は、漱石も繰り返し自分の小説に取り入れている(ビューポイントは少し異なるが)。
 先生の下宿は、とりあえずその市ヶ谷の老松までもが見渡せる、小石川の台地であることは間違いないが、Kが同居するようになって、御嬢さんを挟んだ恋の確執に先生が心底悩まされる頃、その周囲の景色は俄然具体性を帯びてくる。

 十一月の寒い雨の降る日のことでした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂道を上って宅へ帰りました。・・・(『先生と遺書』33回)

 いつもの通学路を通って帰宅した先生は、不快と不安に苛まれていたたまれなくなる。

 ・・・私は不図賑やかな所へ行きたくなったのです。雨はやっと歇ったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため、蛇の目を肩に担いで、①砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。其時分はまだ道路の改正が出来ない頃なので、坂の勾配が今よりもずっと急でした。道幅も狭くて、ああ真直ではなかったのです。其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がっているのと、放水がよくないのとで、往来はどろどろでした。ことに②細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間が非道かったのです。・・・(『先生と遺書』33回)

 先生は通学路ではない①の旧富坂を下りた。それを下り切ると、柳町の通り(現在の白山通り)に出る少し前に、②の細い石橋を渡るという。この石橋の下は当然水が流れているのだが、荷風がそれを「一筋の溝川」と書いていた。

 然し私の好んで日和下駄を曳摺る東京市中の廃址は唯私一個人にのみ興趣を催させるばかりで容易に其の特徴を説明することの出来ない平凡な景色である。譬えば③砲兵工廠の煉瓦塀にその片側を限られた小石川の富坂をばもう降尽そうという左側に一筋の溝川がある。その流れに沿うて蒟蒻閻魔の方へと曲って行く横町なぞ即その一例である。両側の家竝(やなみ)は低く道は勝手次第に迂(うね)っていて、・・・(永井荷風『日和下駄』前出)

 荷風の書いた③の富坂もまた、漱石の①と同じ旧の富坂であろうか。それとも砲兵工廠の土塀が赤煉瓦に変わったからには、もう旧冨坂は陸軍用地に吞み込まれてしまって、荷風はこのとき新しい広い冨坂を下っていたろうか。坂を下り尽くす手前にこの「溝川」があるという。それを左に行くと(北上すると)蒟蒻閻魔がある。さらに行くと柳町である。

 先生は家を出て、蒟蒻閻魔~大学ルートではなく、賑やかな(兼安のある)本郷の方へ行こうとして、当時の古い富坂を下りた。「溝川」を渡って、雨で泥んこになっている細い道で先生はKとすれ違う。Kの後ろには御嬢さんがいた……。

 改めて先生の下宿の位置をおさらいしてみよう。まず本郷の文科大学を背にして西へ(小石川の方へ向かって)出る。出発点は赤門ではなくちょっと北の森川町に近い辺である。西片の台地の麓に沿って進むと左(南)が菊坂。一葉が明治23年9月から明治26年7月まで3年間住んでいた場所である。右(北)の西片の出っ張った台地が尽きるあたりが一葉終焉の地丸山福山町。一葉は明治27年5月から明治29年11月まで2年半過ごした。(明治26年7月から明治27年5月までの間は言うまでもなく下谷龍泉寺である。)
 丸山福山町に接した西片町は、前述したが漱石が明治39年12月末から明治40年9月末まで住んでいた。漱石は西片町では『虞美人草』(だけ)を書いた。『猫』『坊っちゃん』『草枕』の千駄木。『三四郎』から『明暗』まで「全作品」の早稲田南町。西片は方角が悪かったのか。
 それはともかく、現在の白山通り西片交差点を渡ると目の前が蒟蒻閻魔である。近道のため境内を突っ切って細い坂を上がり、路地を1回か2回曲がったところが奥さんの家である。伝通院(表町)に近い方から上富坂町、次いで中富坂町。地図上は上富坂町の方が少し広い。(下富坂町は坂の下で、蒟蒻閻魔よりさらに本郷寄りであるから対象外。荷風が歩いたのはこの下富坂町と餌差町であろうが、中富坂町に一部かかっている可能性もある。)
 ということで、ここでは先生の下宿は上富坂町としておく。丁寧には「小石川上富坂町」である。

 Kの事件を忌んだ母娘は先生と共に急ぎ引っ越した。小石川の家は市ヶ谷の屋敷が広すぎるので売却して移った(10回)とあり、たぶん借家ではないだろうが、引っ越した後に始末をつけたものとみえる。引っ越し先は小石川台地の範囲内で、住所地に(凶事のあった)小石川の冠が付かない土地、雑司ヶ谷墓地が散歩コース、(おそらく本郷辺りに住む)私が屡々訪れるのに利便性のある、ただし漱石作品に登場したことのない地名は除く、といった種々の条件に鑑みて、まず小日向台であろうか。関口だとちょっと雑司ヶ谷に近すぎる。そして小日向でも富坂にあまり近付き過ぎない、音羽寄りの小日向台町であろう。

 ところで急ぎ移転した奥さんの家は当然奥さん(母親)名義になる筈であるが、先生は後年(物語では最初に帰って)、

「静、おれが死んだら此家を御前に遣ろう」
 奥さんは笑い出した。
「序に地面も下さいよ」
「地面は他のものだから仕方がない」(『先生と私』35回)

 奥さん(御嬢さん)と不思議な会話を交わしている。Kの埋葬と後始末(2月)の後のあわただしい引越である(4月下旬から5月上旬)。6月には卒業試験も控えている。そのあわただしさの中で先生は自分名義で借地権付の家屋を購入したというのか。それとも奥さん(母親)が購入したものを死後相続したというのか。どちらもありえない話である。
 ありそうな話としては只1つ。小日向台では急ぎ借家に入った。そこで先生は卒業し結婚もした。しばらく3人で暮らして、その家が気に入ったので家主に持ち掛けて家だけ買った(土地は売ってくれなかった)。もちろん戸主たる先生が買ったのである。
 おそらく富坂町の家も借家だったのだろう。市ヶ谷の屋敷を売却したときに残った金は、奥さん(母親)がしっかり(小金として)握っていた。そのため奥さん(母親)は物語では終始確固とした自信と背景を持った婦人として描かれている。
 先生は一見入り婿ふうだが、家賃を自分で払えば立派な戸主であり、家屋を買い取ったあとは名実共に一家のあるじとなった。たとえ仮面夫婦であったとしても。