明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門 5

91.『門』の間取り図(完結篇)――勝手口は西でなく北

 今回だけブログタイトルの一部を「門篇」から「門」に変えている。他人の成果に直接論評を加えているような書き方をしているので、その心覚えの意味もあって変えてみた。
 また小論でおもに参照引用している漱石の小説本文は、いつも書いているように岩波版の全集である。「門篇」でも1994年初版の漱石全集と2017年の定本漱石全集を青色文字で使用していることを、感謝と共にお断りしておきたい。現代仮名遣いに(勝手に)直していることも、繰り返しお断りしておきたい。

 さてその漱石全集(の解説・注釈頁)には、『門』の間取図なるものが必ず附されている。小論は評家の各論について述べることをしない建前であるが、また自分で見取図や文豪の家の模型を作る才もない。論者の考察は小論(の文章)に尽きているが、小論に眼を通す人は漱石全集の読者でもあろうから、ここで漱石全集に掲載されている間取図について、例外的に論者の意見を述べることにより、小論の補足説明としたい。

 勝手口は西でなく北側にある。

 その勝手口を含めて、屋敷の北側の形状は、(折れ曲がっておらず)ほぼ真っ直ぐではないか。

 その北側全体は、裏庭(とも言えない狭くて細い真っ直ぐな通路のようなスペース)に面した外廊下ないし廊下か板の間で、便所へ通じていたのではないか。

 (小六の引き移った)6畳は、廊下伝いに直接玄関に行けない。いったん茶の間を通ってからでないと玄関に行けない。

 全体的に見て、屋敷の西側はまったく隣家との境界で、余分な空地はないと思われる。

 座敷の北側に配された床の間は、茶の間寄りではなく東の縁側寄りにある。

 は、漱石の記述から類推できる。

 宗助は玄関から下駄を提げて来て、すぐ庭へ下りた。縁の先へ便所が折れ曲って突き出しているので、いとど狭い崖下が、裏へ抜ける半間程の所は猶更狭苦しくなっていた。御米は掃除屋が来るたびに、此曲り角を気にしては、
「彼所がもう少し広いと可いけれども」と危険がるので、よく宗助から笑われた事があった。
 其所を通り抜けると、(Ⅰ・Ⅱ)真直に台所迄細い路が付いている。元は枯枝の交った杉垣があって、隣の庭の仕切りになっていたが、此間家主が手を入れた時、穴だらけの杉葉を奇麗に取り払って、今では(Ⅰ・Ⅱ)節の多い板塀が片側を勝手口迄塞いで仕舞った。日当りの悪い上に、樋から雨滴ばかり落ちるので、夏になると秋海棠がいっぱい生える。その盛りな頃は青い葉が重なり合って、ほとんど通り路がなくなる位茂って来る。始めて越した年は、宗助も御米も此景色を見て驚ろかされた位である。此秋海棠は杉垣のまだ引き抜かれない前から、何年となく地下に蔓っていたもので、古家の取り毀たれた今でも、時節が来ると昔の通り芽を吹くものと解った時、御米は、
「でも可愛いわね」と喜んだ。(7ノ4回冒頭)

 宗助の家の北側は全面安物の板塀で覆われ、(北隣の)隣家の庭との仕切りとなって、真っ直ぐ勝手口まで続いているというのである。勝手口は北側以外に考えられないのではないか。

 の小六にあてがわれた6畳の配置も、おおよその見当はつく。
 秋の終わりに小六が引っ越して来てこのかた、御米の体調は芳しくない。12月20日過ぎてついにダウンする。

 ・・・其時座敷で、
「貴方一寸」と云う御米の苦しそうな声が聞えたので、我知らず立ち上がった。

  十一の三

 座敷へ来て見ると、御米は眉を寄せて、右の手で自分の肩を抑えながら、胸迄蒲団の外へ乗り出していた。(11ノ2回末尾~11ノ3回冒頭)

「清、御前急いで通りへ行って、氷嚢を買って医者を呼んで来い。まだ早いから起きているだろう」
 清はすぐ立って茶の間の時計を見て、
「九時十五分で御座います」と云いながら、それなり勝手口へ回って、ごそごそ下駄を探している所へ、旨い具合に外から小六が帰って来た。例の通り兄には挨拶もしないで、(Ⅳ)自分の部屋へ這入ろうとするのを、宗助はおい小六と烈しく呼び止めた。(Ⅳ)小六は茶の間で少し躊躇していたが、兄から又二声程続けざまに大きな声を掛けられたので、已を得ず低い返事をして、(Ⅳ)襖から顔を出した。其顔は酒気のまだ醒めない赤い色を眼の縁に帯びていた。部屋の中を覗き込んで、始めて吃驚した様子で、
「何うかなすったんですか」と酔が一時に去った様な表情をした。
 宗助は清に命じた通りを、小六に繰り返して、早くして呉れと急き立てた。小六は外套も脱がずに、すぐ玄関へ取って返した。
「兄さん、医者まで行くのは急いでも時間が掛かりますから、坂井さんの電話を借りて、すぐ来るように頼みましょう」(11ノ3回)

 御米は座敷に寝ている。帰宅した小六は玄関から縁側(だけ)を通っては自分の6畳には行けない。玄関・縁側・茶の間・台所経由で6畳に行こうとして、茶の間で座敷から宗助に呼び止められた。それがはっきり(3ヶ所の)に書かれている。小六は茶の間で足を止め、茶の間から座敷を覗き込んだのである。

 医者が来て次の日、御米の薬が効き過ぎていつまでも起きないという印象深いシーンでも、それは宗助の側からも補足される。小六も宗助も、普段は「玄関・縁側・茶の間」ルートを通っているというのである。 

 宅の門口迄来ると、家の中はひっそりして、誰もいない様であった。格子を開けて、靴を脱いで、玄関に上がっても、出て来るものはなかった。宗助は何時もの様に縁側から茶の間へ行かずに、すぐ取付(とっつき)の襖を開けて、御米の寝ている座敷へ這入った。見ると、御米は依然として寝ていた。枕元の朱塗の盆に散薬の袋と洋杯が載っていて、其洋杯の水が半分残っている所も朝と同じであった。(Ⅵ)頭を床の間の方へ向けて、左の頬と芥子を貼った襟元が少し見える所も朝と同じであった。(12ノ1回)

 については想像するだけであるが、勝手口が西側にないとすれば、家の西側は完全に隣家との境界で塞がれていると思ったほうが分かりやすい。についても漱石の言及はないのであるが、6畳が玄関と廊下で結ばれていないとすれば、小六が夜便所に行くとき、台所・茶の間・縁側・玄関・座敷の縁側を通る。清も同じ。座敷は茶の間との仕切りは襖であるが、廊下側は硝子障子でなければ腰障子であろう。清は年寄りだから夜は何度も行くかも知れない。互いに鬱陶しいはずである。ここは北側にトイレ直通の外廊下が欲しいところである。台所側、玄関側、どちらからでも行けるように、便所が丑寅(北東)の角に飛び出していたのではないか。半ば家の外に厠があるというのは、昔の家の造りとしてはまあ普通であろう。

 最後のであるが、話は細かくなるが、座敷の北側の床の間(1間)は、茶の間寄りではなく東の縁側寄りにある。もう1間は違い棚などではなく、論者は押入れと推測する。要するに安普請なのである。したがって座敷の南側はシンプルに玄関の間に接しており、玄関からはまっすぐ座敷に入るか、左に逸れて茶の間に接する縁側に出るか、どちらかである。ふつうならこの要衝は2階へ上がる階段が付いている場所であろうか。
 念の為もう1ヶ所、重ねての引用になるが、

 小六は六畳から出て来て、一寸襖を開けて、御米の姿を覗き込んだが、(Ⅵ)御米が半ば床の間の方を向いて、眼を塞いでいたので、寝付いたとでも思ったものか、一言の口も利かずに、又そっと襖を閉めた。そうして、たった一人大きな食卓を専領して、始めからさらさらと茶漬を掻き込む音をさせた。(11ノ2回)

 小六は6畳から台所を通って茶の間に出て来て、茶の間の襖を少し開けて御米の臥せっている姿を(足の方から)見たのである。(11ノ2回)
 そうして宗助は丁寧にも、玄関から同じ姿勢の御米を背中側から見ている。(12ノ1回)
 その御米が床の間の方を向いて寝ていると書かれている以上、床の間は御米の上半身に近い方、東に近い方に截られている。足許に床の間があるのなら、床の間を向いて寝ているとは書かないだろう。