明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎 外伝2

47.『三四郎』外伝(2)――「のだね」と「だもの」


 三四郎の「悪い」という告発の尻馬に乗るわけではないが、ここで漱石の良くない文例について、もちろん論者の個人的な好悪の中での話になるが、一応言うだけは言っておきたい。

 それは最初『三四郎』の中で、論者が違和感を覚えた言い回しが1ヶ所あったことによる。

 ・・・「画工はね、心を描くんじゃない。心が外へ見世を出している所を描くんだから、見世さえ手落ちなく観察すれば、身代は自(おのず)から分るものと、まあ、そうして置くんだね。・・・」(『三四郎』10ノ6回)

 原口の絵画理論はそれでよいとして、ちょっと理屈を一般化するような、自己の理論に対し責任は取りたくないというような言い回しをしている(ように読める)。韜晦・逃避・自己肯定・教師臭・ズルい・コスッカラい・棚上げ感、といった印象を与える言い方である。そして他の作品にも同じ言い回しがあったことに、すぐ気が付く。

 田口は此答を聞いて、手焙の胴に当てた手を動かしながら、拍子を取るように、指先で桐の縁を敲き始めた。それを少時繰り返した後で、「何うしたんだか余まり要領を得ませんね」と云ったが、直言葉を継いで、「然し貴方は正直だ。其所が貴方の美点だろう。分らない事を分った様に報告するよりも余っ程好いかも知れない。まあ買えば其所を買うんですね」と笑い出した。(『彼岸過迄/報告』5回)

 これらの言い方そのものは分かる。突飛な言い方ではない。よくある表現かも知れない。
 しかし他ならぬ漱石の小説である。オリジナリティの塊りたる漱石の文章である。よくあるで済まされる話ではない。
 敬太郎の短所長所があるとして、そこを認める認めない、買う買わないは、この場合一に田口の判定・決断にかかっている。田口は一人で敬太郎の採用面接をしている。田口が結論を出すしかない話である。もちろん出さなくてもよい話でもある。一般化する必要のない、むしろ一般化すべきでない、特殊で私的な事象である。なぜ漱石はこんな言い方をするのであろうか。

 同じような意味で気になる語尾の言い回しがもう1つある。

「僕がその娘さんに――その娘さんの大きな潤った眼が、僕の胸を絶えず往来するようになったのは、既に精神病に罹ってからの事だもの。僕に早く帰って来て呉れと頼み始めてからだもの」(『行人/帰ってから』31回)

 これはちょっと子供っぽい言い方ではあるが、そんなに変な表現ではない。しかし2回重ねたところに(違和感の)原因があるようである。どちらか一方だけなら、ふつうの文章になったかも知れない。しかし引用文の言い方では駄々っ子の弁と取られても仕方がない。『彼岸過迄』で、市蔵が千代子に「相変らず偏屈ね貴方は。丸で腕白小僧見たいだわ」(『彼岸過迄/須永の話』17回)と言われるシーンを彷彿させる。

 腕白小僧は子供の頃の漱石の代名詞ではあろうが、いずれにせよこの3例は、時代を超えて尚、文学者漱石らしくないという感じがする。