明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 9

131.『停留所』一日一回(2)――6回~8回


6回 ヴァガボンドへの返書と玄関の洋杖

 敬太郎にとって今や玄関の洋杖が森本そのものである。「何物かを吞もうとして吞まず、吐こうとして吐かず、何時迄も竹の棒の先に、口を開いた儘喰付いている」蛇の頭を毎日見やりながら、敬太郎は自分の不吉な未来を占う。禅の公案じみたものが、自分の不定な未来に影を落とす。『門』の課題がまだ引き摺られている。

7回 従妹とイトコ

 森本宛の手紙の投函は、いつものように下女に言いつけるわけにもいかないので、敬太郎はそれを袂に隠して散歩に出ようとする。そんな極めて些細な「不正直」に対してすら、必ず何らかの「罰則」が課せられるのが、漱石の小説である。敬太郎は玄関で(漱石の嫌いな)電話に呼び止められる。
 電話は須永からで、敬太郎の訪問すべき叔父の日程についての連絡であった。叔父の都合は従妹(叔父の子)から聞いた、と電話の須永は話す。敬太郎は合点して電話を切るが、イトコとだけ聞いたのに気づき、従兄弟・従姉妹の判定にまた空想を膨らませる。
 漱石は最初から正しく従妹と書いている。完全に敬太郎を手中に治めた書き方である。敬太郎はこの後も漱石に踊らされ続ける。

8回 敬太郎の田口家訪問1回目

 田口は意外にも取次なしに座敷から直接玄関の間に現われた。

そんなら又入らっしゃい。四五日うちに一寸旅行しますが、其前に御目に掛れる暇さえあれば、御目に掛っても宜う御座んす」(『停留所』8回)

「そんなら」という語もまた、漱石の時代で(漱石の世代で)ふつうに使われる言葉であった。方言ではないが、東京言葉というわけでもないようだ。今でも使わないこともないが、「では」とか「じゃ」「まあ」のように言われることの方が多いだろう。文芸的には勿論作家の好みもあるだろうが、芥川龍之介の世代になると、もう使われなくなった。

そんなら内に置いてやれ」(『猫』)
そんなら君の指を切って見ろと注文したから、何だ指位此通りだと……」(『坊っちゃん』)

 誰もが知っている名作の序盤の展開から、『二百十日』『野分』『坑夫』地味な作品群まで、漱石作品の中で「そんなら」の無い作品は無いと言いたいくらいだが、不思議なことに『三四郎』と『門』だけが、例外的にこの言葉が使用されない。
 『三四郎』ではその代わり、「それなら」という上品な語に置き替わっている。引越の日サンドウィッチのバスケットを提げて来た美禰子に、与次郎はふつうのお嬢さんならそんなものは持たないとからかう。

「そうでしょうか。それなら私も已めれば可かった」(『三四郎』4ノ15回)

 もう1ヶ所、広田先生の夢の女のシーン。

 ・・・見ると、昔の通りの顔をしている。昔の通りの服装をしている。髪も昔しの髪である。黒子も無論あった。つまり二十年前見た時と少しも変らない十二三の女である。僕が其女に、あなたは少しも変らないというと、其女は僕に大変年を御取りなすったと云う。次に僕が、あなたは何うして、そう変らずに居るのかと聞くと、此顔の年、此服装の月、此髪の日が一番好きだから、こうして居ると云う。それは何時の事かと聞くと、二十年前、あなたに御目にかかった時だという。それなら僕は何故斯う年を取ったんだろうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もっと美しい方へ方へと御移りなさりたがるからだと教えて呉れた。其時僕が女に、あなたは画だと云うと、女が僕に、あなたは詩だと云った。(『三四郎』11ノ7回)

 いずれの場合も漱石としてはいくらか気取っている。ちょっと構えていると言ってもいいかも知れない。『門』にはそれさえ存在しない。「そんなら」と「それなら」。漱石は明らかに使い分けをしているようである。といって、どちらも意味の違いがあるわけではなく、翻訳するにもしようのない(せいぜい well とか then くらいか)、何とも日本的な言葉である。

 『猫』『坊っちゃん』から『虞美人草』『坑夫』まで、おおむね「そんなら」と「それなら」は同じ作品の中で混在している。漱石は適当に描き分けているようにも見え、考えて選択しているようにも見える。しかしこの(漱石前期の)時代までは、まあ筆のおもむくままに書いていたような気がする。(「夫なら」と書くこともあったようで、これをどちらに入れるべきか、あるいは第3の分類とすべきか悩むが、あまりに煩雑なのでここでは「それなら」に統一しておく。)
 『三四郎』は始めて作家が自分のタブローにサインを描き入れた作品であると、前著でも述べたが、3部作の時代になると、「そんなら」の使用法については、作家独自の法則が発達したかのようである。

・『三四郎』     そんなら ✕  それなら 〇
・『それから』    そんなら 〇  それなら ✕
・『門』       そんなら ✕  それなら ✕

・『行人』      そんなら 〇  それなら ✕
・『心/先生と私』  そんなら 〇  それなら ✕
・『心/先生と遺書』 そんなら ✕  それなら 〇

・『道草』      そんなら 〇  それなら ✕
・『明暗』      そんなら 〇  それなら ✕

 前期では「そんなら」「それなら」を混在させていた漱石は、中期晩期になると、原則「そんなら」と書いても「それなら」は使わなくなったように見える。
 『三四郎』(美禰子と広田先生)と『先生の遺書』のみ、「そんなら」を封印して「それなら」を使った。「そんなら」は悲劇にふさわしくないとでも言いたげである。『門』は例外的にそのいずれも該当がない。

 そして『彼岸過迄』については、

・『停留所』     そんなら 〇  それなら 〇
・『報告』      そんなら 〇  それなら ✕
・『須永の話』    そんなら △  それなら 〇
・『松本の話』    そんなら ✕  それなら 〇

 『停留所』が前期の混在時代。『報告』が漱石中期晩期の標準仕様、「そんなら」を使って「それなら」は使わない。その中にあって、『松本の話』が美禰子・広田先生・心の先生に続く悲劇バージョンであろう。『須永の話』は外形上は混在であるが、「そんなら」の用例は、山場の千代子の口説き、1ヶ所だけである。

「まあ御聞きなさい。そんな事は御互だと云うんでしょう。そんなら(それ)で宜う御座んす。何も貰って下さいとは云やしません。只何故愛してもいず、細君にもしようと思っていない妾に対して……」(須永の話)35回)

 この「そんなら夫で」は「それなら夫で」の誤植ではなかろうか(冗談だが)。「それならそれで」という言い回しは一種の慣用句で、「そんなら」を連発する作家も、「それならそれで」という句だけはとくに気にせず使っているようだ。
 『彼岸過迄』は『門』と並んで例外というべきではあろうが、『須永の話』は悲劇以外の何物でもないから、『彼岸過迄』は「そんなら」「それなら」の用例の見本市と言えよう。短篇を集めて長篇を構成するという漱石の目論見は、こんなところにまでその痕跡を残していたのである。