明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 24

146.『須永の話』(2)――「寅さんの原景」


2回 葛飾柴又での長広舌

 『雨の降る日』の語られた次の日曜日、敬太郎と須永は郊外へ遊びに出る。柴又、帝釈天、川甚とくれば、現代人は誰も寅さん映画を思い出さずにいられない。映画(演劇)は広い意味では文学そのものと言えるが、寅さんの語り口のあるものは、漱石作品(の一部)を想起させるものでもある。

(森本)「今朝の景色は寝坊の貴方に見せたい様だった。何しろ日がかんかん当ってる癖に靄が一杯なんでしょう。・・・」(『風呂の後』2回)

(与次郎)「講義が面白い訳がない。君は田舎者だから、今に偉い事になると思って、今日迄辛防して聞いていたんだろう。愚の至りだ。彼らの講義は開闢以来こんなものだ。・・・」(『三四郎』4ノ1回)

(与次郎)「笑わないで、よく考えてみろ。己が金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りる事が出来たんだろう
 三四郎は笑うのを已めた。(『三四郎』9ノ4回)

(代助)「つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来悪いと云う意味さ」
(平岡)「僕の考えとは丸で反対だね。食う為めだから、猛烈に働らく気になるんだろう」(『それから』6ノ8回)

 これらの「だろう」は単なる想像・仮定というよりは、「だろう?」という語尾を想定させるもの、といって疑問文でもない。どちらかというと「~だろう? え? そうじゃないか」というニュアンスに近いもので、押しつけがましいようなところのある言い回しであろう。
 寅さんもときどきこんな言い方をすることがある。寅さんはたいてい断定的に言い切って気持ちが良い。でも理屈を言うとき、ちょっと自信がないとき、とぼけて俗物的な物言いをするとき、こんな言い方で逃げることが、たまにある。上記の例でも、登場人物は主人公ではなく俗物の副人物である。(寅さんもまたヴァガボンドであるという議論は、ここではしない。)まあ映画人に限らず、漱石を読まない人はいないのであるから、こんなことをいくらあげつらっても始まらないのであるが。

 そんなことより、この2回では、(原稿の段階ではあるが)びっくりするような書き誤りがあったようである。

 此日彼等は両国から汽車に乗って鴻の台の下迄行って降りた。夫から美くしい広い河に沿って土堤の上をのそのそ歩いた。敬太郎は久し振に晴々した好い気分になって、水だの岡だの帆懸船だのを見廻した。須永も景色は賞めたが、まだ斯んな吹き晴らしの土堤などを歩く季節じゃないと云って、寒いのに伴れ出した敬太郎を恨んだ。早く歩けば暖たかくなると云って、敬太郎はさっさと歩き始めた。須永は呆れた様な顔をして跟いて来た。二人は柴又の帝釈天の傍迄来て、川甚という家へ這入って飯を食った。其所で誂らえた鰻の蒲焼が甘垂るくて食えないと云って、須永は又苦い顔をした。(定本漱石全集第7巻『彼岸過迄/須永の話』2回)

 敬太郎と須永は市川で下車したあと、当時としては珍しい江戸川に架かる橋(鉄橋ではない)を東京方面に渡り返して、それから川沿いに柴又まで1時間余り歩いたと思われる。
 曖昧な書き方ながら、2人がいったん千葉県に出たことの意味は、ここではまだ明らかでない。前作『門』では小六は房総旅行から帰って、佐伯から自身の学資について、物語の筋書きに重要な影響を与える相談を持ち掛けられた。漱石はこの2人にもその轍を踏ませたかったのか。それともこのくだりは、旅行というアイテムから何か別なことを主張しようとしたのか。
 それはともかく、原稿準拠の漱石全集によると、上記太字部分は原稿では何と、「須永を恨んだ」になっているそうである。まさに大患後第1作の面目であろう。新聞にはそのまま印刷されてしまった。編集者は原稿に目を通さなかったのだろうか。『彼岸過迄』でない別の原稿を載せてしまったらどうするのだろうか。
 当然誰もが気付いて、漱石は書き直したのであるが、このときの漱石の訂正は、「須永 → 敬太郎」にとどまらなかった。初版本ではこの節は次のようになっている。

 此日彼等は両国から汽車に乗って鴻の台の下迄行って降りた。夫から美くしい広い河に沿って土堤の上をのそのそ歩いた。敬太郎は久し振に晴々した好い気分になって、水だの岡だの帆懸船だのを見廻した。須永も景色丈は賞めたが、まだ斯んな吹き晴らしの土堤などを歩く季節じゃないと云って、寒いのに伴れ出した敬太郎を恨んだ。早く歩けば暖たかくなると主張した敬太郎はさっさと歩き始めた。須永は呆れた様な顔をして跟いて来た。二人は柴又の帝釈天の傍迄来て、川甚という家へ這入って飯を食った。其所で誂らえた鰻の蒲焼が甘垂るくて食えないと云って、須永は又苦い顔をした。(昭和50年版漱石全集第5巻『彼岸過迄/須永の話』2回)

 漱石はその前後の1ヶ所ずつ文言を小修正している。
「景色は → 景色丈は」
「と云って、→ と主張した」
(この「と云って」は、同じ言葉が前後3つも続くため、真ん中の「と云って」の表現を変えたものか。)
 まあ訂正後の方がいくらか丁寧かも知れないが、親切・丁寧は漱石の本領ではない。漱石は通常であれば出稿後にこんな添削はしないだろう。人物を取り違えたのが照れ臭かったのか、ちょっと腹が立ったのか。しかし直すのならもっとほかに直す箇所があるのではないか。
「(須永は)敬太郎を恨んだ」という語法は、やはりこの小説の中では例外的な書き方に属すると言えよう。敬太郎は須永の心の内までは踏み込んでいないはずである。続くくだりでも、「須永は呆れた様な顔をして」とはあるが、「須永が呆れた」とは書いていない。
 ここはやはり「(須永は)敬太郎を恨む眼付きをした」というような表現にした方が、整合性の観点からはよいのではないだろうか。

 もちろん江戸の美は、合理性の追求とは別のものを目指しているのだから、「敬太郎を恨んだ」と始めから書いたのであれば、それもまたとやかく言うべきでないかも知れない。しかし作者は主格が敬太郎と勘違いしたからこそ「須永を恨んだ」と書いたのであろうから、正しい主語を想定すれば、単純に「敬太郎を恨んだ」とはならないはずである。MMCをMCC(タバコの名前)に直すのとは訳が違う。引用文末も漱石は、(川甚の蒲焼が甘過ぎるので)「食えないと云って「須永は又苦い顔をした」とちゃんと書いている。決して(志賀直哉みたいに)須永は不快に思った、とは書いていないのである。