明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎 外伝3

48. 『三四郎』外伝(3)――「だろうじゃないか」


 こんなことをいつまで書いても仕様がないが、最後にもう1つだけ、精養軒での文芸家の懇親会での原口の発言。

「そう云う自然派なら、文学の方でも結構でしょう。原口さん、画の方でも自然派がありますか」と野々宮さんが聞いた。
「あるとも。恐るべきクールベエと云う奴がいる。ヴェリテ・ヴレイ(まったくのところ)何でも事実でなければ承知しない。然しそう猖獗を極めているものじゃない。ただ一派として存在を認められる丈さ。又左うでなくっちゃ困るからね。小説だって同じ事だろう、ねえ君。矢っ張りモローや、シャバンヌの様なのもいる筈だろうじゃないか
「居る筈だ」と隣の小説家が答えた。(『三四郎』9ノ3回)

 これは女の「~じゃありませんか」ほどではないにせよ、漱石の小説にはよく出てくる語尾の言い回しである。古い時代の言葉遣いではあるが、今でも遣う人はいなくもない。漱石作品でもランダムに出現するようにも思われるが、念のために全作品に当たってみると、そこにはまたある種の法則が存在するようである。

『猫』 金田富子・鈴木藤十郎迷亭

坊っちゃん』 なし

草枕』 なし

虞美人草』 宗近の父・甲野欽吾

初期三部作

三四郎』 原口

『それから』 寺尾

『門』 なし

中期三部作

彼岸過迄』 なし

『行人』 岡田・一郎・二郎の雇い主

『心』 私の田舎の(病気の)父親

晩期三部作

『道草』 長太郎・健三

『明暗』 小林

 他の(初期の)作品にも用例は目立つが、ここではあえて取り上げない。
 この表を見ると、「だろうじゃないか」使用者はおおむね漱石とは対極的な立場の人間、実生活者、俗物が多いようである。(漱石も実生活者でないとは言えないが。)
 漱石を半分体現している各作品の若い主人公(寒月・小野・三四郎・野々宮・代助・宗助・敬太郎・市蔵・二郎・三沢・『心』の学生の私・遺書の私・K・津田)は、全員該当していない。若い主人公ではなく、ほぼ漱石とみてよい登場人物(苦沙弥・広田先生・松本・『心』の先生・藤井・岡本)も、意外なことに誰もそのような言い方をしていない。

 面白いのは健三・長野一郎・甲野欣吾という、漱石丸出しの3人であろう。3人とも作品の中では(松本や藤井のような)バイプレーヤーではなく主人物である。漱石はこの3人については、特殊な書き方をしている。つまりある性格を付した一登場人物ではなく、ベタに漱石自身を思わせる書き方である。そして3人とも、「ヘンな」男である。
 この3人が「だろうじゃないか」を使っている。この3人に俗物的性格(つまり享楽志向者的性格)は付与されていない。にもかかわらずこの言葉遣いをしているということは、漱石の真の自画像がこの3人ということか。漱石自身「だろうじゃないか」という言い方をしていたのか。
 月並・俗物性を嫌った漱石は、自分の中にあるそれらをも嫌悪して、それを作品の登場人物に語らせた。自分で自分を撃った。単に自分の好き嫌いを書いたのではないということだ。それが作品に百年二百年の生命を与える――。少なくとも理由の一つにはなろう。

 上記の表では金田富子が女で唯一該当することも興味深いが、富子はまさしく「だろうじゃないか」と発言している。ちなみに女だからといって「だろうじゃありませんか」等の用例は、漱石にはない。
 もうひとつ、富子はどうでもいいとして、遣いそうで遣わなかった人物もいる。『それから』の平岡である。平岡は代助の同級生(帝大)である。そこが小林(『明暗』の)と異なる。これは小林のためにも、特筆すべき事柄かも知れない。