明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 23

319.『草枕』目次(10)第6章(つづき)――分刻みの恋(Reprise)


第6章 座敷に独り居て神境に入る (全4回)(承前)

4回 振袖披露
(P80-11/余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、既に引き開けた襖の影に半分かくれかけて居た。しかも其姿は余が見ぬ前から、動いて居たものらしく、はっと思う間に通り越した。余は詩をすてて入口を見守る。)
那美さんが振袖を着て向こう2階の椽側を歩いている~表情もなく何度も往ったり来たり

 余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、既に引き開けた襖の影に半分かくれかけて居た。しかも其姿は余が見ぬ前から、動いて居たものらしく、はっと思う間に通り越した。余は詩をすてて入口を見守る。

 一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿のすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽側を寂然として歩行て行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。

 暮れんとする春の色の、嬋媛として、しばらくは冥邈の戸口をまぼろしに彩どる中に、眼も醒むる程の帯地は金襴か。あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼然たる夕べのなかにつつまれて、幽闃のあなた、遼遠のかしこへ一分毎に消えて去る。燦めき渡る春の星の、暁近くに、紫深き空の底に陥いる趣である。

 那美さん6回目の登場。視覚的には篇中一番の「美しさ」かも知れない。
 しかしここでは引用文の「一分」( one minute )という書き方の方に注目したい。
 懐中時計(金時計)が好きだった漱石はよくこんな書き方をする。
 すでに那美さんが初登場する夜(1回目)と、翌朝の初対面のシーン(3回目)は次のように書かれていた。

 借着の浴衣一枚で、障子へつらまった儘、しばらく茫然として居たが、やがて我に帰ると、山里の春は中々寒いものと悟った。ともかくもと抜け出でた布団の穴に、再び帰参して考え出した。括り枕のしたから、袂時計を出して見ると、一時十分過ぎである。再び枕の下へ押し込んで考え出した。よもや化物ではあるまい。化物でなければ人間で、人間とすれば女だ。あるいは此家の御嬢さんかも知れない。然し出帰りの御嬢さんとしては夜なかに山つづきの庭へ出るのがちと不穏当だ。・・・(『草枕』第3章――論者の謂う2回)

 浴衣の儘、風呂場へ下りて、五分ばかり偶然と湯壺のなかで顔を浮かして居た。洗う気にも、出る気にもならない。第一昨夕はどうしてあんな心持ちになったのだろう。昼と夜を界にこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。
 身体を拭くさえ退儀だから、いい加減にして、濡れた儘上って、風呂場の戸を内から開けると、又驚かされた。
「御早う。昨夕はよく寝られましたか」(『草枕』第3章――論者の謂う4回)

 時刻、あるいはその経過の様子が几帳面に指定されている。読者は嫌でも『坊っちゃん』でマドンナの初登場シーンを思い出す。

 今日は、清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。然し毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持がわるい。汽車にでも乗って出懸様と、例の赤手拭をぶら下げて停車場迄来ると二三分前に発車した許りで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰を懸けて、敷島を吹かして居ると、偶然にもうらなり君がやって来た。・・・

 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、又一人あわてて場内へ馳け込んで来たものがある。見れば赤シャツだ。・・・赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所の前に話している三人へ慇懃に御辞儀をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例の如く猫足にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計は慥かしらんと、自分の金側を出して、二分程ちがってると云いながら、おれの傍へ腰を卸した。女の方はちっとも見返らないで杖の上に顋をのせて、正面ばかり眺めて居る。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いた儘である。いよいよマドンナに違いない。(以上『坊っちゃん』7章)

 これは漱石の癖であろうか。漱石はのべつにこんな書き方をしているわけではない。女が登場する頃になると、漱石は決まって懐中から時計を取り出すかのようである。ちなみに『草枕』ではこのあと時を刻む記述はなくなっている。那美さんの登場が済んで、タイムキーパーの役目も終わったというのか。他の作品はどうなっているのだろう。

 本ブログ三四郎篇「汽車の女――分刻みの恋」で述べたことと重なるが、もう一度『三四郎』から該当箇所を引いてみる。すべてがわざとしたように、女の登場に合わせてストップウォッチが押される。もちろん例外はある。女のいない場面でこのような(時計を持ち出す)記述がなされるケースは、なくはない。なくはないが、不思議なくらいの片寄り方である。

①唯顔立から云うと、此女の方が余程上等である。口に締りがある。眼が判明している。額が御光さんの様にだだっ広くない。何となく好い心持に出来上っている。それで三四郎五分に一度位は眼を上げて女の方を見ていた。時々は女と自分の眼が行き中る事もあった。爺さんが女の隣りへ腰を掛けた時などは、尤も注意して、出来る丈長い間、女の様子を見ていた。(『三四郎』1ノ1回)

②車が動き出して二分も立ったろうと思う頃、例の女はすうと立って三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行った。此時女の帯の色が始めて三四郎の眼に這入った。三四郎は鮎の煮浸の頭を啣えた儘女の後姿を見送っていた。便所に行ったんだなと思いながら頻りに食っている。(『三四郎』1ノ2回)

③そのうち高等学校で天長節の式の始まる号鐘が鳴り出した。三四郎は号鐘を聞きながら九時が来たんだろうと考えた。何もしないでいても悪いから、桜の枯葉でも掃こうかしらんと漸く気が付いた時、箒がないという事を考え出した。また椽側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思うと、庭木戸がすうと明いた。そうして思も寄らぬ池の女が庭の中にあらわれた。(『三四郎』4ノ9回)

④四人は既に曲り角へ来た。四人とも足を留めて、振り返った。美禰子は額に手を翳している。
 三四郎一分かからぬうちに追付いた。追付いても誰も何とも云わない。只歩き出した丈である。しばらくすると、美禰子が、
「野々宮さんは、理学者だから、なおそんな事を仰しゃるんでしょう」と云い出した。話の続きらしい。(『三四郎』5ノ4回~5ノ5回)

三四郎はおよそ五分許石へ腰を掛けた儘ぼんやりしていた。やがて又動く気になったので腰を上げて、立ちながら、靴の踵を向け直すと、岡の上り際の、薄く色づいた紅葉の間に、先刻の女の影が見えた。並んで岡の裾を通る。
 三四郎は上から、二人を見下していた。二人は枝の隙から明らかな日向へ出て来た。黙っていると、前を通り抜けてしまう。三四郎は声を掛けようかと考えた。距離があまり遠過ぎる。急いで二三歩芝の上を裾の方へ下りた。下り出すと好い具合に女の一人が此方を向いて呉た。三四郎はそれで留った。実は此方からあまり御機嫌を取りたくない。運動会が少し癪に障っている。
「あんな所に……」とよし子が云い出した。・・・(『三四郎』6ノ10回~6ノ11回)

⑥すると奥の方でヴァイオリンの音がした。それが何所からか、風が持って来て捨てて行った様に、すぐ消えて仕舞った。三四郎は惜しい気がする。厚く張った椅子の背に倚りかかって、もう少し遣れば可いがと思って耳を澄ましていたが、音は夫限で已んだ。約一分も立つうちに、三四郎はヴァイオリンの事を忘れた。向こうにある鏡と蝋燭立を眺めている。妙に西洋の臭いがする。それから加徒力(カソリック)の連想がある。なぜ加徒力だか三四郎にも解らない。其時ヴァイオリンが又鳴った。今度は高い音と低い音が二三度急に続いて響いた。それでぱったり消えて仕舞った。(『三四郎』8ノ5回)

⑦描かれつつある人の肖像は、此彩色の眼を乱す間にある。描かれつつある人は、突き当りの正面に団扇を翳して立った。描く男は丸い背をぐるりと返して、調色板(パレット)を持った儘、三四郎に向った。口に太い烟管を啣えている。
「遣って来たね」と云って烟管を口から取って、小さい丸卓の上に置いた。燐寸と灰皿が載っている。椅子もある。
「掛け給え。――あれだ」と云って、描き掛けた画布の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はただ、
「成程大きなものですな」と云った。原口さんは、耳にも留めない風で、
「うん、中々」と独言の様に、髪の毛と、背景の境の所を塗り始めた。三四郎は此時漸く美禰子の方を見た。すると女の翳した団扇の陰で、白い歯がかすかに光った。
 それから二三分は全く静かになった。部屋は暖炉で暖めてある。・・・(『三四郎』10ノ3回)

 『三四郎』の愛読者にはお馴染みのシーンばかりであろうが、このような several minutes に対する書きぶり自体は『明暗』まで継続された。しかしそれが女の登場する場面に限って使用されるというような偏向ぶりは、『三四郎』を以って是正されたようである。思うに『坊っちゃん』『草枕』から『三四郎』の頃までは、女を描くということに対して、漱石といえどいくらか緊張するものがあったのではないか。
 漱石は『それから』以降、女を描くときに緊張しなくなった(と思う)。女だからといって特別扱いしなくなった。女の造形がより現実的になった。大地に足がついて、身体の匂いまで感ぜられるくらいに、真に迫ってきたと言うべきか。『三四郎』までの小説の方を愛する読者は、これを残念に思う読者なのかも知れない。余談であるが。

 ところで『猫』はどうかという疑問については、『猫』は女を描いた小説ではないので、この話は該当しない。「吾輩」や寒月との関係で、三毛子や金田富子をヒロインに擬することはあっても、漱石としては例外的に、『猫』は真の意味でのヒロインの登場しない唯一の小説ということになる。
 もう1つだけ、 several minutes と書いたが、漱石は「数分」と書くことは絶対しない。癇性というのだろうか、潔癖症というべきか、すべて実際に計測したかのように、具体的な数字を小説に書き込んでいる。自分が現実にその中に活きているのだから、時間もまた自分の生命と同じ時を刻んでいるのが、はっきり分かると言わんばかりに。