明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」三四郎篇 17

19.『三四郎』汽車の女(5)―― 分刻みの恋(つづき)


 とりあえず(『三四郎』より前の作品では)『坊っちゃん』と『草枕』に、この傍証となる記述が見られる。

 今日は、清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。然し毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持がわるい。汽車にでも乗って出懸様と、例の赤手拭をぶら下げて停車場迄来ると二三分前に発車した許りで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰を懸けて、敷島を吹かして居ると、偶然にもうらなり君がやって来た。おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君が猶更気の毒になった。平常から天地の間に居候をして居る様に、小さく構えているのが如何にも憐れに見えたが、今夜は憐れ所の騒ぎではない。出来るならば月給を倍にして、遠山の御嬢さんと明日から結婚さして、一ヶ月許り東京へでも遊びにやって遣りたい気がした矢先だから、や御湯ですか、さあ、こっちへ御懸けなさいと威勢よく席を譲ると、うらなり君は恐れ入った体裁で、いえ構うておくれなさるな、と遠慮だか何だか矢っ張立ってる。・・・
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 所へ入口で若々しい女の笑声が聞えたから、何心なく振り返って見るとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容抔が出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握って見た様な心持ちがした。年寄の方が背は低い。然し顔はよく似て居るから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端に、うらなり君の事は全然忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然おれの隣から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を云ってるのか分らない。
 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、又一人あわてて場内へ馳け込んで来たものがある。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ縮緬の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖りをぶらつかしている。あの金鎖りは贋物である。赤シャツは誰も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所の前に話している三人へ慇懃に御辞儀をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例の如く猫足にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計は慥かしらんと、自分の金側を出して、二分程ちがってると云いながら、おれの傍へ腰を卸した。女の方はちっとも見返らないで杖の上に顋をのせて、正面ばかり眺めて居る。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いた儘である。いよいよマドンナに違いない。(『坊っちゃん』7)

 浴衣の儘、風呂場へ下りて、五分ばかり偶然と湯壺のなかで顔を浮かして居た。洗う気にも、出る気にもならない。第一昨夕はどうしてあんな心持ちになったのだろう。昼と夜を界にこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。
 身体を拭くさえ退儀だから、いい加減にして、濡れた儘上って、風呂場の戸を内から開けると、又驚かされた。
「御早う。昨夕はよく寝られましたか」
 戸を開けるのと、此言葉とは殆ど同時にきた。人の居るさえ予期して居らぬ出合頭の挨拶だから、さそくの返事も出る遑さえないうちに、
「さあ、御召しなさい」
 と後ろへ廻って、ふわりと余の背中へ柔かい着物をかけた。漸くの事「是は有難う――」丈出して、向き直る、途端に女は二三歩退いた。(『草枕』3)

 余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、既に引き開けた襖の影に半分かくれかけて居た。しかも其姿は余が見ぬ前から、動いて居たものらしく、はっと思う間に通り越した。余は詩をすてて入口を見守る。
 一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿のすらりとした女が、音もせず、向こう二階の椽側を寂然として歩行て行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。(『草枕』6)

坊っちゃん』で唯一の若い女マドンナ。そのマドンナは小説の中で一度だけ動く姿を見せる。セリフはない。一緒に舞台に上がるのは、母親、うらなり君、赤シャツ、そして距離を置いて坊っちゃん。一回限りの顔見世は、なぜか前述のタイムキーパーのような用例を携えて遂行された。そして『草枕』では既婚者の那美さんは、素裸の主人公との対面、(何年振りかの)振り袖姿の披露と、刺激的かつ変態的な登場シーンと共に、この用例が描かれる。

 論者は恣意的に(自説に都合を合わせて)抽出していない。『三四郎』でも『坊っちゃん』『草枕』でも、漱石はのべつにこんな書き方をしているわけではない。論者自身不思議に思うくらいである。
 汽車の女、美禰子(一回だけよし子が同席)、マドンナ、那美さん。漱石は「女」を描くとき(少しだけ)緊張するのだろうか。緊張するとおしっこが出たくなるというのはよくあるが、漱石の場合、緊張すると時計が気になるのだろうか。