明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 11

74.『それから』愛は3回語られる(6)――女と金と死が必ず語られる(つづき)


(前項よりつづき)

『門』 ①宗助の弟2人(早世) ②妹(夭折)(宗助10歳頃) ③母(宗助20歳頃) ④父(宗助26歳頃) ⑤御米の児3人(*) ⑥佐伯の叔父 ⑦伊藤博文 ⑧弁慶橋の無量の蛙の夫婦(いたずらに石で打ち殺された)

『門』は物語の進行と(語り手による)回想シーンが入り組んでいるので、ここでは暦年に従って表記した。小説に書かれたのは、⑦①④③⑥⑤②⑧の順になる。
 御米の最初の子は流産であるから厳密にいうと該当しないが(あとの二人は位牌がある)、御米にとってはやはり3人であろう。

彼岸過迄 ①宵子 ②市蔵の生母 ③市蔵の(腹違いの)妹(妙ちゃん) ④市蔵の父

 宵子(雛子)の死は鎮魂歌ともいうべき一篇の物語に結実した。ある意味では漱石作品の中で最も大きな死のエピソードであろう。

 このときのいきさつを回想した鏡子の『思い出』に、重大な誤植の箇所があって、それが百年ちかくも見過ごされたままになっていることについて、論者は前著及び本ブログでも告発したが、改造社のオリジナルも、前後して漱石全集と同じ装丁で出た岩波本も、現代の各種の文庫本も、つい最近復刻でなく再刊された単行本でさえも、すべてその誤植が踏襲されている。
 岩波の漱石全集には漱石言行録なる別巻もあり、鏡子(と松岡譲の)『思い出』はその別巻と等しい価値を持つものであるから、今や実質上も漱石全集の範疇であるといってよい。
 その中の、漱石ファンならずとも近代文学愛好者なら一読すれば誰でも気が付き、それでいて一般の読者には無用の誤解を与えてしまう、つまりすぐ訂正すべき大きな誤植である。
 故意に放置して鏡子と松岡を貶めたい、というような話でもない。あえて直さないからといって、誰かに益するわけではないのである。
 世の中にこんな不思議なことがあるだろうかと、ついでながらこの場で繰り返しておく。
漱石最大の誤植 鏡子の『思い出』1 - 明石吟平の漱石ブログ


『行人』
 ①出帰りの娘さん ②百丈禅師に死なれた香厳という坊さんの逸話

『行人』では先の『それから』のテーマが反芻される。実際に描かれた死は、出帰りの娘さんだけであるが、三沢の「あの女」も含め、死のイメジが作品全体を覆っている。よほど漱石の体調が思わしくなかったのか。

『心』 ①私の父(*) ②先生の父母(腸チフスで同時に) ③ ④乃木希典 ⑤先生

 言うまでもなく漱石の中で最も有名な物語であるが、その原因は女であり、また作品全体を金(財産)の話が覆っている。
 私の父はまだ死んでいないが、死の床にあることに違いはない。それが2年後の漱石自身の姿に生き写しであることが堪らなく不気味である。
 明治天皇崩御は畏れ多くてこんな列に加えることは出来ない。

『道草』 ①御住の最初の子(*) ②御縫さん

 御住(鏡子)の最初の子は流産であるが、ここでは『門』に倣った。『道草』では健三の親類縁者知人を含めて死屍累々、といっても実世間と変わらないので、御縫さんを除いてここでは省略した。

『明暗』 (該当者なし)

『明暗』は死者のいない漱石唯一の小説である。生(明)と死(暗)の二つの世界を描いているがゆえの「死者ゼロ」であろうか。いやいや最大の死者がいる。それは作者の漱石自身である、と言ったところで洒落にもなるまい。
 お延が最後に死ぬという考えを持つ一部の人にとっては、大変な追い風となる。論者は先ほどの主張を繰り返すのみである。「死ぬ死ぬと言って死んだ者はいない」と。
 そして漱石幻の最終作品は、前著でも少し触れたが、ライヴァルの男の許へ走った初恋の女に、改めて(始めて)自分の気持ちを告白する、女は煩悶のあまり自死する、という当然『心』に匹敵する悲劇(かどうかは別にして)となる筈であるから、つまり『明暗』は人の死なない作品であることを維持したまま、記念碑とも金字塔とも称され続けるであろう。

[付記]
清子の流産をここに加えるべきかも知れないが、本欄では原則として流産はカウントしない。御米御住の「最初の児」は小説の中での重きの置かれ方から特例としたのであるが、清子の場合はそのように切実には語られていない。吉川夫人を疑う理由はないが、清子が別の理由で保養に訪れていたとしても、津田の心境と行動が変わるわけではない。(2024.4.15付記)