明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石最大の誤植 鏡子の『思い出』1

13. 漱石最大の誤植(1)―― 鏡子『思い出』と雛子の死


〔番外篇1〕

 ここまで論者の書きぶりから、論者は主に漱石本の誤植について論じているのではないかと思われる向きもあるかも知れない。しかし誤植や誤記がいくらあったからといって、それは研究に値するものでない。匡せば済むからである。そうではないということを言いたいがために、ここで論者は、あえて「漱石作品」の中での「最大の誤植」について述べてみたい。前著(『明暗』に向かって)の第37項を、2回に分けてそのまま掲載する。

Ⅲ 棗色の研究

37.漱石作品最大の誤植

 それは実は漱石の書いたものでない。漱石全集にあるものではない。それは鏡子の『漱石の思い出』という、改造から昭和になって出た回想録である。該当箇所は「雛子の死」の終わりの方。

 この雛子の急死の模様は「彼岸過迄」の中の一篇「雨の降る日」という中に詳しく書かれております。この小説は亡くなった子供の悲しみからようやく気をとりなおして、一月から四月迄「朝日新聞」に連載したものなのですが、亡くなった子供の追憶ともいうべき「雨の降る日」は、丁度雛子の二度目の誕生日の三月二日に書き出して、百ヶ日に当る七日に書きおわった、それも何かの因縁で、子供のためにいい供養をしてやったというようなことが、急死のあった時いあわされた中村古峡さんへ宛てた手紙に書いてあります。こんな因縁めいたことをいうなどということはなかったのですが、今度のことはよほど身にしみたのでしょう。・・・しかしずいぶん感じの強い人と申しますか気の弱い人と申しますか、理屈の上では迷信的なことを一切けなしつけている癖に、怪談じみた因縁ばなしなどいたしますと、怖がりまして、もうよしてくれ、ねられないからなどと、よく寝がけにこんな話になりますと降参したものでした。・・・(夏目鏡子漱石の思い出』48 雛子の死)

 この「七日」とあるべき部分が、なぜかすべての出版物で「七月」と誤植されたまま、今日に至っている。

 『彼岸過迄』は鏡子も書いているように、(明治45年の)1月から4月まで連載された。そのうち「雨の降る日」は、明治45年3月2日に起筆して、5日後の明治45年3月7日に擱筆している。
 上記引用文は、たまたま「角川文庫」昭和41年版から採ったものであるが、改造のオリジナルも現在書店で買える他社の文庫本も、該当箇所は皆同じである。(改造の当該箇所は丁寧にも「ぐゎつ」というルビまで附されている。)
 つい最近せっかく(翻刻でなく)復刊されたものも、少なくともその部分は、直されないままでしまったようである。

「三月」「書き出して」「百ヶ日」「七月」――で、つい見過ごされるのだろうか。あるいは誰もが自動修正(翻訳)して読み進めているのだろうか。
 しかし他ならぬ漱石の事績の範疇でこんなことが起こりうるのだろうか。(製作者側の周囲で)何らかの理由で故意に見過ごす者があったとしても、それが百年近くも維持されるものであろうか。7月に書き終わるのなら「彼岸過ぎ」の出る幕はないではないか。

(37.漱石作品最大の誤植 つづく)