明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 28

114.『門』一日一回(6)――『門』目次第13章(ドラフト版)

 

(前項よりつづく)

第13章 贖罪  明治42年12月30日(木)

(宗助・御米・坂井夫婦・坂井の子女・織屋・易者)

1回 宗助の不安は御米の回復では解消されない~悲劇はまたいつでも繰り返し得る

2回 甲州の織屋~銘仙を3円で購入「値じゃない」

3回 夫婦の会話~織屋と坂井家~子供さえいれば貧乏な家でも陽気になる

4回 宗助の失言~御米の告白~子供はもう出来ない

5回 御米の1年おきの哀しい回想~広島・福岡・東京

6回 東京・明治41年・5ヶ月前の御米の哀しい失敗・臨月

7回 位牌のある児と位牌の無い児

8回 御米の占い事件~人に対して済まない事をした罪と罰

 

1回

 晦日、宗助は床屋帰りに坂井の家を訪問する。寄り道自体は慥かに便利で合理的であろうが、家族に無断でそれを実行するのが漱石流である。案内された宗助による坂井夫妻の描写、「主人は長火鉢の向こう側に坐っていた」「細君は長火鉢をやや離れてやはりこちらを向いていた」は、宗助が日記を書いているとしか思えない書きぶりである。あるいは作家が宗助に寄り添って、宗助の視点で叙述をしているのであれば、通常漱石はそのように書き進めるのであるが、『門』の場合、御米や小六単独の内面描写が出来なくなる。では漱石はどのように対処したか。簡単である。そのときは宗助を見捨てて御米なり小六に即(つ)くのである。ふつうこのような書き方では大衆小説と見做されてしまうのであるが(事実生前の漱石はそのような見方をされて文壇の主流にはなり得なかった)、漱石に限って百年の命脈を保つのはいかなる理由によるものか。もちろんそれを解明するのが本稿の目的であるが、分かりやすい結論にはなかなか辿り着けない。

 

2回

 悲しみは決して絶えることがないだろう。これはすべての芸術作品に共通するモチーフと言える。悲しみや苦悩が(或るハッピィな出来事で)消し去ることが可能なら、誰も小説を読んだりする必要はないわけである。織屋の滑稽譚が宗助にもたらしたものは、反物を安く入手したという「得」である。『門』ではいくつかの小さな「得」が語られる。抱一の屏風・織屋の反物・小六の坂井家書生転出・宗助の増俸。これに対する「損」は佐伯の叔父による財産横領。金銭的にはまるでバランスしないが、大きな悲劇と小さな喜劇、芸術的には釣り合っているのだろう。

 

3回

 何度目かの宗助の失言、「子供さえあれば、大抵貧乏な家でも陽気になるもの」

 漱石はわざと宗助に失言させているわけではあるまい。心のきれいな漱石は、自分の心にあることをそのまましゃべって抵抗がない。考えて言葉を飾る必要が無い。それでもその言葉によって御米のように傷つくこともある。漱石の偉いところはそれをそのまま書いて芸術にしていることである。宗助は嘘を言っているわけではないが、それが御米を悲しませる。宗助は(御米を安心させるために)嘘を吐くべきだったのか。宗助は(御米を悲しませないように)沈黙すべきだったのか。そうではあるまい。漱石は分かって書いている。

 

4回

「まだ(子供が)出来ないと決まったわけではない。これから生れるかも知れない」

 後世から見ると、相変わらず止まることを知らぬ宗助の失言とも取れよう。しかし当時は早逝した児も含めて子供が何人もいる家庭が多かった。続けて3人育たなかったからといって、そのあとまた3人作ればいい。宗助は(漱石も)そう思っていたに違いない。それがまた御米の哀れを誘う。

 

5回

 御米の体験は、明治37年広島(流産)、明治39年福岡(早産)、明治41年東京(死産)。

 3度目の東京での悲劇は、3週間の産褥期を終えて占い師のところへ出かけた頃が「更衣の時節」(13ノ8回)と書かれるから、明治41年6月。予定日が明治41年5月。逆算すると妊娠5ヶ月での井戸べりの尻餅事故は、明治40年12月頃か。懐妊は7月であるから(妊娠判明は10月頃としても)、先の年表に従って出京が明治40年6月として、御米はそのころ大分身体が衰えていたと書かれるが、結果として東京転勤まもなく懐妊したことになる。

 最初の児は5ヶ月で流れてしまった。2番目の児は月足らずで産まれたが、それでも1週間この世の空気を吸った。名前こそ(当時の習慣で)付けられなかったが、ある意味では一番幸せな宗助夫婦の子であったろうか。3番目の児が5ヶ月のときに御米が転んだのは、最初の児が妬んだのだろうか。御米はこの失敗を何ヶ月も宗助に話さなかった。漱石はこういう話を怖がったというが、『夢十夜』を書いている以上、俄かには信じ難い。

 

6回

 明治43年3月、漱石が『門』の連載を始めたとき、漱石最後の子たる5女ひな子が誕生した。新生児を横目で見ながら(というのはもちろん比喩だが)、漱石は御米の胎内の児たちの悲劇を描いた。その年の夏、修善寺の大患漱石は一度死んだが、もし息を吹き返さなければ、ひな子は漱石が自分の身代わりにこの世に残して行った子と言われたであろう。漱石は立ち直って翌明治44年初夏、鏡子はまた妊娠したらしくあったが、すぐ流れてしまったという。鏡子は最初と最後の子を流産したことになる。そして同じ年、ひな子は突然逝ってしまう。埋葬(葬儀)の月は次作『彼岸過迄』を起筆した月でもあった。

 マーラーは溺愛した長女マリアの可愛い盛りに「亡き児をしのぶ歌」を作ったが、偶然にもほどなくそれは現実のものとなった。漱石に自作の一エピソードと現実を結び付ける趣味はなかったが、後世の読者から見ると、ひな子は『門』とともに生まれ、自らの身を滅ぼして『彼岸過迄』に(文字通り)結実したと言えなくもない。漱石が『雨の降る日』に触れて、好い供養をしたなどと述べたのも、ふだん漱石は自作に対してそのような情緒的な物言いをしない人であるだけに、いっそう感慨深いものがある。漱石は(大勢いる子を差し置いて)その末っ子の5女のことが一番大事だったと書きさえした。そして漱石自身はわずか5年後、落合斎場のひな子のときと同じ炉で荼毘に付されたのであった。

 

7回

 御米の3番目の児のとき、宗助は小さな位牌を作った。宗助は福岡で亡くなった2番目の児の位牌も持っていたが、その他には父の位牌があるだけであった。父の死で東京の家屋敷を整理したとき、父の位牌だけ持って、あとは寺に放置した。母の位牌はどうしたのだろう。母の死は父のそれの6年前とだけ書かれるが、ふつうに考えると父と同じ寺に埋葬されているはずである。宗助と小六の間に挟まった、2人の弟たちと1人の妹の、位牌はなかったのだろうか。漱石は末っ子だから無関心なのだろうが、宗助は曲がりなりにも長男である。叔父に財産を騙し取られたからといって、まさか墓や位牌まで盗られたわけではあるまい。

 

8回

 御米の占い師のところへ行ったのは明治41年6月である。出京からちょうど1年。物語の今現在が明治42年12月30日。井戸べり尻餅事件を打ち明けたのが、3ヶ月くらい経ってからと想像されるが、これは予定日を2ヶ月後に控えて大きなお腹ながら、母体が安定したと考えてのことだろう。ところが占い師事件については1年半も経ってから、賢明な御米はなぜ宗助に告白したのだろうか。もちろん表面的には宗助の数重なる「失言」のせいと取るべきであろうが、御米は医者や産婆に宣告されたわけではない。(『それから』の三千代のように)子供をあきらめなければならない特段の理由がない。思うに御米の告白は、何事も腹にしまっておくことの出来ない漱石の性格がもたらしたものであろう。31歳の宗助が、まあ子供を欲しがっているとして、26歳くらいの御米が、自分は子供を産めない身体であると、何か根拠でもない限り主張することは出来ないのではないか。その根拠が占い師に言われたというのであれば、夫は怒るか安心するかのどちらかである。宗助のようにただ憮然とするのでは、誠実性が疑われよう。