明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 29

115.『門』一日一回(7)――『門』目次第14章(ドラフト版)

 

第14章 宗助と御米の過去
明治42年12月30日(木)
(宗助・御米・安井・宗助の父)
1回 宗助と御米は仲の好い夫婦~世間の鞭の先に附着する甘い蜜
2回 宗助と安井~京大での出逢い
3回 眼前に広がる無限の未来~夢のような1年間~帰省旅行
4回 宗助の会社訪問~安井の行方不明(横浜篇)~父との最後の会話
5回 安井の手紙~安井の行方不明(京都篇)
6回 安井は下宿を止して家を構える~御米「影のように静かな女」
7回 「これは僕の妹だ」~玄関先での始めての会話
8回 宗助の記憶~平淡な談話~モノクロームの映像
9回 「京都は好い所ね」~インフルエンザ~須磨明石での静養
10回 突然3人を襲った大風事件

1回
 漱石は男女の愛に理屈を付けようとする。論理で説明しようとする。女の求めるのは理屈でなく行動である。しかし『三四郎』の野々宮宗八も言う通り、理屈なしで決断するのはサイコロを振るに等しい。結局美禰子や一部の読者の不評を買うのは、漱石の男が理屈をひねくり回して、いつまでたっても決断しないからであろう。宗助と御米は例外的に仲の好い夫婦であるが、それにさえ漱石は理屈の突っかい棒が要る。屁の突っ張りにもならないのに、と女は思うが男は思わない。

2回
 安井登場の回。安井の名の数行後に、早くも「横浜」という地名が書かれる。安井の将来が碌でもないものになることが、約束されたかのようである。それはともかく、若い頃の闊達な宗助が、たった一度の恋愛事件で別人格になるという設定は、多くの人が諸手を挙げて賛成出来るものでもない。漱石自身は、人生観が変わるような体験をしたかも知れないが。それはとりあえず『門』の結構とは関係ない。

3回
 夏季休暇の後の年度替わりの小旅行。『行人』の三沢と二郎の場合と同じく、この計画は実行されることがなかった。原因が相手にあることも共通している。その陰に女があることもまた。

4回
 宗助の就活、という散文的なアイテムは、次作『彼岸過迄』にも受け継がれた。職業とは何かという大きな命題は、漱石の全作品を覆う究極のテーマ(のうちの一つ)であるが、地位を求める(就活)という狭い範囲に限っても、『坊っちゃん』『野分』『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『心』『明暗』、ほとんどの漱石作品の中で、本流にせよ傍流にせよ取り扱われている。しかしこれについては、また稿を改める必要がありそうである。
 小旅行を約束した安井が音信不通になることもまた、漱石は『行人』で詳細に書き直した。父親の最後の言葉、「ずいぶん気を付けて」というのは漱石作品では空前絶後だが、似たようなシチュエーションは『心』で再現された(他の漱石作品には絶えて無い)。つまり初期三部作の最終作品たる『門』には、中期三部作への「地中の芋」が、(丁寧にも)全て埋めてあったことになる。

5回
 『門』では小六が時々行方不明になるが、安井も主人物として行方不明の先達者であった。宗助もいなくなることがあるが、それは出勤中だからで、そこは他の主人物と扱いが根本的に異なる。

6回
 御米の「初登場」の回。宗助は格子戸の内で浴衣の女の影をちらと見る。女の身元は後日判明する。『彼岸過迄』での印象深い千代子の紹介シーンのリハーサルのようでもあり、これは後にバージョンを変えて『道草』御縫さんのスケッチにも使用された。この技法・趣味の起源については後述したい。
 ところで、末尾の「安井は郷里の事、東京の事、学校の講義の事、何くれとなく話した。けれども、御米の事については一言も口にしなかった。宗助も聞く勇気に乏しかった」の「東京の事」は、おかしくはないが、ここはやはり「横浜の事」の書き誤りではなかろうか。宗助は東京育ちで一高、安井は福井生まれ横浜育ち、高等学校は宗助とは違うと書かれるから、おそらく三高でもあろうが、いずれにせよ安井が宗助に東京の話をするはずはない。宗助に東京の話をヒアリングしたという意味にとれなくもないが、少し不親切な書き方であろう。もっとも宗助が一高から京大へ進んだ理由さえ書かれないのだから、安井の環境が分からないことだらけで何の問題もないわけであるが。しかし夏季休暇で(たぶん)横浜から御米を連れて来たという筋書きと、安井が一高でなかったという設定は、相容れないようである。

7回
 大学入学後の1年間、親友となった宗助と安井。両親、家族のことは互いに話に出ているはずである。宗助は裕福だが家族には恵まれず、父親と弟が1人だけ、安井も裕福だが前述のように福井、横浜、家族構成はよく分からない。高校は京都か金沢か岡山か。横浜には師範や商業はあっても高校はないから、おそらく横浜で女学校に行っていたと思われる御米との接点が不明である。それはともかく、妹がいるかいないかくらいは、1年経っていきなり本人が目の前に現れて始めて知るというレベルの話ではないはずである。

8回
 初対面の日、宗助は御米の印象を映像として記憶していた。小説に書かれたのは4連発である。漱石はふつう3連発であるが、とくに重要なシーンでは4連発もある。しかし宗助の御米に対する印象は色彩の濃いものではなかった。4回繰り返される理由は分からない。

9回
 高熱と病後の転地保養。安井も御米も宗助同様、家庭的にはともかく、経済的には恵まれていたようだ。そしてこの3人が放蕩者でない以上、事件が起こる予感も予兆も何もない。『それから』の3人における人間関係のような緊張感すら感じさせない。いったい彼らの破綻のきっかけは何であったろうか。転地先での安井は平穏な性格を維持しており、高熱の影響があったとも思えない。宗助や御米は好色の気ぶりさえ見せない。

10回
 しかし事件は起こったのである。具体的な経緯は一切書かれない。小説をテクニカルに吟味すれば、この経緯の省略は『門』の弱点であると、所謂私小説作家なら言うところであろう。私小説作家でなくても、言うかも知れない。御米がなぜ安井を捨てて宗助に走ったか、合理でも非合理でも、そこに何か作者の主張が込められていなければ、この事件は単なるゴシップに過ぎない。
 そして疑問はそこで終わらず、3人の金持ちが社会倫理に反したからといって、いきなり3人とも貧乏になってしまうというストーリィ展開は、やはり無理があるのではないか。漱石の金銭感覚はどこかおかしいのではないか。
 結局漱石の主張が勝つのである。『門』を凌駕する私小説は書かれなかった。『三四郎』『それから』はさらにその上に君臨する。明治大正の小説で漱石を超えるものはない。今後さらに百年たったとしても、この結果が変わるとはとても思えない。