明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 22

108.『門』人物一覧(4)――『門』目次第18章~第23章

 

第18章 山門(1)
     明治43年1月15日(土)頃~1月25日(火)頃
1回 宗助・御米・――・同僚
2回 宗助・――・――・釈宜道
3回 宗助・――・――・釈宜道
4回 宗助・――・――・釈宜道・老師
5回 宗助・――・――
6回 宗助・――・――・釈宜道
7回 宗助・――・――・釈宜道・居士

第19章 山門(2)
     明治43年1月15日(土)頃~1月25日(火)頃
1回 宗助・――・――・釈宜道・僧たち
2回 宗助・――・――・老師

第20章 山門(3)
     明治43年1月15日(土)頃~1月25日(火)頃
1回 宗助・――・――・釈宜道
2回 宗助・――・――・釈宜道・老師・僧たち

第21章 山門(4)
     明治43年1月15日(土)頃~1月25日(火)頃
1回 宗助・――・――・釈宜道
2回 宗助・――・――・釈宜道・老師

第22章 帰宅
     明治43年1月末
1回 宗助・御米・小六
2回 宗助・――・――・坂井・坂井の子たち
3回 宗助・――・――・坂井

第23章 大団円
     明治43年2月~3月上旬
全1回 宗助・御米・小六

 鎌倉以降、『門』は急に詰まらなくなる。章分けの根拠もよく分からない。全部で12回の参禅であるが、漱石作品の中では異例の退屈な頁群または章群であろう。
 宗助当人の感想。「疲れた」
 留守を預かる御米の感想。「風呂へ行って髭を剃れ」
 同じく小六の感想。「1日幾らかかるのか」

 もちろん当事者の反応などというものは、いつでもこんなものであろうが、これでは読者は、宗助の参禅の意味を探ろうにも、手掛かりすら掴めないではないか。
 結論は最終章(第23章)の前に坂井によって象徴的に語られる(第22章)。宗助がいくら安井の影に怯えても、(弁慶橋の蛙のような)石で頭を割られる心配はないのである。生きておりさえすればいい。御米も小六も同意見であろう。御米は表現者ではないから、ただそう信じるだけである。

「格好は何うでも、食いさえすれば可いんだ」(15ノ1回)

 うんうん唸ってのし餅を截ったときの小六の感想もまた、3人の共通した結論であった。

後篇のまとめ

 全48回のうち、

・宗助・御米・小六の回  6回
・宗助・御米の回    17回
・宗助だけの回     25回 
・合計         48回

 やはり宗助だけでは『門』は支えきれないのではないか。女が登場しないと漱石は面白味が半減する。
 ここで前篇全56回を再録する。

・宗助・御米・小六の回 19回
・宗助・御米の回    22回
・宗助・小六の回     2回
・御米・小六の回     4回
・宗助だけの回      7回
・御米だけの回      2回
小六だけの回      0回 
・合計         56回

 合算すると、『門』全104回では、

・宗助・御米・小六の回 25回
・宗助・御米の回    39回
・宗助・小六の回     2回
・御米・小六の回     4回※
・宗助だけの回     32回
・御米だけの回      2回※
小六だけの回      0回 
・合計        104回

 宗助が不在の回はこの6回※。宗助が出ている回は残りの98回である。
 対する御米が登場する回は70回である。7掛け。芯は強いが控え目なところも御米の長所であった。

(『門』人物一覧 畢)