明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」門篇 32

118.『門』一日一回(10)――『門』目次第22章~第23章(ドラフト版)

 

第22章 帰宅
明治43年1月25日(火)~1月27日(木)
(宗助・御米・小六・坂井・坂井の子たち)
1回 帰宅~御米と小六の感想~銭湯~同僚の感想~変わらぬ日
2回 宗助は坂井家を訪れ決着を図る~弟と安井は四五日前蒙古へ引揚げた
3回 坂井の話~弁慶橋の蛙の夫婦~宗助夫婦の運命

1回
 帰宅した宗助は御米に、坂井のこと小六のことをさり気なく聞く。「宗助は年来住み慣れた家の座敷に坐って」と書かれるが、明治40年6月頃福岡から上京して、まだ2年8ヶ月である。2年8ヶ月を「年来住み慣れた」と書いて勿論おかしくはない。漱石自身は明治40年9月末西片から早稲田南町へ最後の転居を行なった。『門』の脱稿は明治43年6月初めだから、その時点で早稲田に棲み暮らしている年月は、ちょうど同じ2年8ヶ月になる。西片は9ヶ月、『猫』を生んだ千駄木が当時一番長くて3年10ヶ月である。「年来住み慣れた」と書くには、せめてこのくらい、とは思うが、それはやはり漱石に従うしかないであろう。
 それよりこの章では下女の清が登場しないのが不思議である。宗助の留守を預かる家族が、御米と小六の2人だけであれば、『門』という小説は別なものになってしまう。帰宅した宗助を迎える人の中に清がいないわけがない。翌日の役所の同僚でさえ描かれているのだから、漱石が清を省略したことに何か格段の理由があるのだろうか。

2回
 安井が蒙古へ帰ったのは、苦しんだ宗助が庵室でちょうど「私のようなものには到底悟りは開かれそうにありません」と宣道に白状した頃に合致する。漱石自身が「帰る二三日前」だの「四五日前帰りました」だのと書いているので、読者はついカレンダーを確認してしまうが、安井はまことに好いタイミングで引き揚げたことになる。坂井は嘘を言ったわけではあるまい。漱石の分身たる坂井は漱石同様嘘の吐けない男である。しかし口の軽い坂井が安井に隣人宗助のことをしゃべって、安井だけが気が付いてとぼけているという可能性はゼロではない。安井は何も語らず確認する必要も認めず、坂井の門を永久に離れることにしたのだろうか。
 もっとも坂井は自分の弟とその同類の安井に、社会からの冒険的落伍者を見ているのであり、宗助兄弟にもその片鱗を認めたはずであるから、坂井が事情を知って黙っている可能性もまた、ゼロではない。

3回
 物語の最後の回まで来て、宗助の心は何事も片付かないまま、とうとう坂井も弁慶橋の蛙と共に退場である。小六の坂井家行きも、物語の本体で描かれることはなかった。小六が坂井の家へ書生に出て、宗助のキャリアを喋らない保証はないのだから、宗助は小六に口止めするか、その前に坂井に打ち明けてしまうか、それ以外に選択肢はないのであるが、漱石はそんな興醒めな展開になる前に『門』を閉じた。小説は最後まで宗助の心の問題を引き摺ったまま、あるいは宗助と御米の夫婦の物語として、完結したのである。

第23章 大団円
明治43年2月1日(火)~3月20日(日)
(宗助・御米・小六)
全1回 1ヶ月半の出来事を1回にまとめたエピローグ風の最終回

 物語は2月から3月に入り、官吏の増俸問題と淘汰も終結した。小六は2月中旬には坂井家に入ったのだろう。3月6日(日)宗助の5円昇給祝いの膳に招かれてやって来た。呼びに行ったのは前章では行方不明であった清である。小六が勝手口から訪れたラストシーンの意義は、前著でも強調したところ。梅の散ったり咲いたりするのを眺めながら、宗助は3月12日(土)、佐伯の叔母と安之助に小六の学費の分担を頼みに行く。
 この回、実際に登場してしゃべるのは宗助・御米・小六の3人だが、清・坂井・佐伯の叔母・安之助、漱石の筆の上では全員集合である。安之助は安さんとさえ書かれる。そしてある日曜日、久しぶりに日の高いうちに銭湯へ行った宗助は、銭湯の客が鶯の鳴き始めを聞いたと話しているのを耳にして、それを御米に披露する。そして日の当たる縁側で爪を剪りながら、名高い最後のセリフ。冒頭シーンにそのまま繋がる印象深い結びである。小説の始まりと終わりが同じ場所である作品は『門』だけである。『道草』もそう見えなくはないが、『門』ほどにはむき出しではない。
 湯上りに爪切りはよくないと、母を早くに亡くした宗助に注意する者はいなかったのかも知れないが、それはともかく、この日曜日は明治43年3月20日と推測される。日曜日に始まって日曜日に終わる。永く教師生活を送った漱石にとって、『門』は安息の中で巣立ちをした小説であった。

(『門』1日1回 畢)