明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」それから篇 12

75.『それから』なぜ年次を間違えるのか(1)――『門』小六の学年


『門』の年表は門篇で考察すればよいとは思う。しかし本項の始めに『それから』の年表を作成して、そこに1年の錯誤があったときにすぐ気づけばよかったのであるが、そもそも年表の問題については、『三四郎』『それから』『門』の3点セットで考えるべきであった。
 といっても分かりにくい話ではあるが、とりあえず作業だけ進めることにして、ここで『門』の年表についても検証してみよう。

 1章から3章まで(全9回)、秋のある日曜日、宗助の家を小六が訪れる。伊藤博文暗殺の号外(明治42年10月26日)を5、6日前と言っているから、物語の始まりであるこの日曜日は明治42年10月31日であることが分かる。
 4章(全14回)になると昔話が丁寧に語られる。

 宗助と小六の間には、まだ二人程男の子が挟まっていたが、何れも早世して仕舞ったので、兄弟とは云いながら、年は十許り違っている。其上宗助はある事情のために、一年の時京都へ転学したから、朝夕一所に生活していたのは、小六の十二三の時迄である。(『門』4ノ3回冒頭)

 二年の時宗助は大学を去らなければならない事になった。東京の家へも帰れない事になった。京都からすぐ広島へ行って、そこに半年ばかり暮らしているうちに父が死んだ。母は父よりも六年程前に死んでいた。だから後には二十五六になる妾と、十六になる小六が残った丈であった。(4ノ3回)

 父の葬式を済ませた後、小六の世話と家の売却を叔父に託してまた広島へ帰って行く。

 それから半年ばかりして、叔父の自筆で、家はとうとう売れたから安心しろと云う手紙が来たが、幾何に売れたとも何とも書いてないので、折り返して聞き合せると、二週間程経っての返事に、優に例の立替を償うに足る金額だから心配しなくても好いとあった。(4ノ4回冒頭)

 仕方がないから、猶三四回書面で往復を重ねて見たが、結果はいつも同じ事で、版行で押した様にいずれ御面会の節を繰り返して来る丈であった。
 ・・・三ヶ月ばかりして、漸く都合が付いたので、久し振りに御米を連れて、出京しようと思う矢先に、つい風邪を引いて寝たのが元で、腸窒扶斯に変化したため、六十日余りを床の上に暮らした上に、あとの三十日程は充分仕事も出来ない位衰えて仕舞った。
 病気が本復してから間もなく、宗助は又広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。移る前に、好い機会だから一寸東京迄出たいものだと考えているうちに、今度も色々の事情に制せられて、つい夫も遂行せずに、矢張り下り列車の走る方に自己の運命を托した。其頃は東京の家を畳むとき、懐にして出た金は、殆んど使い果たしていた。彼の福岡生活は前後二年を通じて、中々の苦闘であった。(4ノ4回)

 夫婦がこんな風に淋しく睦まじく暮らして来た二年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代には大変懇意であった杉原と云う男に偶然出逢った。・・・宗助が福岡から東京へ移れる様になったのは、全く此杉原の御蔭である。(4ノ5回)

 宗助が此時叔母から聞いた言葉は、
「おや宗さん、少時御目に掛からないうちに、大変御老けなすった事」という一句であった。御米は其折始めて叔父夫婦に紹介された。
「これが彼(あの)……」と叔母は逡巡って宗助の方を見た。御米は何と挨拶のしようもないので、無言の儘唯頭を下げた。
 小六も無論叔父夫婦と共に二人を迎いに来ていた。宗助は一眼其姿を見たとき、何時の間にか自分を凌ぐ様に大きくなった弟の発育に驚ろかされた。小六は其時中学を出て、是から高等学校へ這入ろうという間際であった。宗助を見て、「兄さん」とも「御帰りなさい」とも云わないで、ただ不器用に挨拶をした。(4ノ6回)

 家を持って彼是取り紛れているうちに、早半月余も経ったが、地方にいる時分あんなに気にしていた家邸の事は、ついまだ叔父に言い出さずにいた。
 ・ ・ ・
 又十日程経った。すると今度は宗助の方から、
「御米、あの事は未だ云わないよ。どうも云うのが面倒で厭になった」と云い出した。(4ノ6回)

「本当に、怖いもんですね。元はあんな寝入った子じゃなかったが、――どうも燥急(はしゃ)ぎ過ぎる位活溌でしたからね。それが二三年見ないうちに、丸で別の人見た様に老けちまって。今じゃ貴方より御爺さん御爺さんしていますよ」(4ノ7回)

 両家族はこの状態で約一年ばかりを送った。すると宗助よりも気分は若いと許された叔父が突然死んだ。病症は脊髄脳膜炎とかいう劇症で、二三日風邪の気味で寝ていたが、便所へ行った帰りに、手を洗おうとして、柄杓を持った儘卒倒したなり、一日経つか経たないうちに冷たくなって仕舞ったのである。
「御米、叔父はとうとう話をしずに死んで仕舞ったよ」と宗助が云った。
「貴方まだ、あの事を聞く積だったの、貴方も随分執念深いのね」と御米が云った。
 夫から又一年ばかり経ったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生になった叔母は安之助と一所に中六番町に引き移った。(4ノ7回末尾)

 三年目の夏休みに小六は房州の海水浴へ行った。そこに一月余りも滞在しているうちに九月になり掛けたので、保田から向こうへ突切って、上総の海岸を九十九里伝いに、銚子迄来たが、そこから思い出した様に東京へ帰った。(4ノ8回冒頭)

 そして物語のスタート10月(31日)に繋がる。ざっと数えても京都2年、広島1年、福岡2年、東京2年。宗助が大学に入学して7年が経過している。
 ところで年表を作成する前に、上記4ノ7回末尾の「小六が高等学校の二年生になった。」は、「小六が高等学校の三年生になった。」の誤りであることに、すぐ気が付くはずである。『門』は自筆原稿が残されているから誤植ではあるまい。しかしこのくだりを訂正(注記でも)された『門』の本文を見たことがない。
 宗助と御米が東京へ舞い戻ったとき、小六は高等学校へ入学するところであった。1年後佐伯の叔父が急死した。小六は2年生になるだろう。「それからまた1年たった」ら、小六は3年生ではないか。小六は3年生になる夏休みに(漱石と同じく)房州旅行をした、とちゃんと書いてある。